もてあそばれる俺の命
教誨師との面会も断って、ようやく孤独になじみ始めたある朝、俺の房の前で、不揃いな靴音が止まった。時刻は八時過ぎ。ちょうど死刑が宣告されると聞いていた時間帯だった。
拘置所の幹部なのか、普段は見かけない男たちが俺に出房を命じた。いよいよかと身を固くした俺に告げられたのは、あろうことか、死刑執行の停止だった。
今や、犯罪抑止のエビデンスがまったく見当たらないことは明白な死刑制度の廃止は国際的な潮流であり、我が国もようやく、そのグローバルな波に乗り、まずは死刑の執行を停止するのだと彼らは晴れ晴れと宣言した。
国の方針一つで、生にも死にも転じ、弄ばれる俺の命をどう考えているのかの説明はひと言もなしに。
何でもかんでも世界標準に合わせなきゃならないわけでもないだろう。エビデンスなんて、しょせんは現時点の科学で判明していることの寄せ集めに過ぎない。それが今さら見当たらないからって、死刑囚を放免するほどの理由になるんだろうか?
そんなことより、脳が人をあやめる方向に偏ってしまう障害を抱えた人間を、治らないなら殺してよしとしてきた発想の危険性を、もう少し哲学的に考えたほうがいい。
言葉でじりじりと人を死へ追い込んでいく方向に脳が偏ったやつらは、何人殺してものうのうと生きているっていうのに。
「ここを出てみたいとは思いませんか? もちろん簡単に、とはいきませんよ。いくつもの手順を踏むことにはなりますが」
法務省矯正局から来た、デジタル何やら部門の教官だという男が俺に言った。
冗談じゃない。俺は生まれ変わったんだ。ちゃんと死ぬために。死をまっすぐ迎えに行くために。
誰も自分と向き合わず、他人に目もくれようとしない、そんな世界で生きていかなきゃならないんなら、ああだこうだと苦悩できる脳なんか欲しくはなかった。
ただ生きるために生きてるだけでよかった。ここへ来る前の俺がそうだったように。
いつかの裁判で、遺族に言われたんだ。
娘の命は唯一無二のもの。あなたの命で償えるほど、軽いものだと思わないで。あなたには最低限死んでほしいけど、死んだからって償えるわけじゃないからね。そこだけは勘違いしないで、と。
償いにもならない死を受け入れるのも苦しいが、遺族が最低限望む死の機会すら奪われるのはもっと苦しかった。
償いの方法を考えては、それが無効であることに気づき、取り返しのつかなさに打ちのめされることが、せめてもの償いなのか? それが死ぬまで繰り返されるのか?
無限に自由な選択肢を与えられ、その中から最も償いに近いものを正しく選べるのか、いちいち試される贖罪の日々を耐え抜く自信はなかった。
死への恐怖から、とめどなくあふれ出した尿にまとわりつかれた両脚が、想定もしていなかった方向へと開かれていく未来を前に震え出し、止まらなくなった。