道芝露 ~木村重成最期の一日~
思い返せば、あっという間の人生だった。
慶長二十年五月五日深夜、風呂から上がった豊臣家臣木村長門守重成は、屋敷の一室で黒色の甲冑に身を包むと兜と陣羽織を脇に置いて座り、静かに眼を閉じていた。
隣では新妻の青柳が香を焚き続けている。
その薫りを、先刻よく洗ったばかりの髪から全身へと染み込ませるように纏いながら、思いをはせていた。
香の薫りが漂い、微かに揺れ動くろうそくの灯りに照らされた部屋の中には二人きり、だけどお互い無言のままだった。
元来、自分も青柳も余り多弁な方ではなかったけれど、今夜は特にそうなってしまった。
それにしても、いくら自分の母が主君である豊臣家の若君豊臣秀頼様の乳母を務めた宮内卿局だからと言って、所詮は女官の子。そんな自分が主君秀頼様の小姓となり、今では齢二十三歳にして三千石の知行を得る身となれたのも、兎にも角にも秀頼様の器量に寄るところが大きかったと思う。
秀頼様に仕えることができたことは、本当に幸運だった。
立場こそ大きく違うけれど、同い年と言うこともあり秀頼様は何かと自分を大切にしてくれた。時には家臣として、時には友として、何より馬が合ったのだと思う。大いにおこがましいけれど。ただ、秀頼様の母君である御袋様淀様のことは、ずっと苦手のままだったけれど。
本当に感謝と言う言葉だけでは到底足りないと思う。心底そう思う。
そんな秀頼様とは風呂に入る前にお会いできた。最後の御挨拶として。
少しばかり思い出話を交わした後に、秀頼様とは別れの盃を交わした。その時、体の大きな秀頼様が、その肩を震わせ涙ながらに「すまない」と言ってくれたので自分もつい泣けてきた。
だから足早にその場を後にした。これ以上、秀頼様と話していると別れが辛くなりすぎてしまいそうなので。
隣で無言のまま香を焚き続ける新妻の青柳は、自分より五歳年下の十八歳で豊臣家臣真野豊後守頼包の娘だった。
元々、青柳は大坂城内でも美女として有名だったらしいが、実のところほとんど面識もなく、だから青柳が密かに自分へ思いを寄せていたことも全く知らなかったので、まさか祝言を挙げることになるとは思ってもいなかった。
そんな青柳と祝言を挙げたのは、今年の一月七日のこと、まだ半年も経っていない。
大坂城内では、何やら眉目秀麗の美丈夫と美女の祝言として持てはやされたけど、自分ではそんなこと微塵も思ってはいなかった。
確かに青柳は色白で目も大きく美しいけれど、自分は、ただ少し背が高いだけで、昨年ようやく初陣を飾ったばかりの若輩者で、皆が言う程の美丈夫でも良い男だとも思ってはいない。
それならば自分なんかよりも自分の妹婿で義弟の山口左馬助弘定の方が背も高く切れ長の凛々しい眼をしているので、余程美丈夫だと思う。
それに実を言えば自分は当初、この祝言には余り乗り気ではなかった。自分は近い将来、死ぬ身なのだから。それなのに年若い妻を娶っては気の毒だと思って。
だけど、今では義父となった真野豊後守から
「青柳は、まだまだ未熟な娘なれど主人を一人で逝かせるような愚か者ではございませんから」
と言われて、ようやく祝言を挙げる覚悟ができた。
実際、祝言を挙げてみると、短い夫婦生活ではあったけれど、それは思っていた以上に愛おしく尊い日々だったように思う。その分、儚さもあって少し辛いけれど。
昨年の十一月には初陣を飾ることもできた。奇しくも豊臣家を討ち果たして名実ともに天下統一を果たすため大坂城へ攻め寄せてきた征夷大将軍徳川秀忠、大御所徳川家康率いる徳川方との戦だ。
この時、豊臣方は浪人を中心とする総勢約十万の軍勢で、対する徳川方は全国各地の大名が馳せ参じて総勢約二十万の大軍勢だった。
数では圧倒的に豊臣方の不利。頼みにしていた豊臣家恩顧の大名も誰一人として味方にはなってくれなかった。でも、豊臣方には今は亡き太閤殿下が築かれた難攻不落の大坂城と名将として名高い後藤隠岐守又兵衛殿、真田左衛門佐信繁殿の両将がいた。
だから、例え勝てなくても負けることはないと思った。内心では押し寄せる徳川方に対して「さっさと江戸や駿府へ帰れ」と思いながら。
そして自分も豊臣方の将として出陣し、攻め寄せる徳川方の佐竹右京大夫義宣の軍勢と今福村で戦った。これが初陣となった。
初陣では見事に勝つことができた。主君秀頼様からも戦功として感状と正宗の脇差を下賜されたけれど、その場で返上させて頂いた。感状は他家へ仕官する時等に有効なもの、豊臣家以外に仕える気のない自分には無用ですからと。
それに、あの初陣の勝利も自分と言うよりは、助力してくれた後藤又兵衛殿の力量に寄るところが殆どだ。
あの時の自分は、初陣と言う言葉に気負い過ぎたうえに初めての戦場の雰囲気にも圧倒されて、ただただ「かかれ!」「進め!」と叫び、一心不乱に槍を振るっていただけなので、正直余り覚えていない程なのだから。
そして何より、あの初陣では結果的に大切な家臣の大井何右衛門を死なせてしまったのだから。
それから約半年が経った今、自分もそして主君豊臣家も最期の時を迎えようとしている。
昨年の大坂城における戦には、まだ望みもあった。特に真田信繫殿が大坂城に築いた真田丸での攻防では徳川方に大損害を与えている。
けれど戦の最中に徳川方の度重なる砲撃に恐れをなした秀頼様の母君淀様が、後藤又兵衛殿や真田信繁殿の反対を押し切り徳川方と和議を結んでしまい終戦を迎えてしまった。
その和議に際しては、自分も秀頼様の正使として徳川方の征夷大将軍徳川秀忠から誓書を受け取っているけれど、ある意味、この時点で自分も豊臣家の運命も決してしまったのかもしれない。
和議を結んだ徳川方は、難攻不落を誇った大坂城の土塁や矢倉、石垣を軒並み破壊して堀と言う堀を埋め尽くしてしまった。強引だけれど、これが徳川方の和議の条件でもあった。いくら淀様やその側近大野修理大夫治長殿が反発しても遅かった。これが徳川のやり方だったのだから。
豊臣家は見込みが甘かった。年明けには難攻不落の大坂城も徳川方の手により堀や石垣をはじめとする防御の術を失って、まさに丸裸の城とされてしまった。
そして五月となり、再び徳川方が総勢約十五万を超える大軍勢を擁して大坂に押し寄せてきた。迎え撃つ豊臣方は、昨年よりも兵力を減らして総勢約七万程だったけれど、内心では、よくこんなんに集まったと思う。こんな丸裸で無力な城に。
ただ、裸の大坂城には籠城する力も選択肢も残されていなかった。野戦では兵力差がものを言う。それでも今回の戦では大坂城より打って出るしかなかった。僅かな勝機を見出すためにと言うよりも武士らしい死に場所を求めて。
だから、自分も五月に入ってから食事を制限していた。最期が見苦しくならないようにと。
おそらく徳川方は益々、兵力を増してくるだろう。既に勝敗は誰の眼にも明らかなのだから。
閉じていた眼をゆっくりと開けた。
漂う香の煙の向こうから、青柳が盆に載せた酒と盃を一つずつ運んできた。
いよいよだな、と思った。
隣に座った青柳が「どうぞ」と言って両手で盃を差し出してきた。
まだ少しだけあどけなさの残る青柳の瞳が薄っすらと赤く潤んでいる。きっと酒を取りに行った際、こっそり一人で泣いていたのだろう。
そう思うと胸が熱くなった。本当に愛おしい。
右手で盃を受け取ると、そんな青柳に向けて微かに八重歯を見せて笑ってみた。この八重歯を見せて笑う顔を青柳が「一番好きです」と言っていたから。
そして「すまない」と伝えた。
青柳も優しく微笑み返してきたけれど、盃に酒を注ぐ手は震えていた。
青柳に注がれた酒を静かに飲み干し、その盃を青柳に差し出した。
返盃を促された青柳は少し躊躇していたけれど、少しの間をおくと覚悟を決めたかのように両手で大切そうに盃を受け取ってくれた。ただ、その手はまだ微かに震えたままだったけれど。
お互い、この盃の意味は嫌でも分かっている。
青柳の盃にゆっくりと酒を注いだ。青柳は盃に注がれた酒を少し見つめてから、静かにゆっくりと、まるでこの時を惜しむかのように飲み干していた。その頬に一筋、二筋と涙が流れている。
胸が熱くなった。思わず青柳の白く小さな手を握りしめていた。まだ微かに震えているけれど温かい。おそらく青柳の肌に触れるのもこれが最後になるのだろう。そう思うと胸が張り裂けそうになったけれど、それを必死に堪えた。
そしていつもの呼び方で「青」と優しく呼んでみた。涙に潤んだ青柳の眼がこちらに向いた。それを優しく見つめ返して
「今まで世話になった」
と静かに伝えた。
青柳が小さく首を振り
「私こそ、お世話になりました」
と言って、自分の手を力一杯握り返してきた。
「何もしてあげられなかったけれど、重成は青を妻に迎えることができて心から幸せだった」
「私こそ…幸せでした…」
そう言うと青柳は涙に咽んだ。その姿を目の当たりにして色々な思いが込み上げてくる。内心、自分も涙が溢れそうになっていた。でも、今は、この最も愛おしい青柳にどうしても伝えなければいけないことがある。
だから、どうしてもと、涙で濡れる青柳の眼を見つめて口を開いた。
「本当に幸せだった…だから…」
もう一度、青柳の小さく温かい手を握り返した。その手に青柳の涙が何粒も滴り落ちてくる。
「だから…青は近江へ落ち延びてくれ…そして、生きてくれ」
涙ながらに首を振る青柳の手を何度も握り返した。
「愛おしいから生きていてほしい。重成の最後の願いだ。頼む」
そう言うと青柳から優しく手を離して、一度だけその頭を撫でてやった。艶やかでしなやかなこの黒髪も愛おしい、だから決して忘れないよ。
そして傍らに置いてあった陣羽織を羽織ると兜を手に立ち上がった。羽織った陣羽織は本来、白色だったけれど、今は右肩から半分が古い血で黒く染まっており、焚き染められた香に交じって微かだけど乾いた血の残り香もした。
「どうか、御武運を」
背中に青柳の声がした。涙声だったけれど、意を決したような力強さがこもっているようにも聞こえた。
その声の方を振り返ると、青柳が両手をついて平伏している。その背に優しく「青」と言ってみた。顔を上げた青柳の顔が涙でぐしゃぐしゃになっている。
本当にこれが最後なのだ。青柳と会うことも話すことも。だから、もう一度だけ青柳が好きだった八重歯を見せて小さく笑ってみた。
「では、行ってくる」
限界だった。それだけ言うと再び青柳に背を向けて部屋を出た。その瞬間、涙が零れてきた。幾つも幾つも、我慢していた分、一気に溢れてきた。でも、青柳には気付かれたくなかったから、分からないようにしばらく廊下を歩いてから涙を拭った。
許してくれ。手にした兜に拭いきれない涙が零れ落ちていた。
遠ざかる夫の足音聞きながら、青柳は嗚咽交じりに伏していた。
どうしてこんな運命に。どうして夫は死ななければいけないのか。これが武家の運命だと頭では分かっていても心が受け付けてくれない。どうして、どうして、と。
もう会うことが叶わないであろう夫が最後に見せてくれたあの笑顔、八重歯を見せて微笑む顔を思い浮かべながら青柳は両手でお腹を抱えた。
愛おしい夫には最後まで言えなかった。いや、決して言わないと決めていた。死を前にした夫に、この世への未練を残させないために。このお腹の中にあなたの子がいると言うことを。
だから、私は生きると決めました。この子を産むまでは。何があっても。あなたが生きた証として必ずこの子を産んで見せます。
屋敷を出ると、今年十五歳になったばかりの弟木村重之と妹婿で同い年の義弟山口左馬助弘定、それに木村家番頭の内藤新十郎長秋が駆け寄って来た。
三人とも既に黒色の甲冑に身を包んでいたけれど、おそらくは自分と青柳の最後の別れを邪魔しないようにと屋敷の外で待っていたようだ。
まだ顔に若干のあどけなさが残る弟重之が、兄愛用の白熊の母衣を大事そうに両手で抱えている。
「すまない。待たせた」
そう言うと義弟の左馬助が全てを察しているかのように「いえ」と短く応じた。
重之が「良い香りがしますね。兄上」と少しだけ子どもっぽく言いながら、番頭新十郎とともに白熊の母衣を背に括り付けてきた。
「兄上、それは」
左馬助の凛々しい眼がこちらに向いている。その視線が、今、自分が着ている右半分を黒く染めた白色の陣羽織を捉えていた。
「これは、何右衛門の陣羽織だ」
齢四十を超えた大井何右衛門は、木村家中でも数少ない武勇で知られた家臣だった。
昨年の初陣だった今福村での戦、この戦に何右衛門も出陣していた。確かにこの初陣は勝利で飾ることができた。後藤又兵衛殿の助力もあり敵の徳川方である佐竹右京大夫義宣の軍を打ち破り、佐竹家家老の渋江内膳政光も打ち取っている。
でも、大切な家臣の何右衛門を死なせてしまった。
あの日、初陣の勝利に意気揚々と戦場の今福村から引き上げる道中になって、初めて何右衛門の姿が見えないことに気が付いた。正直、舞い上がっていたのだと思う、初陣の勝利と初めての戦場の雰囲気に飲込まれて。
「しまった」と思った。軍勢を率いる将としてあってはならないことだとも。
だから、家臣の飯島三郎右衛門が制止するのも聞かず慌てて騎馬を駆り戦場に戻った。左馬助が「動けるものは続け!」と叫んで後を追いかけてくれていたけれど殆どお構いなしに駆けていた。
無数の戦死者が転がる戦場に戻ると、壊れた柵の傍らで倒れている何右衛門を見つけた。
急いで騎馬から下馬し何右衛門を抱え上げると微かに息があった。しかし、何右衛門の全身には幾つもの深い傷があって至るところから血も流れ出ている。誰がどう見ても重傷、手遅れだった。
「おい、何右衛門!何右衛門!」
腕の中で息も絶え絶えの何右衛門に呼びかけると、血塗れの何右衛門の瞼が僅かに開いた。
「…殿なぜ戻ってこられました…それがしになど構わず…早く逃げてくだされ…」
今まで聞いたことのない弱々しい何右衛門の声だった。
「見捨てるくらいなら、初めから助けになど来ない!生きろ何右衛門!」
精一杯声を張ったけれど何右衛門の瞼は再び力なく閉じてしまった。
すると敵の残党が一人、二人と自分や何右衛門のもとに群がり始めて来た。
そこで仕方なく一旦、腕の中の何右衛門を横にしてから群がる敵を槍で突き倒した。
心の中で「すまない。何右衛門」と繰り返しながら、次から次へと群がって来る敵と戦い続けた。
そこへようやく手勢を引き連れた左馬助が追い付いて来たので、左馬助に何右衛門を背負わせると、自分は殿を務めて大坂城まで引き揚げた。
大坂城内に入ると先に着いていた何右衛門が戸板の上に仰向けに載せられていた。
何右衛門の体は殆ど治療の甲斐をなさず、その全身は乾いた古い血と流れ出る血で赤黒く染まっていた。その脇には治療のために脱がされたのであろう、何右衛門が羽織っていた右半分を血で赤黒く染めた白色の陣羽織が置いてあった。
眼を閉じたまま微かに息をしている何右衛門の横に腰を下ろした。
そして「何右衛門」と言って、その右手を握った。
まだ温かい。それに弱々しい力だったけれど握り返してくる。
何右衛門が砂と血で覆われた瞼をゆっくりと開いた。血走った視線がこちらに向いている。
「…かたじけのうございました…殿…御武運を…先に逝っております」
途切れ途切れにそれだけ言って、何右衛門は両目を見開いたまま息を引き取った。
その両目を優しく閉じてやると、脇に置いてあった何右衛門の陣羽織を抱えて合掌した。すまない、何右衛門。と何度も繰り返しながら。
あの日の何右衛門の言葉は今も忘れてはいない。
「できましたよ、兄上」
背中で重之の少し自慢気な声がした。どうやら白熊の母衣を括り付け終えたようだ。
そんな重之たちに一度頷いて見せてから、再び左馬助の凛々しい眼を見つめて口を開いた。
「この戦には何右衛門も連れて行く。約束だからな」
そう約束だ。あの日、何右衛門は「先に逝く」と言っていたのだから。最早、この戦に勝ちは見出せそうにない。
「兄上らしいですね」
そう言って笑う左馬助からも、心地良い香の薫りが漂ってくる。きっと妻である自分の妹と今生の別れをしてきたのだろう。義兄弟とは言え考えることも同じだなと思うと少しだけ頬が緩んだ。
妹と左馬助も祝言を挙げてまだ日が浅かったけれど実に仲睦まじい夫婦だった。
先に見初めたのは妹の方だった。大坂城内で左馬助を一目見かけて惚れてしまったと。特にその切れ長の眼が気に入ってしまったとかで。そこから祝言まではとんとん拍子に話が進んだ。それにしても自分も左馬助も、お互い妻の方から先に見初められるなんて、そんなところまで一緒だったと思うと、もう一度だけ微かに頬が緩んだ。
左馬助らに案内されて大坂城玉造門前にある広場まで足を運んだけれど、着いた途端に思わず目を細めてしまった。目を細めてしまうのは幼い頃から考え事をする時の癖だった。
少なすぎる。松明に照らされた広場に参集している兵が思いの外少なすぎた。
時刻は間もなく五月六日子の刻正刻(午前0時)を迎えようとしている。
本来、総勢六千の木村勢は、子の刻正刻には大坂城から出陣する予定でいたし、家臣にもそう下知していたのだけれど、既に参集していた兵はまだ四千にも達していない。
察したかのように番頭の新十郎が口を開いた。
「兵は方々の屋敷に散らばっておりますので、参集には少し時を要しております」
「そうか」
少しだけため息が漏れそうになった。
「別れを惜しんでいるものもいるのでしょう」
と左馬助が続いたけれど、その声にも少しだけ苦々しい色が滲んでいた。
左馬助の横では年若く血の気も多い重之が「全く、だらしない」と腹立たしそうに言っているけれど、その様子が何とも可笑しくて、左馬助、新十郎とともに思わず笑ってしまった。
本当に可愛い弟だ。そして、せめて年若いこの弟だけは死なせたくないとも思った。
目の前に広がる参集もまばらな軍勢。その姿と影が松明に照らされ幾つにも揺れ動いている。
仕方のないことだ。自分も含めて昨年の戦が初陣だったものも多い。未熟な面も多々ある。内心、最後までこれかとも思ったけれど、不思議とそこまで、重之のように腹は立たなかった。
後藤又兵衛殿や真田信繫殿は既に大坂城を発している。大柄で豪快な又兵衛殿と痩躯で物静かな信繁殿とでは本当に対照的だけれど、御二方とも類まれな軍略の才を持っていることは昨年の戦で思い知らされた。これが経験してきた修羅場の差なのかとも。
自分にも御二方のような才が少しでもあれば、今のこの現状を打開できたのではないか、何右衛門を先に逝かせることもなかったのではないのだろうかと、どうしても思ってしまう。
それに、あの御二方なら、きっと立派に役目を果たし、そして見事に最期を迎えるのだろうとも。
それに引き換え自分は……
「ところで兄上」
ふと左馬助の声がして目を見開いた。
「うん」と頷き左馬助を見返すと
「兄上、やはり向かう先は」
と聞いてきた。
「ああ、若江村だ」
昨日、左馬助らとともに大坂城の付近一帯を視察した。その結果、攻め寄せる徳川方が大坂城の北東に位置する今福村方面から来襲する可能性は低いと判断した。
そのため逆に徳川方本陣の側面を突くことができる、大坂城南東にある若江村に進軍すると決めていた。
先の和議により徳川方の手によって籠城策を剥ぎ取られた豊臣方に残された策は城から打って出て野戦において各々が敵を撃破すると言う虚しいものしかなかった。
五月六日丑の刻正刻(午前二時)になって、ようやく甲冑から足軽の具足に至るまでを黒一色で統一した木村勢総勢六千の兵が整った。
ようやくだけれど、いよいよだ。そう思いながら手にしていた兜を被ると馬に跨り、そして総勢六千の軍勢の面前に立った。
松明に浮かび上がる六千の軍勢。その姿を一度見渡してから、脇に差した太刀へと手をやった。
太刀の差表には金象嵌で〈道芝露 木村長門守〉と入れられている。初めてこの太刀を見た時には、裁断銘の〈道芝露〉と言う言葉が、本来の切れ味と言う意味よりも、むしろ何とも儚い言葉、響きだなと感じた。
そして脇差ではなく、その太刀を抜くと結んだばかりの兜の忍緒の端を切って落とした。
六千の軍勢が一瞬にして静まり返ったけれど、横で馬を並べる左馬助だけは自分と同じように太刀を抜くと兜の忍緒の端を切って落とし、そしてこちらを向いている。
本当に左馬は。そう思って左馬助の顔を見た。目が合った途端、思わず二人とも頬が緩んでしまった。
古来より、兜の忍緒の端を切り落とすことは、生きて二度と兜を解かない意味。
今、その光景を目の当たりにして、弟の重之も番頭の新十郎も叔父の木村主計頭宗明、青木四郎右衛門久矩、それに家臣の飯島三郎右衛門をはじめその場に居合わせた家臣から足軽に至るまでの皆が一様にその覚悟を目にして涙を浮かべている。
「では、兄上」
「うん」
左馬助に促されて大きく息を吸った。そして目の前に整列する総勢六千の木村勢に向けて声を張った。
「我らはこれより若江村を目指す!皆、死を、死を恐れるな!」
「勝つ」とか「生きて帰ろう」なんてとても言えなかった。でも、目の前に居並ぶ六千の兵たちからは自分の声に呼応するかのように大歓声が巻き起こり、木村家の家紋である目結紋の旗が幾つも大きく揺れていた。
「出陣!」
左馬助の号令を合図に木村勢は玉造門へと向かった。この門から大坂城を発する。
そしておそらく二度と戻ることはない。
大坂城中のあちこちでは、美丈夫として人気の高かった重成の最後の姿を一目見ようと多くの女官たちが見送っていた。幾重ものすすり泣く声とともに。
その中に、一見質素だが気品ある着物に身を包んで数珠を手に重成の方へ向けて手を合わせる年配女官の姿があった。
重成と重之、それに重成の妹で左馬助の妻の母でもある宮内卿局だった。
この数日は敢えて会わないようにしていた。武士として死を覚悟した我が子に会えば必ず別れが辛くなるから。特に重成には、幼い頃から苦労ばかりかけてきたあの子に会えば、もう一度、あの子の幼い頃と同じ八重歯を出して笑う顔を見てしまったなら、きっと「行くな」「死ぬな」と言ってしまいそうで。例え武門の常とは言え、これ程、辛いことはなかった。
そして重成には最後の最後まで本当に辛い、酷な頼みまでしてしまって。それなのにあの子は、子どもの頃と変わらぬ笑顔で「大丈夫ですよ母上。お任せください」と答えてくれて、本当に会わせる顔がありません。
どうか重成をお守りください。先に逝った夫で重成の父である木村常陸介重玆へ、そう祈りと願いを込めて手を合わせ続けていた。
重成には決して気付かれないように、そっと物陰に隠れたままで。
罪深い母で申し訳ありません。私もすぐに参りますから。そう手を合わせ続ける母の頬に幾つもの涙が流れていた。
松明が覆う玉造門に差し掛かり、一度だけ馬上から大坂城本丸の方を振り返った。
そびえ建つ荘厳な天守閣。見慣れたはずなのに、今夜は少しだけ違って見えた。
これで最後、見納めだ…青、秀頼様、母上…天守閣に向けて一度静かに頭を下げると、前に向き直り騎馬を進めた。一瞬、青柳の顔が瞼の裏に浮かんだけれど、二度と振り返ることはしなかった。
重成の見つめた天守閣では、豊臣秀頼がその最後の出陣を見送っていた。
「すまない、長門」と嗚咽しながら、家臣と言うよりも友との最後の別れを惜しむかのように。
五月六日卯の刻初刻頃(午前五時頃)になり、ようやく玉串川の西にある若江村に到着した。
散々の行軍だった。濃霧や沼地に難儀して、また途中では道も間違えてしまい、改めて軍勢としても将としても未熟さを痛感させられてしまった。
目的地の若江村に着くなり、左馬助らと手短に軍議を開き、西進してくる徳川方に対して味方の陣を東向きに南北の三隊に分けて構えることにした。
北の左翼の陣には叔父の木村宗明隊、中央の本陣には自分の本隊と前方に先鋒部隊として左馬助隊、新十郎隊を配し、南の右翼の陣には長尾平太夫らの隊を配置した。
ただ、思いもよらぬ難所行軍で兵が疲弊していることと、陣を構えた若江村周辺が草地と砂地、泥地が混在していて思いの外足場が悪いことが気掛かりだった。
急いで陣を構えたのも束の間、右翼の長尾らの隊に対して激しい銃撃とともに敵襲があった。
さすがに早い、早すぎる。できれば一息入れたいところだったけれど、最早そうも言ってはいられない。
急いで馬に跨ると槍を手に取り「どこの軍勢だ」と聞いた。
顔を紅潮させた重之が「藤堂和泉守のようです」と答えた。
徳川方の藤堂和泉守高虎勢か。数多くの戦を経験した百戦錬磨の軍勢だ。正直手強い、右翼の隊だけでは厳しいだろうと思った。
「左翼を残し、本隊、それに左馬や新十郎の隊も右翼に向かへ!」
そう下知すると本隊の軍勢を引き連れ騎馬で駆け出した。横で騎馬を駆る重之も槍を片手に遅れまいと必死に付いて来た。
右翼の陣へは、藤堂勢が遮二無二突撃を敢行して来る。
その藤堂勢を馬上から槍で払い、突き倒して、時には「押せ押せ!」と叫んで味方を鼓舞する。左馬助も重之も新十郎も自ら槍を振るって応戦していた。
敵味方入り乱れての激戦。その中で藤堂勢の重臣藤堂新七郎良勝、藤堂仁右衛門高刑、藤堂玄蕃良重らを討ち取り、遂には藤堂勢を敗走させた。
血で血を洗う白兵戦は数時間に及んでいた。皆、顔から全身に至るまで真っ赤に血で染め上げている。
「勝った」誰からともなくそんな声が上がった。深夜からの行軍と間髪入れずの激戦で疲労しているはずの味方だったが、その表情は不思議と一様に明るかった。
敗走する藤堂勢を前にして、血気盛んな重之や叔父の青木久矩らが「追撃しましょう」と言ってきたけれど、「追うな」と言ってそれを制した。
そして返り血塗れの顔を拭って、遠ざかる藤堂勢を細めた眼で見据えていた。
こんなもの勝ちではない。
左馬助が顔の返り血を拭いながら近付いて来て
「では、兄上」
と言ってきたので、一度瞬ききをしてから
「ああ、今の内に皆に飯を」
と答えた。
左馬助が「承知しました」と言って側にいた新十郎へ皆に早めの昼食を取らせるようにと伝えている。
すると今度は飯島三郎右衛門がやって来た。どうやら左腕を負傷したらしく右手で赤く染まった左腕を抱えている。
「殿、勝ちましたぞ。十分な戦功でござる。一旦、大坂城へ引き揚げてはいかがか」
三郎右衛門の言葉を聞いて、再び目を細めてしまった。
「いや、このままだ」
それを聞いた三郎右衛門も左馬助も一瞬黙ってしまった。
ただ、少しの間をおいて左馬助が口元だけで笑うと、もう一度、籠手の辺りで顔を拭っていた。まるで、そろそろですか、と頷いているかのように。
暑い。気が付けば日もだいぶ高くなってきている。
敵に備えて玉串川の西堤上に約三百の鉄砲隊を配置すると、その傍らに腰を下ろして水を口にした。すぐ横では左馬助と新十郎、それに重之も腰を下ろしていた。
皆、疲れている。辺りを見渡してみると飯を食うもの、横になるものと家臣から足軽に至るまで皆、疲労の色が濃い。
無理もない。藤堂勢に勝ったとは言え、こちら側にも損害があった。そこに深夜からの行軍と激戦による疲労が大きく圧し掛かっている。おそらく次の一戦は…最後まで持たないだろう…
再び横に座る左馬助たちに眼を移してみた。
昼食を食べたばかりの重之の口元に握り飯の米粒が付いている。
本当にこいつは、と戦場なのに何とも微笑ましく思う。
「重之、これも食べるか」
そう言って、自分の手付かずの握り飯を包みごと重之に差し出した。もう、水以外は何も口にしないと決めているから。
「そんな、兄上の分まで」
と遠慮する重之に半ば強引に手渡してから
「重之、口元に付いてるぞ、米が」と言った。思わず頬が緩んだ。
重之が「えっ?」と言って手渡された握り飯の包を片手に持ったまま、慌てて口元を拭っている。
やはり、まだ十五歳だ。その姿が何ともあどけなくて、つい笑ってしまった。たくさん食べて大きくなれ、大きくと思いながら。
その光景を見ていた左馬助をはじめ周囲の皆も微笑んでいる。
その時、玉串川の方から激しい銃声が聞こえてきた。音からして、味方ではない。おそらく敵の一斉射撃だろう。
「敵襲!」の声が響き渡る中、左馬助らとともに立ち上がって玉串川の方を見た。
まるで対岸が真っ赤に燃えているようだった。
井伊の赤備だ。昨年の初陣で初めて眼にしていた。甲冑から足軽の具足、槍や旗に至るまでの全てを赤一色で統一した徳川最強と謳われる井伊掃部頭直孝の軍勢だ。
少なくとも五千はいる。その井伊の赤備が、幾つもの地響きと喚声を上げて玉串川を渡河し、こちらに向かって来る。
「撃ち返せ!列を乱すな!迎え打て!」
そう叫ぶと、左馬助が「兄上」と言ってきた。
左馬助と眼が合った。そうだな、と一度頷いて見せた。
そして
「重之、新十郎」
と呼んだ。自分でも分かるほど低い声になっていた。
程なくして重之と新十郎が目の前にやって来た。その顔を交互に見返して
「新十郎。重之を連れて、急ぎ大坂城へ帰ってくれ」
と伝えた。
新十郎が「はっ」と頷いて走り出した。
「そんな、どう言うことですか!兄上」
重之が手に持っていた握り飯の包を落とした。その眼が、なぜと言っている。
「重之。お前は、母上の側にいてくれ」
「えっ」
重之の見開いた眼が一瞬で歪み始めた。
母から託された最後の願いだったから。
「年若い重之だけは、どうか助けてほしい」と。そんな母の最後の願いに報いたかった。報いるには今しかなかった。
最後に母と会ったあの日に「大丈夫ですよ母上。お任せください」と笑顔で答えたことが嘘ではないと伝えたくて。これが母に報いる最後の親孝行なのだからと。
「そんな…どうして…兄上」
重之が幼い子どものように泣きじゃくっている。その両肩を抱き、そして涙が溢れ出るその瞳を優しく見つめた。
「お前は、母上の側にいてやってくれ。そして、生きて木村家の血を繋いでくれ」
「そんな!どうして重之なのですか!嫌です。重之は嫌です」
「頼む、重之。頼むから」
そう言って重之の体を力一杯抱きしめた。幼い弟だと思っていたけれど知らない間にこんなに大きくなって。
新十郎が二頭の馬を引いて戻って来た。
もう一度、重之の眼を見つめた。
「さあ、行け。重之」
そう言うと、新十郎が引いてきた馬の内の一頭に嫌がる重之を左馬助、新十郎とともに無理やり乗せた。間髪入れず新十郎が、もう一頭の馬に飛び乗った。
「新十郎。頼んだぞ」
と言うと、目を真っ赤に染めた新十郎が「命に代えましても」と答え、片手で自らが跨る馬の手綱を、そしてもう一方の手で重之が跨る馬の手綱を握ると勢いよく駆け出して行った。
重之が何度もこちらを振り返りながら「兄上!兄上!」と叫んでいる。そんな重之と並走する新十郎の後姿が次第に小さくなっていた。
その背に一度だけ「生きろ、重之」と心の中で呼びかけていた。
「重之殿なら、きっと生きてくれますよ」
遠ざかる二人の背を見送りながら、すぐ横で左馬助がそう告げてきた。
「ああ。これで母上との約束も果たすことができた」
そう言って左馬助の方を見た。その眼が真っ赤だった。おそらく自分も同じくらい真っ赤になっているのだろう。そう思うと少し笑えてきた。
「いよいよだ、左馬」
「はい」
それだけ言って、左馬助とともに玉串川の方へ向き直ると、家臣の用意した馬に跨り、そして槍を手にした。
目前には井伊勢の騎馬隊が迫っている。
さすがは徳川最強と謳われる井伊の赤備だ。明らかにこちらが押されている。疲労もある。でも、何より、あの赤備を目にしただけで気圧されているのだ。あの紅蓮の炎のような軍勢に。
「押し返せ!」
力一杯そう叫ぶと、左馬助とともに駆け出した。黒一色の木村勢が紅蓮の炎の中へと入り乱れていく。
まさに乱戦だった。幾多の銃声が轟き矢玉も飛び交い、方々から刀と槍がぶつかり合う音と馬の鳴き声、そして人の断末魔が響き渡り血飛沫も舞っている。
序盤こそ井伊家の重臣川手主水良利らを討ち取る等して善戦していた。しかし時が経過するにつれて疲労の蓄積している味方は井伊勢に押し込まれ始め、次第に崩れ出している。
くそっ。馬上で槍を握る手が血糊で何度も滑った。疲れている。鐙においた足にも思うように力が入らない。体にも幾つもの傷を負ってしまった。背にした白熊の母衣も血と土煙で本来の色を失い赤茶色に変色しつつあって、でも何より、全身が重い。
何人突き倒しても井伊の赤備は次から次へと襲い掛かって来る。息を入れる暇もない。やはり井伊勢は強かった、想像以上に。
ふと周囲を見渡すと赤一色だ。近くで馬上から槍を振るっている左馬助も肩で息をしていて、その全身が新しい血と古い血で赤黒く染まっている。
味方はどんどん減るばかりだ。右翼隊は既に壊滅しており、左翼の叔父の木村宗明隊も見るからに劣勢だった。
纏わりついてくる井伊勢を槍で払い除け突き倒すけれど、本当にきりがない。
息が上がる、何度も。そんな中、一つの言葉を思い返した。
未明の行軍の際に左馬助が、はにかんで言った言葉
「死ぬと時は一緒ですよ」
二人で交わした約束だった。
思い返せば不思議なものだ。妹婿の左馬助とは義理の兄弟だけれど同い年と言うこともあり本当に気が合った。二人でよく酒も交わした。酒豪の左馬助にはいつも敵わなかったけれど。母の最後の願い、重之を助ける話も最初に相談したのは左馬助だった。その時、左馬助は二つ返事で賛同してくれた。
全てを言わなくても全てを察してくれる義弟。本当に良い義弟だ。自分は本当に良い弟に恵まれた。重之、そして左馬助と。
こんな義兄には出来過ぎた義弟だ。こんな義兄のために、よくここまで付いてきてくれた。そう思うと槍を握る手に少しだけ力が戻ってきた。
叔父の青木久矩も家臣の飯島三郎右衛門も既に討ち死にを遂げている。
「先に逝くぞ」「お先に逝っておりまする」とそれぞれ言い残し、敵に突撃して。
敵の槍先が何度も体をかすめてくる。
もう満身創痍だ。そろそろかな、左馬。と後ろを振り返ると、先程まで馬上にいた左馬助の姿がない。
まさかと思い眼を凝らすと、主を失った騎馬の下で、仰向けに倒れた左馬助とその左馬助に馬乗りになる井伊勢の武者の姿があった。
「左馬!」
そう叫ぶと、急いで仰向けに倒れる左馬助のもとへ駆け寄り馬乗りになっていた井伊勢の武者を槍で突き倒した。
「左馬!左馬!」
馬上から叫ぶと、血と泥に塗れ仰向けになった左馬助が薄っすらとその眼を開け、微かに口を開いた。開いたけれど声が出ないようだった。よく見ると喉をやられている。左馬助の首元からどくどくと血が流れ出ていた。
冷静に考えれば、もう…でも、左馬…二人で交わした約束はどうするんだ!
左馬助の首級を挙げようと井伊勢の武者や足軽が次々と群がってくる。それを馬上から槍で追い払う。
倒れた左馬助を庇いながら遮二無二と言うより無我夢中で槍を振るい続けた。
すると後ろから野太い声が聞こえてきた。その声の方を振り返ると、そこには立派な赤一色の甲冑と陣羽織に身を包み十文字槍を手にした年配の騎馬武者の姿があった。
その騎馬武者が
「それがしは井伊家家老庵原助右衛門でござる。そなたは敵方の大将とお見受け
致すが」
と名乗ってきた。
思わず眼を細めてしまう。そして
「豊臣家臣木村長門守だが」
と答えた。
それを聞き庵原と名乗った騎馬武者が嬉しそうに微笑んで
「これは好機でござる。まさに敵の大将とは。それがしと勝負されたし」
と気色ばんでいる。
正直なところ今は、一騎打ちや勝負なんてどうでもよかった。それよりも左馬助の方が大事だった。
だから
「来るなら来い」
とぞんざいに答えた。
だが、庵原の方は「いざ!」と勇んで、手にした十文字槍を振りかざすと騎馬もろとも突っ込んで来た。
倒れた左馬助を庇いながら庵原の十文字槍を数回受け流した。率直に強いと思った。
本来、武士としては一騎打ちにおいて好敵手と巡り合うことは喜ばしいことなのだろう。けれど、今の自分にとってそんなことは、もうどうでもよかった。それよりも今は左馬助のこと、それに今の自分には、もう一騎打ちに耐え得るだけの力も残っていない。
庵原が渾身の力を込め十文字槍で突いてきた。速くて重かった。それを槍で払った途端に、血糊と疲労から握っていた槍が手から滑り落ちてしまった。
急いで太刀を抜いたけれど、上手く手に力が伝わらず間に合わなかった。
庵原の十文字槍が右脇を突き、次いで白熊の母衣ごと背中を突かれて、そのまま馬上から引きずり落されてしまった。
騎馬からは反転してうつ伏せに落ちた。でも、激しく落ちたはずなのに不思議と痛みは感じなかった。
一瞬、暗闇と静寂だけが辺りを支配していた。
荒い呼吸とともに眼を開けた。眼の前には舞い上がる砂埃に交じって、血と泥で赤黒く染まり仰向けに倒れた左馬助の姿があった。
おそらく、もう息はしていない。少しも動かない。でも、その左馬助の左手がこちらに向いている。あと少し、自分が手を伸ばせば届きそうな程近くに左馬助の左手があった。
「…左馬…」
自分でも情けなくなるようなか細い声だった。何とか左馬助の方へ。太刀を握った右手だけで這いながら少しずつ、少しずつ、左馬助の方へ、左馬助の方へと進んで、そして自分の左手を伸ばした。
「…左…馬」
思うように声が出ない。それなのにどうして涙だけは溢れてくるんだろう。おかげで左馬助の姿がぼやけてくる。でも、もう少しで左馬助の左手に届きそうだった。
だけど、だめだ。急に体が動かなくなった。誰かが背中に乗りかかってきたようだ。それに首元も肩も押さえつけられてしまったらしい。
全く動けなくなってしまった。そうか、自分は死ぬんだなと感じた。けれど不思議と音も痛みも何も感じない。
不意に一つの言葉が浮かんだ。
道芝露。右手に握る太刀に入れられた裁断銘。本当に儚い言葉だ、本当に。でも、それでいい。
そして、左馬……どうにか約束だけは守れたよ。また、向こうで会おうな。とだけ思った。
戦は徳川方の勝利に終わった。豊臣方も所々において善戦したが敗れた。
戦勝に湧く本陣において首実検を行っていた大御所徳川家康と征夷大将軍徳川秀忠のもとに、また新しい首級が運ばれてきた。
季節も季節なので嫌でも臭気が漂う。征夷大将軍秀忠は内心、辟易し始めていた。
しかし、三方に載せられた年若い首級を眼にした齢七十過ぎの大御所家康だけは、その首級にしばらく黙って見入っていた。
そして近習に「このものは」と聞いた。
近習が「豊臣家臣木村長門守重成の首級にございます」と答えると、家康が再び「このものの兜を持ってこい」と伝えた。
その様子を隣で眺めていた秀忠が、高齢の父が見せる行動に少し困惑し始めていたけれど、当の家康は全く気に留める素振りもなく近習が運んできた兜を手にすると、まるで感嘆したかのように深くため息をつき、そして言葉を発した。
「かような世に、まだこれ程の武将がおったとは。それも、これ程の若さで」
家康が隣に座る秀忠や近習をはじめその場に居合わせた皆を一度見渡すと、まるで言い聞かせるように続けた。
「よいか、このものの首、そして兜からは良き香の薫りがする。己の最期を覚悟
して、出陣前に身を清め香を焚き染めていたのであろう。それに、この兜の忍緒
の端も切っておる。これは生きて二度と兜を解 かぬと言う覚悟の現れじゃ。
かような若者に誰がかように雅な嗜みを教えたのであろうか。まことあっぱれ
なる覚悟じゃ」
一同が大げさに頷くのを尻目に、家康は手に持っていた兜を隣に座る秀忠に手渡すと立ち上がり、虚空に眼を移した。
その眼から深く刻まれた頬の皺を伝い一筋の涙が流れている。
年老いて、かようなことに巡り合えるとは。豊臣には過ぎたる武将じゃった。秀忠にもかような家臣がおればのう。そう思いをはせずにはいられなかった。