18
山の天気は急変する、あ、まずいなと思ったら、すぐに山を下りて村に戻るのが正しい行動だろう。
だがカンニャンはそれが出来なかった。
仮小屋があるはずの場所まで、あと少し、というところで、彼女は空が急に怪しくなってきた事に気が付いたのだ。
これはまずい、早く仮小屋に入り、体勢を整えなければ。
この場所から村まで戻る間に、自身がずぶぬれになり、濡れた足場の悪い山道で、足を踏み外し手怪我をする可能性の方が、高いと判断したのだ。
ゆえに彼女は足早に仮小屋の方に進み、目的地に到着して言葉を失った。
「おいおいおい……」
仮小屋は、あったのだ。あったのは事実だった。
が、そこに広がっていた光景は、彼女の知っている光景とは大きく異なっていたのだ。
そこには、まあある程度拠点として成り立つ小屋が、立っていた痕跡はある。しかし、そこはもはや拠点として成り立たない状態まで、大きく様変わりしていた。
降り出した雨はもはや簡単な装備では防げないほどで、滴るほどぬれねずみになる未来も近いだろう。
そんな状況で、この光景はさすがに、カンニャンほどの根性のある少女でも辛かった。
仮小屋は、一体何に襲われたらこうなるのだろう、と思うほど無残に、壊されていたのだ。
押しつぶされたかのような屋根は、屋根としての機能などまるでなく、屋根を失い柱の倒れた小屋の壁はそのままくずれ、やはり何か重量のある物にのしかかられたような有様。
カンニャンは恐る恐るそこに近付いた。
ここは村の人間がよく使っていた仮小屋だ。壊されていたのなら、族長に報告し、新たに作り直さなければならないだろう。
しかしそのためには、まず、何が起きてここがこんな状態になったのか、調べなければならない。
こんな雨の中、やる事ではないだろう。
だがカンニャンはそこに近付いた、それは何故か?
それはこの小屋の中に、何かこれから先使える道具などが残されているか知りたかったからだ。
義姉の傘に殴られる事を避けるために、かなりの軽装でここまで来てしまった彼女は、あまりにも、色々な道具が足りなかった。
ここで何か装備を……と思うのはある程度仕方がない事だった。
彼女が、一歩一歩そこに近付こうとした、その時だ。
「やめろ」
不意に、彼女の背後から淡々とした声がかけられた。
いくら雨の音に紛れていたとしても、誰か人間が近寄って来る事に、気付けないカンニャンではない。
ひっくり返りそうなほど驚きながらも、そちらを振り返ると、そこには男が一人、雨の中立っていた。
酷い雨を防ぐためだろうか、頭から布をかけ、両手を添えている。その布の陰から見えた衣類の模様は、カンニャンの村の印に似た模様だ。
布の陰に隠れて、顔はまるで分らないのだが、この男は一体誰なのだ。
カンニャンはじりじりと後ろに下がろうとした。そこで、ここでも相方が姿を消している事に気が付く。
ジィズゥが、こういった状況で、姿を消す事なんて普段だったらあり得ない。
かなりの数の蟲が、雨を嫌うように、あの蜘蛛も雨を嫌った。だから雨をしのげる場所に行ってしまったのか? 私を置いて?
そんな事はありえない、だって一度だって見捨てられた事なんてないのだ。
カンニャンが、見知らぬ男の一種不気味な雰囲気に圧倒されながらも、悲鳴をあげないためにそうやって考えていると、男がまた口を開いた。
「ずいぶんと、酷く壊されている。肉食の、頂上に近い所にいる蟲を呼び寄せた匂いが、まだそこにこびりついている。そこに触れたら、お前もそれらにとって、いい餌になるぞ」
その男は淡々と、何の感情も見えない声で、そんな事を言う。そこでカンニャンの鼻は、雨の濡れた土の匂いに混ざって、蟲を呼ぶ匂いが混ざっている事に気が付いた。
確かに、ここに触れたら、家探しをしたら。
臭いが服などについて、蟲に狙われるだろう。それ位わからないわけがなかった。
それを教えてくれるという事は、この男は不気味だが、悪い男ではないのでは?
カンニャンの中に、そんな考えが芽生えたその時だ。
その男の後ろから、雨でも移動する、雨蟷螂が現れたのは。
やはりこれは、山の頂上付近にいる、大型の肉食蟲であり、一人でこんなものに遭遇したら、生きて村になどたどり着けない蟲だった。
一人では無理だ、でも二人でも無理だ、ジィズゥもいない、でもここで何もせずに餌になるよりは。
先ほどまでの考えなど吹き飛ぶ、緊急事態に、カンニャンがなたを構えた時だ。
布を被った男が雨蟷螂の方を向き、片腕を一閃させたのだ。
何が投じられたのだろう。何か、が雨蟷螂を強かに打ち据えたのだ。大人の男より大きな蟲が、その一閃でよろめき、ばっと警戒の構えをとる。まずい、興奮させた、と血の気が引いていくカンニャンとは対照的に、男はそんな恐れなどみじんも感じさせない。
男は布の奥から、雨蟷螂をじっと見つめた様子だった。
しばし時が止まるような気分でいた……逃げ出そうとすれば注意をひき、自分が獲物になってしまう……と固まっていたカンニャンにとって、長い時間がたったように思ったのに、あまり時間は立っていなかったらしい。
雨蟷螂は、警戒の構えを解き、分が悪いと言わんばかりの態度で、木々の奥の方に去って行ったのだ。
「…………うそ……」
普通に考えて、あの程度で雨蟷螂が去っていく方法なんて存在しない。雨の中獲物を狙うあの蟲は、執念深く、そして狩りの名手でもあるはずだ。
それが、去った。男に何かされて、見つめられて。それだけで。
なんで……?
そう思いつつも、体が固まって動かない彼女の方を見て、男が布を被ったまま、またこちらを見る。
「あれは雨の中、匂いに釣られてきた方だな。このままだともっと来るぞ」
「そ、そう……」
「なんだ、足が動かなくなったか?」
男が彼女を少しだけ、からかうようにそんな事を言った。そんな状況じゃねえ、と言えなかったカンニャンだが、その言葉を聞き、慌てて仮小屋だったものから遠ざかったのは賢明だった。
「こちらに来い。この布はよく雨を防ぐ」
雨具の準備もなく、すでにびしょぬれの彼女に、男は淡々とした言葉を崩さずに呼びかけた。
カンニャンは、もう濡れすぎるほど濡れていたが、雨にこれ以上当たると、体温をどんどんと奪われて、体力ばかりが削られるとわかっていたから、素直に男に近付いた。
近付くほどにわかる、男の着ている物の模様の細かさと精密さは、相当な腕利きが仕上げたものに見える。
それも、カンニャンの暮らす村の模様を、描ける腕利きの。
男の被る布の下に入ったカンニャンは、そこで男を見上げる事になった。
男は、普通の目が二つ顔についていて、その上に艶やかな丸い飾りを、両眉の上に二つ、さらにその上の額に二つ飾り、さらに目の下にも同じ艶やかな丸い飾りを二つ飾っていた。
ずいぶんと変わった顔の飾り物だ。入れ墨はそれなりに見慣れていたカンニャンだが、こんな丸い飾りを、顔を彩る飾りにした男は、見た事がなかった。
男の顔はそして、ずいぶんと整った物だった。近くで見ると、その整い方が、背筋が寒くなるほどのものだと、よく分かった。
そして……その男に、見覚えがある理由もまた、分かった。
「ジィズゥが、困ってるって言った、人でしょう、あんた」
「なんだ、忘れたかと思っていた」
「その後の事が印象に残ってたから、忘れなかった」
あの男だ。ジィズゥとはぐれた時、大蜘蛛が落とし穴の所で困っている、と場所を教えてくれた、カンニャンの村の印をまとう男。
同じ顔だ。さすがにわかる。
もしかして、また、ジィズゥが何かを見つけて困っていると、教えに来てくれた……幽霊だろうか?
ちらっと足元を見たカンニャンは、男の足がちゃんと生えているから、幽霊じゃないのか、じゃあなんだ、と考えた。
だが、悪さをする幽霊とかではなさそうなのは、確かだ。
悪さをするなら、とっくに、自分を雨蟷螂の餌にしているはずだからだ。
「また、ジィズゥが?」
「あの蜘蛛は、喋れないからな。俺を呼んだ。警告しろと。人使いが荒い蜘蛛だ」




