美咲からの提案
なのに桃子の母親ときたら、生まれてたった半年の赤ん坊に道徳なんか教えようとしている。俺が大嫌いな『こんなとき、どうする?』シリーズの絵本を見せて。
朝お友達に会ったら、どうする? プレゼントをもらったら、どうする? お友達の玩具を壊してしまったら、どうする?
ページをめくってもめくっても現れるのは、監督者が管理しやすくするためだけに編み出された正しさのエキシビション。
「ねえ、正解って本当に一つだけなのかな? こんなもん見せたら、上っ面だけ取り繕った人間にならない? クイズみたいな直線の言葉じゃ駄目なんじゃないかな? まっすぐ行って戻ったら終わりで、そこから何も広がらない気がするんだけど」
「いいの。よほど暇で徳の高い人間でもなければ、物事の本質なんて教えられないんだから。最低限の悪いことだけしてくれなきゃいいのよ。極端な話、たとえば人を殺すとかね」
彼女の唇の端っこが、俺の蛮行を見透かしてあざわらっているように見えた。
「理介、ずっと前から怪しいと思ってたんだけど、あなた本当は正しさどころか、人の感情だってわかっちゃいないんじゃない? いや、人どころか自分の感情も。人が感情を交わしてるのを見て、ただ乗りして楽しんでるだけでしょ?」
たしかに俺は、人が何を指して感情と呼んでいるのかがわからない。俺の中にある、どの物質が感情なのかがわからないのだ。
一人では何も味わえないから、目の前にいる女のくるくる変わる表情を見て、そこに乗っかって、あたかも自分もそうであるかのように楽しんでいるだけ。一生、女の反応を眺めているだけの、ショータイムの観客だ。
だけど、それがどうした? 女を愛で、自分の中身がぎっしり詰まっている錯覚に陥ってみることの、どこがいけないっていうんだろう?
ちょっと前までの彼女は、そんなこと言わなかった。わけがわからないなりに、俺の話に真剣に耳を傾けてくれた。素人だからこその生真面目さと深刻さで。それがどうだ。院長か何かの手ほどきで、ちょっと心理学をかじった途端、即席の分析で早々に話を切り上げようとしている。
世の中は、スピリチュアルだの自己啓発だの心理学だのと、与えられた法則がないと生きていけない、思考停止に陥ったやつらばかりだ。一つの法則で割り切れるほど、俺たちは一貫した、やわなもんじゃない。人間なめんなと言いたい。
心理学なんて、どうせ忙しい現代人が思いついた歴史の浅い学問なんだろう。カウンセリングが有効なのは、まともなやり取りができる脳に恵まれた一部のエリートだけ。ほとんどの感情を「むかつく」にしか集約できない俺との間では成り立ちもしないだろう。
カジュアルな心理学が大衆に浸透して、きっと世の中はつまらなくなった。間違ってるやつも、ゆがんでるやつもいて、それが人生であり、人間社会ってもんなんじゃないだろうか。
「ねえ、ただ乗りついでに、我が家の父親でも演じてみない? 我が家の父親になれば、大好きな桃とずっと遊んでいられるよ」
美咲が俺に提案した。