死刑囚になった俺
この結論をひっくり返そうとしてはいけない。自分の生の存続など願ってはいけない。弁護士は控訴したが、俺はそいつを取り下げた。
その結果、つき合った女になじられようが、裁判員に責められようが、自分がどんな姿をしているのか一度もわからないまま、このよくわからない俺という物質は、そう遠くない未来に吊るされ、消されることになった。
自分の姿を客観的に省みて、人の批判まで吸収して成長できる。そんなまともな男は初めから人なんか殺さない。更生の余地がないから死刑なんて言われるような男は、人を殺す前から生きている資格なんてなかったのだろう。
正式な手続きを踏んで無事に死ぬこと。それだけが、俺が国から課された唯一のミッションになった。
死刑とは、刑法や刑事訴訟法、刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律にも堂々と明記され、この国で許された唯一の殺人のこと。
命の選別の現場で、救命の見込みがない者につける黒色のトリアージタッグのようなもの。生き生きとは生かさず、易々とは死なせない。そんな国家の品質管理に、俺はこの先、耐えていかなければならなかった。
お前なんて死ねよという国民の期待を、俺は一身に背負っているんだと意気込んでみた。
いっそ、全国民から忌み嫌われる公共物にでもなってしまえば、誰か一人によって独占支配されずに済むのかもしれないと、自分を慰めてみた。
消えることをこんなに望まれながらも、死刑のその日まで生きなければならないことが、即ち刑なのだと納得してもみた。
だけど実際は、こんなに重い運命を背負った他人のことなど、誰も考えたくもないだろう。俺だって、そうだった。死刑になんか何の興味もなかった。こうなるまでは。
どこまでもまっすぐに走れる住宅街の道を見つけたときの得した気分。車だけかと思ったら人も行けるトンネルを見つけて走ったときの焦げつくような空気。
もっといいもの食いたかったとか、もっと交尾したかったとか、捕らわれた虫たちの夢や絶望ごとからめ取ってきらきら光る、雨上がりの蜘蛛の巣。映画の印象深い夏休みの一シーンみたいに、目にまぶしく入ったり入ってこなかったりする、樹々越しの太陽。
天の両はじに入道雲といわし雲が棲み分けた、夏から秋にかけての空。見本市のように、ありとあらゆる種類のひっつき虫が俺の靴下を埋め尽くした藪。
独房に入ってからのほうが色濃さを増していくあの日々の感覚を、二度とは味わえないことをじりじりと思い知らせつつ、拘置所の奈落の底に突き落とす以外に、自分がしでかした事の重大さを知らしめる方法がない人間にのみ与えられる罰。
強制的に殺生の場面をつくることでしか、命の取り返しのつかなさに気づけない愚か者だけに与えられる罰。それが死刑というもので、その日まで生かされ、最期は殺されても喰われもしない、家畜より役に立たせてもらえないのが俺たち死刑囚というもので。
思い返してみれば、リラックスして何かを感じ取れたのは一人で走っているときだけだった。女と見た風景の記憶が俺にはない。別の風景を見ているのかと思うくらい、女との会話はなぜかいつも噛み合わなかった。