彼女に出ていってくれと告げた日
空咲飛と暮らし始めたのは、ほんの出来心からだった。前に同棲していた女が、俺に合わせすぎて自滅したのだ。
彼女が俺の気に入る最適解を出そうと媚びれば媚びるほど、俺が求めてるものからは遠ざかり、俺がよその女のところに泊まっている三日の間に、彼女は消えてしまった。俺に聞きたくても聞けないことでも占っていたのか、彼女がよく座っていた場所には、占いかけのタロットカードだけが残されていた。
家を出て二日目には、部屋に一人取り残された彼女が、そろそろ絶望して死んでいるかもしれないと思わなくもなかった。それでもやっぱり、笑って酒を飲み、気ままにセックスする、軽やかな本来の自分を取り戻したかった。
とはいえ、女友達との飲み代を考えると、わずかな仕送りとバイト代では心もとなかった。そこで思い出したのが、彼女の前の前につき合っていた空咲飛だった。
家賃を折半してくれる相手ができたことには、もちろん感謝している。だけど正直な話、それだけだった。コロナ禍で洋服屋か何かのバイトをクビになったとか言っていたから、貯金が尽きれば実家にでも帰ってもらう。それまでの関係のつもりでいた。
彼女と結婚の約束なんて考えられなかった。だって、人生このレベルで決まりって、あきらめをつけることになるから。
空咲飛と暮らし始めて、走ることだけが俺のもっぱらの娯楽になった。走れば走るほど腹筋が割れた。何もうまくいかない俺の人生の中で、目に見える形で報われた唯一の努力がこれだった。割れていれば、とりあえず女は盛り上がってくれる。そもそも、女を喜ばす以外の目的で腹筋を割っている男に、俺は出会ったことがない。
走りながら俺は、ゆうべの空咲飛とのやり取りを思い出していた。
「ねえ、ここって俺んちだよね?」
「何言ってんの?」
「いや、だからさ、ここは俺んちだろって」
「そうだけど」
「出てってくれないか」
「は? 一緒に暮らそう、そうすれば家族だから、コロナなんか気にせず、毎日でも会えるよ、おいでって言ったの、理介でしょ?」
投げつけられてもっともなクッションを、それでもやっぱり反射的にかわし、俺は続けた。
「そのときはそうだったかもしれないけど、お前が想像を超えてきたんだ。事情が変わったんだよ。そもそも、ここ俺んちだし、決める権利は俺にあるよね?」
「何言ってんの? もうアパートも引き払っちゃったし、パパもママもあきれてるし、戻るとこなんてどこにもないんだよ」
「あのときは、一緒に住めば解放されると思ったんだ。返しても返さなくても止まらない、LINEの波状攻撃から。全社員の業務日誌を隅から隅まで、毎日読まなきゃならない大企業の社長なんかいないだろ? 正直、そんな気分だった。
今日は十五分早く起きただの、お昼はガパオを食べただの、逐一報告されるお前の一挙一動の、どこに、何に興味をもてばいいの? だんだん自分が何を読まされてるのかもわからなくなって、返事に要する一分すら惜しくなったんだよ」
「だって私、理介の彼女でしょ?」
探るように言う彼女の言葉を俺は無情に斬り捨てた。
「彼女なんて、いつ言った? 状況から勝手に関係性を類推しないでくれ。ただ一緒に住んでるだけだよ。俺は、そう、俺は博愛主義者で、俺にとって、すべての人間はまったくの等価なんだよ。たった今、お前を彼女に認定したところで、そこに特別な意味も価値も契約も何も存在しない。それが、ありのままの俺なんだよ」
「ねえ、あんたは誰なの? 哲学者? それとも、よその星から来たから地球の勝手がまだよくわかってないの? 愛情っていう目には見えないギフトの存在にも、まだ気づいてないんだね」
「愛情愛情って、なんなの? 俺だけじゃないだろ? 世の中みんな、せっせせっせとポイントばっか集めてさ、目の前の損得にしか興味がない。物にも店にも人にも、誰も愛情なんかもっちゃいないじゃないか」
「じゃあ、初めから体目当てだったんだ」
俺みたいな人間に自分の命運を託そうとした無鉄砲さを省みようともせず、女はすぐ自信満々にそう言ってのけるけど、彼女の場合は特に、それだけは勘弁してほしかった。なぜなら、決して好きな体ではなかったからだ。
「理介の問題点はこんなにも明らかなのに、あらぬ方向を見て、目をひん剥いて、意地でも見ないようにするんだね」