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それから騒ぎはかなり大きくなってしまった。第一夫人の顔の右側に、ジィズゥの強力な粘着力を持った糸が張り付き、そうやすやすとはがれてくれなかったのだ。
この糸を、この蜘蛛が村の人間に向けてはなった事は一度もなく、村の人間たちは驚きを隠せなかったし、それに、足を一本喪った蜘蛛は、村の中が混乱している隙に、どこかに隠れてしまったのだ。
そしてカンニャンは、殺されるところだった、と大騒ぎする第一夫人や、第一夫人の顔の糸を何とかするべく、知恵を絞っている村の女性たち、メイホァ婆ちゃんとは離れた別の部屋で、族長である父に、事情を聴かれていた。
無論、平素子供さえ襲わない蜘蛛が、第一夫人を攻撃したとあって、村の年寄りたちも集まっている。
そんな中カンニャンは、出来るだけ正確に、今朝がた起きた事を話した。
いつも通り第一夫人に色々言われていた事。
繭の色の事で激昂した第一夫人が、蚕小屋の中で、あろうことか鞭をふるおうとしてきた事。
繭を庇おうとした自分を庇って、ジィズゥの足が一本潰された事。
それでもまだ第一夫人が鞭を打とうとしてきたから、ジィズゥが糸を吐いた事である。それを聞き族長も年寄りも皆、何とも言えない顔をした。
というのは、第一夫人のカンニャンいじめは村の誰もが知っている事になっていたからだ。
カンニャンが、さすがに繭を汚しかねない事はしないだろうと判断していた事を、責める事は出来ないから、カンニャンの注意不足だと責める事は出来ないし、兄弟のように育ったカンニャンを守ろうとした蜘蛛はなるほど、普段は威嚇音を出していた事から、身を盾にする事も可能性としてあったわけだ。
だが、一度村人、それも族長夫人を襲った蜘蛛を、おとがめなし、という事で村に置いておくわけにはいかない。
「追い出すよりほかあるまい」
族長の言葉を聞き、カンニャンはそんな、と言葉を失った。だって彼女の相棒は何も悪い事はしていないし、だいたい、あんな風に鞭を振り上げて来る第一夫人には何のおとがめもないのか。
大切な大切な、彩燦蚕の蚕小屋で流血沙汰を起こすところだったのに!
衝撃と怒りのあまり、言葉を失ったままのカンニャンを見て、族長が言う。
「仕方がないだろう、ジィズゥは蟲なのだ。人間に怪我をさせたら、追い出すよりほかはないだろう。それが仕方のない事なのだ」
「まさかあの温厚な蜘蛛が、子供に余程の事をされても噛みつきもしなかった蜘蛛が、第一夫人にそんな真似をしてしまうとは……」
老人たちも、実際に第一夫人の顔を見なかったら信じられない、蜘蛛の行動である。
子供に甘く、老人と女に優しく、男たちの事も気にかけていたあの蜘蛛が、こんな事をしたなんて、到底信じられないのだ、実際に見てみなければ。
しかし事実として、第一夫人の顔には今、そうやすやすとは剥がれない、粘着質の糸が張り付いている状態だ。
その場にいた全員が重い空気になる。そんな時だった。
「だがいいきっかけかもしれない」
ぽつりと、族長がそんな事を言ったのだ。それを聞き、村の老人たちも仕方がない、という顔をし始める。いったい何を父は言い出すのだろう。
「いいきっかけって何ですか、第一夫人はあんな事をしたのに、あんな風にジィズゥにひどい事したのに、何もなしで、私を庇った相方が追い出されるなんて理不尽だ!」
カンニャンが苛立ちで声を荒げた時だ。族長が重々しい声で、こう告げたのは。
「カンニャン、お前は都の、大叔父さんの家を頼りなさい」
「……は?」
「大叔父さんの家は、今、人手が足りないのだ。だから誰かをよこしてくれ、と連絡が来ていてな」
都の大叔父さん。その存在はかろうじてカンニャンも知っていた。父の大叔父さんであり、第一夫人に嫌われて、遠くに行ってしまったという人だ。まさか都に暮らしているとは、想定外だったが。
だがどうして、自分がそこを頼れと言われるのだ?
訳が分からない、という顔をした末娘に、父は言う。
「仮小屋が蟲に襲われた、という知らせがあった時、それを始めに聞いたのは妻と長女だった。だが二人は、それを私に知らせる前に、お前を仮小屋に行くように追い出したのだ」
それはつまり。
「……私が仮小屋で、肉食蟲に襲われるように、とですか」
嫌われているのは知っていた、でも殺したいほどだとは思ってもみなかった。だってカンニャンはこの村で今一番、彩燦蚕の世話が得意な、村にとってそれなりに大事な役割の娘なのだ。
そしてその娘が育てた蚕の糸で、美しい着物を作っている彼女たちが、まさか殺してしまおうなんて思っているなんて、思いもよらない事だったのだ。
「すまない……まさかそこまで、お前をあの二人が嫌っている糸は思ってもみなかった。カンニャンの糸で、毎年豪華な衣装を作っているのだから、嫌っていてもそこまでではないと思っていたのだ」
苦しげな声で、族長が頭を下げる。カンニャンは衝撃的な事実を聞かされたため、何を言っていいのかわからなくなっていた。
だが。
「父上は、このまま私がこの村にいたら、彼女たちに殺されるのだと、思っていらっしゃる?」
村の老人たちの前であるが、カンニャンは慎重な声で、聞かざるを得なかった。父が彼女たちをどう思っているのかはわからないけれど、彼女たちが、自分をそこまで嫌っているのならば、確かに、危険な事は多かった。
異変を告げる先触れが来るのは、族長の家なのだ。そして自分の暮らす小屋は、そこから一番離れている。知らせを受けるのも一番最後だ。
誰かが意図的にそれを隠して、危険な場所に誘導したりしたら、最悪の結果が起きるのは早い。山という物はそういう物だった。
そして村の老人たちの前であるが、族長は頷いて肯定した。そしてそれを否定できない村の老人たち。
彼等の前に広がった事実だけを見て、その事実を否定できる物は誰一人いなかったのだった。
「……父上は、私に死なれたくないから、村を追い出すとおっしゃる?」
カンニャンは、震えた声で問いかけた。父は、真面目に頷いた。
「いなくなったお前の母にも、死んだであろうおまえの兄か姉にも、申し訳ない事をしたとずっと思っていた。お前まで彼女たちの行動の結果死んでしまったら、私は到底、許しておけない」
族長が、第一夫人を許さないと行動する。例えば離縁する。そうなったら、この村の亀裂はすさまじいものになるだろう。代々村長であり族長の家系であった第一夫人と離縁すれば、族長である父は族長のままではいられない。
そうなったら誰が族長になるか。第一夫人の新しい夫だ。もしくは長女の夫。
しかし、村の一番の収入源であった、大切な大切な彩燦蚕の育て主を殺した女族長や、族長夫人を、一体誰が敬うというのだ?
それが導くのは村の崩壊だ。そして村が崩壊しても、租税は続くだろう。とばっちりを受けるのは村の住人達の方だ。
そうなると、父は今は離縁できない。そしてカンニャンを殺すことは絶対にできない。
だが族長の家系の女を、追い出す事も出来ない。
ならば方法として残されているのは、カンニャンを遠くに逃がす事一択になってしまうのだ。
この時期に、彩燦蚕の育て主を、村から出す、というのははっきり言って馬鹿の所業だ。と客観的に見れば思うであろう。カンニャンも、役人たちだったら納得しないよな、と思ってしまう部分がある。
だが、父は、そんな大事な育て主を、追い出してまで、第一夫人と長女から逃がすと決めたのだ。
父の、精一杯の、愛だった。
だから、それが痛いほどわかったから、父が、母をあんな風に行方不明にしてしまった事を、ずっと後悔していると知っているから、頷いた。
「分かりました、私は出来る限り早く、この村を出ましょう」
「ふがいない父を、許してくれ、カンニャン」
「婿入りの族長という物は、弱い物ですね、父上」
苦い声で言ったカンニャンに、父はそうだな、と頷いた。
それに……と父が続ける。
「お前がいなければ、聡いあの蜘蛛は、この村にはきっと来ないだろう。お前がここから出ていけば、お前の後を追いかけてくれるかもしれない。大叔父は昔から、蟲という物に対して肯定的だから、お前の事も、ジィズゥの事も、きっと受け入れてくれるしな」
この村にいたら、ジィズゥが戻ってくるかもしれない。そうなったらこの村の大人たちは、あの蜘蛛を殺さなければならない事になる。
だが大人たちも、あの優しい、子供たちを何度も助けてくれた蜘蛛を、殺す真似なんてとてもできない。だが第一夫人に見つかったら何が起きるかわからない。
そう言った意味でも、カンニャンを外へ出す、という事は必要な事であったわけだ。