止まらない本音
眠りから覚めると、俺は空咲飛と暮らした部屋を飛び出した。
ゆうべの雨でいっせいに花開いたドクダミの茂みから、黒い蝶が現れて、俺を修道院の庭の奥へ奥へといざなった。よれよれとこうもりみたいに頼りない飛行軌跡を描きながら。むしられた、どこかの犬の冬毛が宙を舞い、地べたでは粒ぞろいの蛇いちごが血しぶきのように点々と熟していた。ところどころに盛られた墳墓のような黒土は、もぐらの仕業だろう。
ベンチでは、男が調子っぱずれの草笛を吹いていた。
「ここって、楽器の演奏禁止でしたよね? たしか入り口に書いてある」
俺が看板を指差すと、寄せては返す親父のいびきにも似た、悪夢のような調べが止まった。
「またルールですか。でも、これは楽器じゃねえよ。葉っぱに何の加工も加えてないんだから、ただの葉っぱだよ」
「何の曲ですか?」
「今の? ヴォルガの舟歌。来る日も来る日も舟を曳く男たちの労働歌。ロシアの民謡で、要するに、日本でいうヨイトマケの唄だな。つっても知らねえか」
脂ぎった薄い長髪を、男は緑の色付き輪ゴムで一つにまとめた。タイダイに染め抜かれたTシャツの中央には、宗教画のような楽園が描かれている。
「隣、いいですか?」
「ああ、いいよ」
久しぶりに俺を受け入れてくれた生身の赤の他人に興奮して、自分でもどうかしてると思うくらい、身の上話が込み上げてきた。
「なんか、同居してる女といるのが息苦しくって。つき合ったり離れたりして一年半にもなる女なのに、何の実体も感じられない影と暮らしてるみたいで。ある日突然、別の女と入れ替わってても、ああ、こんなだったかなって、疑いもなく受け入れてしまいそうで。うまく言えてなくて、すみません。
結局、表現力のあるやつだけが人の同情買って、昇り詰めていくんですよね。誰一人説得できない俺みたいなのは、愚痴をこぼせる友達一人つくれなくて。彼女のきつい束縛をかいくぐるゲームに汲々として。それだけで毎日くたびれて。
で、その彼女を殺してしまったんですよ」
「おい、ヒモ」
「え?」
「このヒモ野郎、黙って聞いてりゃあ。冗談もほどほどにしとけよ。いいご身分だな。家に女なんかいてさ。恵まれた環境に、ちっとは感謝しろよ。こんなかっこうして朝っぱらから草笛吹いてる連中が、みんな大麻かなんかもってると思ったら大間違いだからな。妙な期待してんじゃねえぞ」
「いや、俺はそんなつもりじゃ。それに、俺ヒモとかじゃないです。家賃半分は払ってますから」
立ち上がり、走り出した俺を男の声が追ってくる。
「そんな生活、嫌なら、自分の手で断ち切ればいいだけだろ?」
修道院の庭で草笛吹いているヒッピー野郎ならわかってくれるはずだなんて甘えたこと、なんで考えたんだろう。いつも思ってた。連行される凶悪犯の表情が、「俺の話をやっと聞いてもらえる」とでも言いたげな安堵に包まれて見えるのは、なんでだろうって。
結果の重大さばかり注目されて、殺すまでの道筋が見えないから俺たちはぎょっとするけど、丁寧にたどれば彼らにも、そこへ至る致し方ない軌跡があったのかもしれない。