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なんだそれは。まるでジィズゥが、自分ではどうにもできない事が起きた時に、呼び寄せているみたいないい方だ。
「俺も、仕方がないから呼ばれている。借りが多すぎるからな」
男は仕方がないだろう、と言いたそうに言う。淡々とした言葉がここに来て初めて、人間らしさを乗せていた。
「……ええと」
聞きたい事はたくさんあったのだが、男がそれを封じる瞳を向けて来る。鮮やかな輝きを持った瞳で。
「ここを早く離れるぞ、この匂いは雨で強まる薪を使っている。じきに色々寄って来る」
「あ、うん……」
大きな肉食の蟲になんて、鉢合わせするつもりはない。ここには弓矢や槍はない。どうしたって蟲と争う装備ではないカンニャンが頷くと、男はそのまま歩き出す。
「村に戻るぞ」
「……うん」
「何を心配している」
「桃色の繭もないし、鮮朱根もないし……成果が何もないからさ」
「命あっての物種だ。お前が死ねば誰が彩燦蚕の世話をする、交配をする? お前はその技術によって、村でもかなり価値がある娘のはずだ。死ぬ方が問題だと、お前の父親は言うだろう」
「……私の事詳しくないか? ジィズゥと喋れるから知っているとか?」
彼女が冗談交じりに言った事に、その男は真面目に答えた。
「あれはよくしゃべる」
「あー……会話できるんだ……いいな……」
「うらやましいのか」
「一人で蚕の世話しながらいると、寂しい時があるから。ジィズゥと喋れたら楽しいのになと、思う事は多々ある」
家族の縁が薄いから、余計に、家族のように暮らしてきた蜘蛛との会話を夢見るのだ、とわかっているが、さすがにそこまで、この見知らぬ男に喋るカンニャンではなかった。
そのまま黙って濡れた山道を歩く。そこで不意に、彼女は周りの音があまりにもなさすぎる事にも気が付いたのだ。
普通、何か獣や小さな虫の気配や、音がするはずだ。
こんなに耳が痛くなるほど、雨の音と自分たちの足音だけしか聞こえないなんて、あり得ない。
この男は何をしたのだ?
本当に危なくない存在なのか?
そしてそれを問いかけて、男が豹変したらどうなる?
お伽話や老婆の昔がたりでよくある事として、不思議な存在に、不思議である事を問いかける事は礼儀知らずであるとされている。
そして礼儀知らずを怒った不思議な存在に罰せられる事だって、そう言った物語の中ではよくある話だ。
もしそれなら、自分が試されているなら。
口をつぐむしかない、とカンニャンは判断した。変わっている事に、気付かない事にしなければならない。
そう考えると、なるほど、蟲であるジィズゥと会話ができるという男が、やはりただものではないとわかるのだ。
そして、こんな状況で、獣も大型の蟲も何も出てこないまま歩くなんて、滅多にない。
カンニャンは気付かれないように周りを見回した。
そして、前方以外、深い霧がかかっている、摩訶不思議な周囲の様子にも気付いたのだ。
今までいろいろいっぱいいっぱいで、周りをよく見ていなかったせいで、気付くのがかなり遅れた。
……この男は霧とともに現れるのだろうか、それとも霧を連れて来るのだろうか。
前に会った時も霧が深かった。
そんな事を思った矢先だ。
「もう村だ」
「そんなに歩いていないだろう」
「だが村についたのだから仕方がない」
男が足を止めて、前を指さす。確かに、見慣れた、間違いのない彼女の村がそこに当たり前のようにあった。夢でも幻でもない、とカンニャンは頬をつねって確認した。
「……今度はお前の小屋を訪れる事にしよう」
そんな事をしているカンニャンの脇で、男が淡々とした声でそういう。どういう意味かと問いかけようとした彼女だったが、急に色々な音が押し寄せて来て、それによろめいた時にはもう、男は全く見当たらなくなっていた。
雨の音が、強く強く感じられる。木々のざわめきも、風の音も、村の人間が動き回る音も、何もかもが一気に迫ってきていた。
がさがさがさ、という音を立てて、彼女の前から現れたのは、相方だった。
「あー! 帰ってきてた!」
「族長! カンニャン山から下りて来てた!」
その相方の後ろから、数人の若者が現れて、よかったよかった、と涙ぐんでいる。
どういう事か、と言おうとした彼女に、走ってきた族長が同じように涙ぐみながら言ったのだ。
「ああよかった、数刻前に隣村から先触れがきていて、仮小屋が蟲に大きく壊されているから、次の冬まで近寄ってはいけないという話があったんだ」
「村の全員に知らせようとしたら、お前だけいなくてな」
そう言ったのはボーアイだ。ほっとした顔をしている。
「どこに行ったんだと村中探し回ったら、子供たちが、山に入ったという物だから、もしもの事がある前に、探しに行くと族長が言って、村の住人を数人集めて、山に入ろうとしていたところだったんだ」
「雨なのに」
「雨だからだ。次の冬まで残る匂いが、雨で強まっていたら、お前死んでいるだろうが」
「……うん」
カンニャンは頷いた。霧の男の事を話そうかと思ったが、それを言ってはいけないと、直感が囁いていた。