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だが彼女は、ここの匂いが臭いといって、滅多にここまでやってこないので、油断したといえば油断したのだろう。
カンニャンは身を起こした。そしてそのまま手元に靴を引き寄せて、懐に携帯食をつっこみ、背負子を背負って立ち上がった。
じっとしていると、手持ちの傘で強かに殴って来るのが、この長女の気性なのだ。
ジィズゥと別行動をしていると、それを狙ったように殴って来る長女であるため、カンニャンはこれまで何回も、彼女の傘の被害に遭っていた。
そのため、彼女のいう事を聞かない方が、色々面倒だとわかっているからこその、反応だった。
「いま行きますよ、今」
「私に呼ばれるまで動かないなんて、なんて怠け者なのかしら! 嫁の貰い手もいないわね!」
そのネタはもう古いのではないだろうか。すっかり聞きなれて、擦り切れるほど聞いているような悪口である。
あんたその怠け者の努力で出来上がった繭の中でも、特にいい奴を着物に使っているんだけどな、とは言わない。言うと癇癪を起すかもしれないので、それは面倒くさいのだ。
背負子を背負った状態では、大蜘蛛を背負えないため、蜘蛛が彼女の前を進む。当然出入口には義姉がいて、大蜘蛛を見て思いっきり嫌悪感をにじませた顔で言う。
「ああ、薄気味悪い蟲! 大きすぎるわ、それに気持ち悪いまだら模様! 私の前に現れないで頂戴!」
「では子供たちに声をかけてから、山に登りますので」
カンニャンは丁寧に声をかけ、彼女の脇を通る。その時、彼女がさっと、持っていた飾り物の傘を彼女の前に出したため、カンニャンは危うく転倒するところだった。
しかし、この嫌がらせもすっかりお決まりなので、カンニャンはそれを見る事無く避け、彼女の嫌がらせなど気付いていない顔をする。
会うたびにやられていたら、さすがに慣れるのだ。
この嫌がらせに引っかからなかったカンニャンを見て、彼女は思い切り顔を歪ませ、傘を振り上げようとし……それをじっと見ている蜘蛛に気付き、
「本当に生意気な蜘蛛」
と傘をおろして小さな声で言った。
聞いていないふりをして、カンニャンは羊蟲小屋に入る。そこではもこもこの羊蟲にうずまった怪我人と、各々お気に入りの、名前まで付けている羊蟲に引っ付いている子供たちが寝ている。
しかし、数人は起きだしていた。早起きの奴らだ。カンニャンは彼等に声をかけた。
「これから、山に入って野蚕の繭を探してくるから、お客人の事お願いしても大丈夫?」
「任せて! あんちゃんの事は大丈夫! 羊蟲があんなに気にいるあんちゃんだもの、悪い大人じゃないだろうし」
「こっちまで聞こえてた。また村長の娘が色々カンニャンに無理言ってるんだろ」
「しょうがないしょうがない」
「カンニャンは心が広いよな」
「それを言ったらジィズゥの方が心が広い!」
「確かに!」
「まあな、私の大蜘蛛は心が広いんだ。ま、とにかく頼んだよ、お客人のお世話だったら、おばさんたちも怒らないだろうし」
「うん」
「いってらっしゃい」
「いってきまーす」
カンニャンはそう言って、子供たちに手を振り、小屋を出てそのまま山に登って行った。
食事もとる前に、第一夫人の娘……義姉に小屋から追い出されたカンニャンは、ある程度山の中に入ってから、懐に入れていた携帯食を取り出した。
これは虫をすりつぶして、固形の脂と干した果実と木の実を混ぜ合わせて固めたもので、そこら辺のものよりもずいぶん日持ちがする、かなり使い勝手のいい携帯食だ。
山に登る時、村の人間はこれを懐にしまっておく。
山の中で、重い荷物は致命的な事も多いし、煮炊きすることなく食事ができるこれは、重宝されるのだ。
まあ、出来るなら誰だって、火を熾してから、干した餅を煮る食べ物のほうが好ましい。炎は獣除けになる事も多いし、炎の熱は蟲だろうが獣だろうが、かなりの確率でひるませる事が出来る。
蟲や獣によっては、火の熱と明るさを極端に恐れる種もいるため、夜だったら間違いなく、火を熾した方が安全だ。
このあたりには人間の盗賊が少ないから、そう言った事になるわけだ。人間の盗賊が多かったら、火を熾すことをためらう場合も多いだろう。炎は獲物の目印になってしまうわけなのだ。
カンニャンはとりあえず、携帯食を一口かじった。ねっとりとした歯ごたえのそれは、脂が口の中で溶けてゆき、炒った木の実と甘い干した果実の味が何とも言えない。すりつぶした蟲の香ばしさもたまらない味で、これは各家庭に調合法があり、家によって味が千差万別という、このあたりではおふくろの味、とまで言われる食べ物だった。
これを上手に作れるようになったら、お嫁に行ってもいじめられない、というのはよく聞く話である。
ちなみにカンニャンは、これの作り方を母親から習った事はない。母親は彼女にそれを教える前に、亡くした子供の事を思って、山に去って行ってしまった人だ。
だからこれの味は、先代のカンニャンが教えてくれた調合法の味である。
数年前に、体力に問題が出て来て、長時間歩けなくなった彼女は、今は銀月蚕の世話に忙しい人でもある。
母親代わりはたくさんいるが、実用的な事を教えてくれる人も、村にはたくさんいるのだ。
刺繍とか、染め物とか、耳飾りの作り方とか、髪飾りの磨きかたとか、そんな物は、第一夫人以下、族長の夫人たちが目を光らせていたから、教えてもらえることはなかったし、カンニャンになった以上、それの練習をする余裕など、彼女にもなかったから、まあいいのだが。
さて、山を歩きながら、もちゃもちゃと携帯食をかじっていたカンニャンは、目的の湧き水が流れている場所に到着した。
というのも、起き抜けに義姉がきて、彼女を追い立てたため、飲み水の用意だってできなかったのだ。そのため、空っぽの水筒を持ったカンニャンは、第一に飲み水の確保のため、この場所を目指していたわけだった。
「まったく、急かしても桃色の繭は見つからないのに。ねえ、ジィズゥ」
蜘蛛は人間の言葉を話さない。だから相槌だって求めていない。独り言を聞いてもらうような事もあるから、カンニャンは続けた。
「それに、桃色の繭なんて、野蚕の中では滅多に見つからないんだっての。桃色は山の緑に隠れないから、直ぐに他の肉食の蟲に見つかって食われちまうから、使える状態で見つかる事も、少ないんだよなあ」
防水性の高い、蟲の皮を加工した水筒に水を入れたカンニャンは、どっちの方角に、繭が多そうか考えた。
やっぱり、野蚕の食べる葉っぱが多く茂る方角がいいだろう。
そうなるとこちらの方角で……自分の現在地から、進むべき場所を確認したカンニャンは、ため息をついた。
「ジィズゥ、今日は野宿になりそうだ」
その方角に向うのには一日がかり、さらに探し物をしながら進むとなったら、短くて三日はかかる距離になってしまったのだ。
「野蚕ってだけなら、それなりに見つかるんだけど、桃色ってのは大変なんだよ。おまけに鮮朱根が生えている方向と、あっちは逆なんだっての」
鮮朱根は山の反対の方向に、群生している事が多い植物だ。桃色の繭を探して、それから鮮朱根を探して、なんてしていたら、十日は山の中を潜るしかない。
そもそも、それだけ山の中を探し回る事が分かっていたら、もっと装備を整えてから行くものだと、皆わかっている。
「傘で殴られるの覚悟で、持ち物ちゃんと持ってから山に入るべきだったな……」
傘で殴られたくないからと、持ち物を整えないで山に入った事を、カンニャンは結構後悔した。
だが。
「……仮小屋、どっちだったかな……」
こうも大きな山の中を、何日も探し回る事を仮定して、この山にはいくつかの簡単な造りの小屋があるのだ。泊まれる人数は少ないが、彼女一人と蜘蛛一匹なら大丈夫だろう。
野蚕の繭を探しながら、その小屋を目指すか。そこを一度拠点にして、本格的に桃色の繭を探そう。
そう決めたカンニャンは、彼女をじっと見ていた相方に声をかけ、また山を進んでいった。




