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「いやですわ、あんな汚らしい匂いの男を、家に上げるなんて!」
男の様子を報告するため、そしてこれからの事を確認するために、朝一番に族長の四合院を訪れたカンニャンが聞いたのは、第一夫人の大声だった。
結構神経質な人だとは思っていたが、こんなに怒鳴るものだろうか。
そんな事をちらりと考えたカンニャンであるものの、彼女が来た事など気付かない第一夫人が、族長相手にぎゃんぎゃんと意見を述べている。
「それに、見知らぬ男を家に上げてしまえば、私の娘の嫁入りが滞ってしまうでしょう! 変な噂を立てられたり、万が一の間違いがあったら、嫁入りが出来なくなりますわ!」
「しかしだな、都からの方々は、丁重にあのお方をもてなせといっているし、その方が何かと……」
「私がこの家の直系ですの! 私の意見を聞けない夫はいりませんわ!」
あーあ、あいつらまたやってるぜ、と蜘蛛がいたらそんな事を視線に乗せるだろう。
この村の長の血筋である第一夫人は、事あるごとに、族長に、自分こそ正しい血統、自分の意見を聞くように、と意見を通すのだ。
そして婿入りしている族長は、だいたい妻のいう事を聞くほかなく、意見は通されるわけだ。
しかしこの騒ぎを、昨日あんなに男の事を心配していた男たちが聞いているのだろうか?
カンニャンが首を傾げた時、外から男たちが現れた。
どうやら朝一番に、身を清めた様子だ。確かに、朝の身支度のために、村の井戸に行く住人も客人も多い……
声をかけるかかけまいか、と考えたカンニャンとは違い、雷公と呼ばれていた壮年の男性は、彼女を見て近付いてきた。
「おお、あの方のご様子はどうだ」
「まあ、腫れているから多少は熱を出してましたよ、痛み止めは飲ませました。熱はある程度出した方が治りが早いものだから、メイホァ婆さんに様子を見てもらうつもりです」
「それはありがたい。あの方に見てもらえれば百人力。あの方の腕は、音に聞えたものなのだ」
婆ちゃんそんなに腕利きだったのかよ。知らなかった。というか、村の誰も婆ちゃんの若い頃のこと知らないんだよな……と内心で思いつつ、さっきの騒ぎはいったん収まったらしく、男たちがやってきた時には聞こえなくなっていた。
多分あの騒ぎが聞こえていたら、この雷公というおっちゃんが怒り狂って切り殺されかねない。それ位の剣幕を、このおっちゃんは持っていたわけだった。
「にしても、お前はあの匂いが平気なのか。わしらでもあれだけの匂いは耐えられないのに」
「臭いけど、私が拾ってきて手当てするって決めた相手なんでね。私が放置するわけにもいかないし、人道的にどうかと思うし、絶対によくなるって分かってるんだから我慢もする。しばらく鼻は馬鹿になるけど」
「……あの蜘蛛は逃げないのか」
獣だろうが何だろうが、激臭の場所には近寄らないと決まっている。理性ある人間が逃げる場所から、蜘蛛が離れないのかと、彼は問いかけて来ているのだ。
それにカンニャンは笑って頷いた。
「私の傍を離れないつもりらしいから、入口とか匂いがましな所にいてくれるんで」
今も、族長への報告のために掘立小屋を離れた彼女の代わりに、あの男を見てくれている。
「忠義ものの蟲だな……そんな忠義の蟲が存在するとは聞いた事がないが、実際にいるのだから納得するほかない」
「あはは。ジィズゥは忠義じゃないよ」
「そうなのか? お前のいう事を何もかも聞くわけではないのか?」
「ジィズゥは私より賢いよ、私がまずいことしたら止めるし。子供たちの面倒も見られるし、編み物とか機織りとかすごくうまいし。私よりいろいろできると思う」
「ますますただの蜘蛛ではなく、魔性の存在のようだが……悪さをしないなら魔性ではないという事か?」
「魔性だろうが何だろうが、私のジィズゥだからね」
カンニャンの自信たっぷりな言葉に、雷公は納得したようなしないような、そんな顔をした。
そう言って彼女は、外から族長へ声をかけた。
「もうし、族長。報告に上がりました」
「ああ、カンニャン。あの方の様子はどうだ? よくなりそうか?」
「熱を出していたものの、思ったよりも強い衰弱は見られませんでした。起き上がるのには何日かかるか、そう言うのはメイホァ婆ちゃんに見立ててもらう予定です。今はジィズゥが見ててくれてます。これからどうしますか」
「起き上がれるようになるまでは、床を移動させて悪化させても悪いだろう。起き上がれるようになるまではそちらで見ていてくれ。そうだ、彩燦蚕の繭の様子は、子供たちに見てもらう事にする。お前はしばらくあの方の看病に費やしてくれ」
「私が? 構わないですけど」
族長の家の使用人が、丁寧に世話をすると、言い出すと思っていたから、カンニャンにとってみれば少しだけ、意外な提案だった。
まあ彩燦蚕の様子を見る経験も、子供たちには必要だから、構わないのだが。
そこで雷公が口を挟んだ。
「族長、あの方をあんな掘立小屋にいつまでも寝かせる予定か?」
返答によっては切り捨てる、という空気がにじみかける。
それを察した族長がすぐさまそれを否定した。
「いいえ、そう言うわけではありません。しかしむやみに動かし、体調を悪化させるのも得策とは言えませんでしょう。起き上がれるほど回復するまでは、あそこで寝かせた方が早く良くなるのではないか、との判断です。それにこちらは何かと騒々しく、病人が安らかに眠れる場所とはとても……」
言葉を濁した族長、確かにこの四合院、めちゃくちゃうるさいもんな、異母姉たち……とカンニャンは心の中で思った。
彼女たちは毎日のように喧嘩しているのだ。よくまあ喧嘩のネタが尽きないものだと、村の子供たちが言うほどである。
そんなわけで、族長は全面的に、丁寧に扱いたいのだが色々な事情があり……という雰囲気をにじませている。
こんな村だからこそ、権力や金ではどうしようもない部分がある、と男たちは察したらしい。
「では、回復したらすぐ、一番良い場所に案内するのだぞ、絶対だからな」
「はい」
族長がこう言っても、第一夫人が嫌だって言ったらそれは聞かれないんだよなあ、とカンニャンは言わなかった。言わぬが花、という奴であるはずだ、たぶん。
雷公たちは色々な事情があってもう早急に帰らなければならないらしい。
というのも、彼等は仕事を皆放り出して、何が何でもあの男を見つけるためにここに来ていたのだ。
彼等には彼らの事情があり、仕方がないのだろう。
彼等は何度も何度も族長に、
「あの方を丁重に扱うのだぞ、絶対だぞ」
としつこすぎるくらい念を押していた。もしかしてそれだけ信用がないのか、とカンニャンが内心で思ったくらいだ。
色々な事を彼等は隠したまま、丁寧にあの男を面倒見ろと言っている自覚はあるらしい。
彼等は主街道に戻るために、早い時間に馬を駆って山道を降りて行った。
族長はそれを見送ったらしいが、とっくに掘立小屋に戻っていたカンニャンは、そんなのどうでもよかった。
男は意識を取り戻しておらず、彼女は彼が苦し気にうめくたびに熱の有無を確認し、メイホァ婆ちゃんが指示した時間を守って、重湯じみた粥を彼に飲み込ませ、メイホァ婆ちゃんが彼に薬を飲ませる事を手伝った。
彼女はその間ずっと男の側にいる事になり、彼女は山に入るための道具一式の手入れを行う。
この男が動けるようになったら、きっと四合院に連れられるだろうし、そうしたら自分はいつも通りの仕事に戻るわけで、山に野蚕の繭を取りに行くのである。
だって今年はまだたったの七つしか、繭を持ってきていないのだ。これではこの村の子供たちの正月の衣装は作れない量だし、乙女たちの小遣い稼ぎもできない。
朝っぱら、ジィズゥに病人を見てもらう間に、女たちにその事情を話したカンニャンは、大変に残念がられたのだ。
「仕方ないわね、あんたが見つけちゃったんだから」
「病人の世話までさせるなら、うちの息子が見つけりゃよかったのに!」
「カンニャンはこれからも仕事がたくさんあったのに!」
「でも、見つけた張本人じゃないのに、病人の世話を任せるのは嫌がりそうだものね」
「カンニャン、病人さんが四合院に入ったら、色々お願いね、私緑の繭が欲しいわ」
ちゃっかりしている娘などは、欲しい色の繭の指定もして来る。はいはい、覚えてればね、とカンニャンも慣れた調子で言い、心の中に留めておく。異母姉たちは桃色、こっちの乙女は緑色。覚える繭の色はたくさんだ。
野蚕は割合緑の色の繭が多いから、見つけるのもそこまで大変ではないだろう。
もっと言うと、野蚕の繭で、桃色を見つけて来いなんて言われた日には、カンニャンは三日も四日も山から戻れなくなってしまうのだ。
一度、深紅の繭を見つけて来い、と第一夫人に無茶ぶりされた年があり、その時カンニャンは、大怪我を負った。
その時の事はあまり覚えていないのだが、カンニャンは腹と胸を血まみれにして、ジィズゥの糸できつく止血された状態で、村のはずれで見つかったらしい。
ジィズゥが、がちがちがちと大きな音を鳴らし、犬蟲たちを騒がせ、その騒動でやってきた男たちに、カンニャンを見つけさせたのだと聞いている。
あと少し、手当てが間に合わなかったら死んでいた、とメイホァ婆ちゃんに断言された年だ。
そして、深紅の繭なんて言う、絶対に野蚕の繭では見つからない物を言いつけた第一夫人は、この時ばかりは祖母にこってりと怒られたそうだ。
その時の言葉が
「あの子が死んだら誰が、彩燦蚕の世話をするんだ! お前は愚かだ! お前はあの子と同じだけ稼げないくせに、馬鹿な事をやるんじゃない!」
という物だったので、カンニャンを憐れんで怒ったわけではない。
彩燦蚕の生糸は、この村の租税としてかなりの割合で納められる物だし、彩燦蚕の生糸は銀月蚕の生糸の、なんと八倍の価値で納めるもので、彩燦蚕の生糸を納められなかったら、村は冬の蓄えさえ絶対に賄えなくなってしまうのだ。
そんな価値のある蚕を育てるたった一人の娘に、なんて事をしてくれたんだ愚か者! と祖母に思いっきり怒られた第一夫人は、その年は割合大人しくなったものの、その祖母が寿命であの世に旅立った後は、やっぱりカンニャンにきつく当たるわけだった。
その時の傷痕は、今もカンニャンの体に残っている。カンニャンが、自分は嫁入りなど無縁のもの、と改めて強く認識させられる傷だった。だって自分で見てもあまりにも醜い傷なのだから。
「カンニャン、後で子供たちに、繭の出来具合の見方を教えておいてよ」
「子供たちも結構覚えてきたと思うけどな」
「あんたと同じくらいの凄腕に育ってほしいのさ」




