獄中結婚の女
「そういえば昔、アパートの近くに修道院があって、その庭が夕方五時まで開放されてたんですよ。庭には、ちょうど人を架けられそうな大きさの木の十字架があって、その奥に修道院の重い扉がありました」
「その扉を叩くことはできなかったんですね」
教誨師は静かに言った。
仕送りしてくれる親がいて、女にも不自由していない男が、女の園に分け入ってまで何の助けを求められただろう。
「いや、だって情報って、より悲惨なものばかりがシェアされるじゃないですか。自分の状況なんて人との比較でしかわからないから、僕の悩みなんて取るに足りないものだと思ってました。
延々と続いていく日常の中で、ここから先はやばいみたいな境目もよくわからなかったし」
「社会のせいだとは?」
「まさか。社会の大がかりなからくりの、どこがどうなって自分に降りかかってきてるか解るなんて、よほどの知能がないと無理ですよ。僕にはとても。
僕は、今自分が苦しいのかさえわからなかったんですから。ましてや、人を殺してしまうほど追い詰められていたなんて。
それに、僕は何も信じちゃいなかった。子どもの頃、駆け回るうちに迷い込んだ森に小さな祠があって、中をのぞいたら何もなくて。神様なんかいないんだと思った。
そしたら、薄暗がりがぼおっと光って、よく見れば、ひまわりがお供えされてて。ああいう人の心のことを神様って呼ぶのかなって、今にしたら思います」
「そんなふうに感じられる、あなたの心自体が素敵じゃないですか」
そう。死にゆく者にキリスト教を正しく教えるなんて無意味なこと。俺は正解など求めてはいない。そんなふうに、ただ考えるきっかけさえくれれば、それでよかった。
なのに牧師は、とんでもない情報を俺にもたらした。
「これを伝えるべきか、ずい分悩んだのですが、理介さんは獄中結婚を繰り返す女性の噂って聞いたことありますか?」
「さあ」
「死刑囚と結婚しては執行前に別れる。そんなことを何度も繰り返している女性がいる。そんな噂を耳にしたものですから」
「それが僕の別れた妻じゃないかっていうんですか? いったい何が楽しくて、そんなことを?」
「人間じゃない扱いを受けてきた人だけが知る痛みと、ときに見せる独特な慈悲深さ。でも、その人こそが被害者に人間じゃない扱いをした張本人でもあるという、やるせない矛盾。
そこに惹かれるのだと彼女から聞いた人がいます」
「ずい分屈折してますね。で、その女は何者なんでしょう?」
「彼女自身、両親を殺害された遺族なんじゃないかって。額の火傷はそのときに負ったもので、彼女だけが生き残った。死刑囚を改心させたら安心して離縁する。
遺族会にも出入りしていて、遺族からの依頼でやっているという噂まであるようです。養子縁組や入籍を繰り返していて、複雑すぎる素性をマスメディアはおろか、誰も追えてないみたいです」