彼女との別れ
出ていこうとする空咲飛をひっつかむと俺は、ひざの下に組み伏せた。彼女を殺そうと思った。アメリカで、白人の警官が黒人の男を死に至らしめたのと同じやり方で。ばたつく彼女の手足が、人格とか精神とか魂とか、そういったものの一切宿っていない虫、いや虫にも満たないゼンマイ仕掛けのかぶと虫に見えた。
そしてついに、俺を支配してきた命が俺の足下でついえた。支配と服従の構図が逆転したのだ。なのに、どうしたことだろう。俺の奥底から、いかなる力がみなぎってくるのも、感じることはできなかった。
代わりに慌ただしく回り始めたのは全停止していた代謝のほうで、脈を駆け巡る熱に追われるように、毛穴という毛穴から滞っていた汗が噴き出した。なのに体の芯からは冷たい波動が絶え間なく押し寄せ、ねじ上げられた内臓のどれかから吐瀉物が込み上げてくるような、とても嫌な感覚はあったけど、湧いてきたのはそれだけだった。
よく、「人を殺してみたかった」とか言うやつがいて、当然、何か手応えあったんだろうなって思っていたけど、特別な感情は何も湧いてこなかった。
結局のところ、彼女と俺の会話が交差したことは一度もなかった。俺を変えたいなんていうのも、俺のためを思ってじゃない。俺を見ちゃいられない自分を楽にしてあげたかっただけなんだろう。逃走は、こうならないための俺なりの精いっぱいの思いやりだったのに。
俺こそが彼女の支配下に置かれた被害者だった。なんて今さら言ったところで、誰も信じてはくれないだろう。俺の中では毎日が殺るか殺られるかだった。俺が殺られるでもよかったのに、あの女が殺ってくれないから、俺が殺る羽目になってしまった。
俺は社会に警告したい。本当に危険なのは、誰の共感を得る力もなく、どんな救いの手にもつながれず、孤独にねじくれて、前科もなく、野放しで、お前らのすぐ隣にうずくまっている俺みたいな凡人なんだって。
それから俺は、息をしている者が誰もいなくなった部屋で、ようやく安心して深い眠りに落ちた。いつか動物園で見たヤマアラシのつがいでさえ、折りたたんだ針山を寄せ合って、うまいこと寝ていたというのに。こんなに全身の力が抜けたのは久しぶりだった。