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黒の森

前世、妻は他の男のために死んだ。今世、生まれ変わった前世の妻は自分の所為で死んだ。解放してやりたかっただけなのに、もう嫌だ、もうたくさんだ。

作者: 千東風子


北の国で黒の森から魔物が溢れた時の話から、西の国の王兄殿下の話となります。


誤字修正しました。

誤字報告ありがとうございます。



 

 今でも夢に見る。


 迫り来る魔物たちを切っては捨て切っては捨て、魔力は空になり、剣はすでに血と油で切れず、力任せで叩き潰すように魔物を殺している自分。

 黒の森から溢れ出てくる魔物たちとの戦いの日々。

 少しずつ前線は後退し、森境の町をひとつ捨て、荒野に布陣していた。

 泥と血で大地がぐちゃぐちゃになっても、やがて降り積もる雪が全てを覆い尽くす荒野。

 国中の、そして他国からの助力の全てが、ここに集結していた。

 ここを突破されたら、この国は魔物たちに蹂躙(じゅうりん)され、やがて周辺の国も呑まれ、黒の森が更に広がるだろう。


 戦況は劣勢。「負けて」いないだけという状況に近い。


 あの日、前触れもなく黒の森から魔物たちが溢れ出した。


 普段から魔物たちは森の外に出てくることはある。魔物との戦いは常だ。

 しかし、数十年から数百年に一度、特定の地域で、黒の森から異常なほど魔物が外に出てくる現象が起こる。

 古い記録によると、魔物たちが通った後には、生き物はおろか、草一本も生えてはいなかったという。

 なぜこういう現象が起こるかは分からない。人知を超えた現象には理由すらないのかもしれない。


 だからと言って、はいそうですかと魔物の餌になるわけにもいかないが。


 人間は黒の森に入ることは叶わない。いや、入ることは出来るが、生きては出て来れない。ましてや生活をすることなど出来ない。

 騎士団をもってしても討伐に手こずるほどの魔物が跋扈ばっこする森。

 魔術をもって戦おうとすると、火を出そうにも水が出て、風を起こそうにも火が出るなど、魔術の法則が狂い、はたまた、何も魔術が使えないこともあるという。

 空気は生物が生きていけないほどの何かを含み、重力ですら均等ではないという。


 黒の森に門や扉が付いているわけではない。しかし、明確にここからが「黒の森」であると分かる目印がある。

 鬱蒼うっそうと連なる森たちの青葉闇あおばやみに、煌めく白い幹と紫の葉。女神の樹、ライーカの樹のその先が「黒の森」である。

 点々と生えるライーカの樹は、その昔、神々が人の世界と黒の森の世界を分けた時、女神が目印に植えたとされている。

 人はその樹を見た時、その美しさにおののき、黒の森がすぐそこにある恐怖におののき、逃げ帰る。決してその先に行ってはならない。


 原因も分からず、黒の森を調べる術もなく、森から出てくる魔物をほふるしかない。

 対策や予想を立てようにも、過去の記録には一貫性がなく、この現象が数ヶ月で終息することもあれば、数年間、近隣を荒らし尽くして終息することもある。

 いつ、どこで始まり、そして終わるか、誰にも分からない。


 既に五年が経とうとしていた。

 長きに渡る戦いに人も物資も不足し、市民から募った兵士たちは元より、国に忠誠を誓う騎士たちすら、もはや限界を超えつつある。

 戦っても戦っても魔物たちは黒の森からやって来る。

 昨日共に戦っていた者が、今日は目の前で魔物の腹に収まっていく。

 正気を保てるはずがない。


 皆、破滅する日がそう遠くないことだと感じていた。


 しかし、突然、光が射した。

 数ヶ月前、異世界からの落ち人が王都で保護された。

 その落ち人は言葉を覚えると早々に魔力を開花させ、次々に上級魔術を修得し、それだけではなく、今までにない魔術を編み上げているという。


 そのひとつに、この状況を打破できる魔術がある。


 我々が生き延びるには、もうそれに懸けるしかない。


 討伐を交代して天幕に戻る。それぞれ一張り与えられている天幕は、魔術で保護され暖かく、狭いが足を伸ばし休むことは出来る。

 町ごと後退したので、兵の家族も同じ天幕で過ごし、生活を支える非戦闘員たちも家族ごとに自分の天幕を与えられている。指揮官も一兵卒もコック長も市民も同じ待遇だ。

 逆に言えば、建物は建てられず、天幕しか与えられない状況なのだが。


 天幕の中で妻のエミリアが寝息を立てていた。

 妻は魔術師で、主に治癒が得意で後方支援として討伐に参戦している。


 従騎士を天幕から下がらせ、汗と魔物の血で汚れきった自分に洗浄の魔術をかけ、鎧だけ脱いで妻の隣で横になる。

 妻を背中から抱き締めると、妻の魔力が自分と混じり合い、ほっと息を吐く。


 自分の左手の甲に咲く、サンシキスミレの紋様がほのかに輝いた。


 エミリアは国が決めた妻だ。

 自分は剣術で騎士になった。

 魔力の放出が不安定で、小さな魔術は使えても、安定した魔力が必要な魔術は使えなかった。

 そこで国は、自分と魔力の相性の良い魔術師エミリアに白羽の矢を立て、自分と婚姻の誓約をさせ、結婚させた。

 国に忠誠を誓う自分に拒否権はないが、国に仕える魔術師エミリアもまた拒否は出来なかっただろう。


 初夜を終え、妻は左胸にサンシキスミレが咲いた。

 寒さの厳しい冬を越えた春先によく咲く花で、王家の紋章にも使われている。

 この花であったのが、国のために結婚した自分たちらしいとさえ思った。


 混ざり合う魔力のおかげか、自分の剣術に魔術がかけられるようになり、魔物の討伐が格段に楽になった。

 やがて魔物討伐の中心を担うようになり、貧乏伯爵家の三男にしては大出世と呼ばれる地位についた。


 自分の意志により選んだ伴侶ではなかったが、妻は自分を尊重し寄り添ってくれ、自分にとって大切な存在となっていった。


 そして、黒の森の最前線の責任者として赴任した自分と共に戦ってくれている。


 落ち人の魔術師は既に王都を出発したと伝令が来ている。早ければ五日、遅くとも七日あればこちらに着くだろう。


 一眠りしたらまた討伐に出なければならない。妻を抱き締めたまま目を閉じた。


「ねえ、あなたがエライ人?」


 身体の芯が凍った。

 天幕内に自分たち以外がいる。何の気配も感じず、接近を許した。


 考えるよりも反射で枕下の短剣を指先で確認する。

 襲われたら一撃くらいはこれで防げる。


「待つ、違う! 僕は助ける人。一緒に戦う人。殺気を怖い。そっちの女の人、術やめて」


 腕の中の妻は目を閉じたまま火の魔術を展開していた。いつでも放てる状態だ。


「僕はシュウ。黒の森、調べて、魔物閉じ込めるために来た」


 茶色の髪に茶色の目をした、まだ少年だ。しかし警戒は解かない。伝令が先程来たばかりで、到着が早すぎる。


「本物だという証拠は? 着くのはまだ先のはず」


「馬車、お尻痛いの嫌。僕、馬に乗るしない。だから飛んできた。魔力便利。考える、編み上げる、使う。科学と変わらないことできる」


 シュウと名乗った少年は、杖を持ってこちらに見せた。


「この杖、王様くれた。僕のこと本物のしるし。手放したらダメ言われた。この杖に乗って飛んで来た」


 確かに宮廷魔術師が持つ杖のように見える。鑑定すればより確実だろう。妻が攻撃の魔術を解いて、鑑定を行う。


「しかし、飛んで来た、とは? 飛竜ではなく?」


「竜! 城にいた。生きてる本物すごい! でも、乗るのしない。この杖に揚力と推力与える。息できなくなるから丸く空気の膜で僕守る。すると早く飛ぶ。飛ぶ時と降りる時はヘリコプター……膜の上と後ろで風を巻き巻きする。見るが早い。この杖で飛んだら本物、認める?」


 妻が頷く。王の認めた「魔術師シュウ」との鑑定結果及び、「最後」の作戦立案の権限を与える勅命が杖には付与されていた。


 妻と共に膝を正して陳謝する。


「ご無礼をお許しください。魔術師シュウ様。私はこの前線を預かる第二師団長エイノ・カルフと申します。こちらは妻のエミリア」


 少年も膝を正して、頷いてから改めて名乗ってくれた。


「僕はシュウ。ニホンというこの世界ではない国から来ました。魔力たくさん、魔術たくさん覚えて使うできる。魔物落ち着くまで森から出さない出来ると思う。一緒に動くするしてください」


「具体的にどのような魔術かご説明いただいてもよろしいでしょうか」


「うん、その前に、森を見てくる。やり方、何通りかある。一番早くて、一番効果が長いのどれか、まだ決まらない」


 そう言って少年は杖を持って天幕を出て行こうとした。


「お待ちください! 黒の森に人間が入れば魔術が正常に使えず、魔物たちも強いとはお聞きになっていませんか。お一人ではいけません。具体的にどの地域でどのような調査が必要で……シュウ様!」


 自分が言い終わらないのに、少年は困った顔で笑いながら出て行ったので、慌てて追いかける。


「シュウ様!!」


 少年は杖に跨がりあっという間に上空に飛び立った。


 その光景に息を呑む。

 飛竜に乗る時に風や温度を調整することはしても、いまかつて飛竜に乗らず自分の魔術だけで空を飛ぶ魔術師は聞いたことがない。

 妻も呆然と空を見上げている。

 少年はくるりと方向を変えて戻ってきて、浮いたまま言った。


「飛ぶの方が早いでしょ。森ね、来る時も少し見て来た。確かに「普通」じゃない感じするけど、僕は影響を受けるしなかったよ。きっと異世界の人だから大丈夫。夜明けくらいには帰るする」


 そう言い残して、あっという間に飛んで行ってしまった。

 天幕の外にいた騎士や兵士たちが空を指さして騒ぎ出した。

 まだ王都から最後の応援が来ることは公にはしていない。


 休息は諦めて、各隊長を集めるように従騎士に指示を出した。


 異世界の人間を自分たちの常識で計ることなどできない、そのことを痛感する最初の一撃だった。


 宣言どおり、夜明け前に少年は陣地に帰ってきて、それからは怒濤だった。

 少年は黒の森との境に魔物だけが通れない「網」を魔術で張るという。料理などで使うざるの目を特殊に編み、森全体に被せる感じだというが、想像もできない。


「そう、魔術は想像。僕はそういうのがあるのを知っているから思い浮かべる、できる。後は色んな仕組みの基本、知ってる。空を飛ぶ時に必要な力も知っている、だから飛べる。僕の世界、知らないことを気付くした人たちがたくさんのこと残して広めてる。あの空の向こうの星のことも、目には見えない小さな世界のことも。子どもの頃から学ぶから」


 魔術師である妻は何か感じることがあったらしく、よく少年と話すようになった。


 あまり見ていて気持ちの良い光景ではないな、と思った自分に苦笑した。誓約の紋がある限り、お互い浮気など出来ないのに。


 魔術「ザル」を張るのは三日後に決まった。必要な魔力をためて練るのに要する時間だという。

 陣地の空気は緩みかけたが、少年がとんでもないことを言った。


「調査に森に行くした時、とてもたくさんの魔物がいた。あれって頭良いヤツ。こちらが何かしようとしているの分かるしてる。あれ、たぶん明日陽が落ちたら来るよ。僕が魔術使うまで三日、防ぐして、みんな」


 天幕内の指揮官たちの毛穴が開いた。

 魔物の総攻撃が来るという。いよいよ人間を蹂躙じゅうりんしようと来る。

 少年が魔力を練り上げ魔術を放つまで防げれば、人間の勝ち。

 少年を守れなければ、負け。この国は滅ぶ。


 現在討伐に出ている隊以外は皆天幕に戻り、静かに休む。眠る者もいれば家族と過ごす者、友と過ごす者。

 陣地から逃げる者はいなかった。

 もう既に逃げる時期は過ぎている。この国のどこにいても、あの少年を守れなければ終わりなのだ。

 戦闘員は力の限りを尽くすことを。

 非戦闘員はこの身を以てしても少年の所まで魔物を寄せないことを。

 それぞれ秘めながら「最後の夜」は更けていった。


 自分はそんな陣地を見下ろす高台に一人いた。

 どう転んでもあと数日でこの地獄は終わる。空気が冴え渡り、星々の瞬きがとても美しい。

 この戦いで死んでいった何千何万もの民たちが見守っているように感じた。ただの感傷でも構わない。自分は、部下は、今日も生きた。死んでいった者たちに恥じぬ戦いを明日もするだけだ。

 目を閉じ頭を垂れ、祈りを捧げる。


 自分の天幕に戻るために雪を踏みしめながら歩くと、人の話し声がした。


「隊長さんに言わない、なんで?」


 少年の声だ。少年は「隊長さん」と自分を呼ぶ。

 空気が冴えると遠くの音がよく聞こえる。


「旦那様には、言わない」


 息を呑んだ。

 妻だ。

 少年と二人なのか。何を話している? 何を「言わない」のだ。


「お互い死ぬかもしれない。気持ち、思い、言わないと相手は分からない。言わないで、相手いなくなる。ずっと、ずっと、ずっと辛いよ?」


「私は旦那様をお慕いしています。この気持ちは嘘ではありません」


「ウソじゃない、けど、作られたもの。魅了を自分にかける、暗示する「旦那様が好き」、思い込むのなんで? 本当に好き、それいらない。その魅了のせいで、あなた本当の力使うできない。それで戦う、命取りになる」


 魅了を自分にかける……妻が、なぜ。


 たまらず一歩踏み出す。

 ザク。雪を踏みしめる音が思いの外響いた。


「……隊長さん、盗み聞き、良くない。でも今は良かった」


「だ、旦那様……私は」


 妻の顔は雪よりも白く、泣きそうに歪んでいた。


 三人で自分の天幕に戻る。無言で雪を払い、外套を脱いで、贅沢だが、妻の好む甘い乳茶を入れた。


「ミルクティー、おいしい。ありがとう隊長さん。……僕は飲んだら自分の天幕に戻るするよ。夫婦のことは夫婦で話す、一番」


 そう言われても困る。妻は下を向いて何も話そうとしない。


「良い大人がおろおろ……隊長さんも人間ひとのこだ。とりあえず、奥さんの魅了、解くする?」


 少年が、そう言った途端、はじかれたように妻が叫んだ。


「解いてはダメです! 私は、私は呪われているのです! 旦那様が好きなのに、前世の気持ちに引きずられて、どうしても気になってしまう。私は、エミリアは旦那様をお慕いしているのに! 何をしてもダメだった! 魅了だけが思いを封じ込めることが出来たのです!」


 妻は泣き伏してしまった。


 しばらくして、妻が少しずつ話し出した。

 前世の記憶があること。

 前世、婚姻の誓約を結んだ人と添い遂げたこと。

 生まれ変わって、妻には記憶があるが、相手には記憶がないこと。

 ……どうしようもなくその人が気になってしまうこと。

 その人には婚約者がいること。諦めることも出来ない内に、自分との婚姻の話が来たこと。誓約まで刻めば、気持ちが落ち着くと思ったのに、ダメだったこと。

 夫婦となり、確かに愛情を感じているのに、前世の自分が首を振り、邪魔をすること。

 そして自身に「魅了」をかけたこと。

 エイノ・カルフを好ましく思い、愛するようにと。


「ずっと術を編んでいるから、魔力がいつも満杯に戻るしない。明日から戦う、命取り」


 婚姻を結んでから六年近く、ずっと術をかけ続けていたのか。なんということを。魅了の術を解いても、精神に影響があるかもしれない。


「エルミリア・カルフ」


 妻がビクリと身体を震わせた。

 自分がエミリアの真名を言うと、妻は顔を上げ、嫌だ嫌だと首を振った。


 この大陸では真名と通称を使い分ける。相手の精神に影響する魔術をかける時に名が必要になることから、真名を隠し通称を名乗るのは古からの習慣だ。自分にも真名がある。


「シュウ様、妻は自分で解くつもりはないようなので、解いてくださいますか。あとは夫婦で話しますから」


「うん、そうして」


 長年、周りに気付かれないように緻密に編んだだろう妻の魅了の術は、少年によりあっという間に解かれた。

 少年は「じゃあ頑張って」と、天幕を出て行った。


「エミリア、何か変わったか?」


「……分かりません。ただ、身体の真ん中に穴が開いたような気がします。とても大きなものが欠けたような。旦那様、旦那様、私は、」


「おいで、エミリア」


 妻の言葉を遮って抱き締めた。


「今は生きている。だが、次の瞬間は死んでいるかもしれない。私は、エミリア、君をとても好ましく思っている。国に決められた妻だけれども、あなたで良かったと本当に思っている。例えシュウ様でも男と二人でいるのは気に入らないくらい……。伝わるだろうか、エミリア。あなたの気持ちがどうであろうと、生き延びて、共に生きて欲しい」


 ああ、言うのは初めてだろうか。……初めてだな。


「愛しているよ。我がエミリアよ」


 泣きじゃくる妻を更に抱き締めると、魔力が混ざり合う。今までとは違い、より境なく混ざり合っている気がする。


 目が覚めたら、最後の始まりだ。存分に戦い、少年を守り、最愛の妻を守り、部下を守り、民を守り、国を王を守る。


 ああ、誉れだ。戦い抜いて見せよう。


 翌日、出来うる限り万全の態勢で迎え打つための準備をした。

 妻にはただ一言、「生きて、また」とだけ声をかけた。


 陽が沈んだのを見計らって、今までの規模にない魔物の大群が森から現れた。それは騎士にまとめられた軍隊のようで。


 地獄。この一言に尽きた。


 戦いの中で夜を一つ越え、自分の中で感じる妻の魔力だけが、自分と妻が生きている何よりの証拠で、安心して戦えた。


 傷か疲労か、いよいよ音も聞こえず目も見えず、気配だけで魔物を叩き潰していた時、朝陽が射したのが分かった。

 次の朝陽は拝めるかどうか、弱気な自分を自嘲しながら魔物を叩き潰す。


 次の瞬間、辺りの魔物の気配が消えた。


 何が起こったか分からない。剣を構えたまま気配を探る。

 温かい魔力が漂う。これは、治癒術か?


「エイノ! 生きているな? 今、目も治してやる。衛生隊! 第二師団長の治療を最優先に」


 久しぶりに自分の呼吸以外に聞こえた声に驚愕する。


「ラウリ殿? なぜここに……」


 近衛隊長のラウリは自分が従騎士の時からの先輩騎士で、王族警護専任の騎士だ。王都を、陛下のお側を離れてここにいるはずがない。


「陛下のご判断だ。ご自分の身はご自分で守られると。ここには近衛のほとんどが来ている。王女殿下も参戦され、負傷者の治療に当たられている。シュウ殿の魔術「ザル」はまもなくだ! まだ戦えるな? エイノ・カルフ! この周辺の魔物は倒した。巻き返すぞ! 魔物どもを森へ追い返す!」


 なんということか。国の敵は魔物だけではない。陛下の身辺を空にするなど愚かな! しかも王女殿下を死地にお連れするなど!


「何も言うな。陛下と殿下のご判断だ。近隣国の恥知らずどもが例えこの期に国を盗ろうとしようと、ご自分のお命が危険に晒されようと、ここで魔物をくい止める。さもなければ、民が、国が死ぬ。陛下は民を選択された」


「……そうか。ならば、一刻も早く世継ぎの王女殿下を陛下にお返しせねばならぬな。もちろん、王配となるラウリ殿も。……治癒はもういい。他の者の元へ」


 自分に治癒術をかけていた衛生兵を下がらせる。

 ご自分の身を外敵に晒し、次代の女王とその婚約者をこの地に送り込んだ陛下のお覚悟たるや。

 もう何も迷うことはない。


「さあ参ろう。一匹残らず黒の森へ追い返す。さもなくば潰すだけだ」


 そして。

 抜けるような冬の青空が赤と橙と紫に染まっていく中。


 少年の魔術は発動した。


 森から天に向かって延びる無数の術の線が緩やかな曲線を描きながら複雑に編み込まれ、遥か上空の一点で結ばれた。

 それは不思議な光景で、黒の森全体にとてつもない大きさの半球体が被さっているようにも見えた。


「あ、……ざる?」


「え、ざる被せた? 魔術で作って? 森に?」


「どんだけでっかいざる……」


「異世界人て、……色々おかしいだろ」


 騎士や兵士たちが呆然としている。

 そうだろう。自分だって魔術「ザル」の詳細を聞いてなければ、そうなっただろう。なんだザルって。まんまではないか。しかも黒の森全体を覆う魔術など、規格外過ぎる。


「油断するな! シュウ様の術により魔物はもう黒の森から出られない! その効力は数年に及ぶという! さあ! 森の外にいる魔物たちはもう森に入れない。残党を狩るぞ!!」


 呆けていた者たちの目に生気が宿る。

 戦いに「終わり」が見えたのだ。


 ときの声があちらこちらで上がる。

 なけなしの気力を振り絞り、目の前の魔物を倒す。

 やがて目に見えて魔物の数が減っていき、比較的まだ体力のある近衛隊が前線を張り、他は陣地に下がった。

 陣地にも魔物が入り込み、天幕はなぎ倒され、人々が倒れていた。鎧を着た者、着ていない者。少年を守った者たち。

 犠牲となった者たちを決められた場所へ運び、今夜休む天幕を立て直す作業が始まっていた。


 妻も陣地に下がっているはずだが、姿が見えない。

 胸騒ぎがした。

 戦の中にあって、この「胸騒ぎ」を放って置いて無事で済んだ試しがない。

 指揮官たちに指示を与え、自分は前線に戻ることにした。


 前線より少し離れた所に救護所があった。

 王女殿下と共に妻がいるのが見えたので、柄にもなく安堵の息を吐いた。


 妻の視線の先を見るまでは。


 ラウリ殿を、見ている?


 どうしても気になる人は、婚約者のいる人で。


 昨夜の妻の言葉が蘇る。

 まさか、ラウリ殿が妻の前世の相手だというのか。

 ラウリ殿は、王女殿下の……そんな、まさか。


 ……違うなら、なぜ妻は、自分の見たことのないあんな顔で他の男を見ているのか。

 婚姻の誓約の紋をその胸に刻みながら、他の男を。


 戦場の、しかも最前線で、集中力を欠き一瞬でも気を取られることが、どれだけ命取りになるか。嫌でも知っていたはずなのに。


「エイノ!! うしろ!!」


 遠くにいるラウリ殿の声が嫌にゆっくり聞こえた。


 肌が粟立つ。

 その一撃を避けられたのは、ただの幸運に他ならない。

 飛び退いて体勢を立て直して一撃で魔物の首を落とす。

 ほとんど反射のように魔物を倒し、ラウリ殿を見ると、魔物に引き倒されていた。

 自分に注意を向けたラウリ殿の隙を魔物が突いた。


 王女殿下の悲鳴が聞こえる。


 全てがゆっくりと動いて見えた。

 ラウリ殿を引き裂こうと振り上げられた魔物の腕が火の魔術で吹き飛んで。

 魔物が術を放った妻へ飛ぶように向かい、残った腕で一払いして。

 妻の身体は二つになった。


 左手のサンシキスミレの紋が枯れ、消えた。





 他の男に気持ちがあっても、自分は妻を愛せると、愛していると思っていた。それが、いつか通じると思っていた。だから、少年に妻の魅了を解いてもらった。


 結果は、魅了の術を解かれた妻は、前世の夫を愛おしげに見つめ、その男のために死んだ。

 そのきっかけが自分だというから、笑えない。

 それでも、妻を愛しているから……救えない。


 やがて、死に至る病を得て最後の息を吐くまで、その思いに囚われた。


 晩年は少年が自分に寄り添ってくれていた。


「僕は、大切な人への気持ちの自覚もなかったし、大変な時に側にもいてやらなかった。何も言わず、何も行動せずに、それどころか余計なことをして。失ってから探しているんだ。今も、これからも。だから、隊長さんたちには、お互いがいる内に……って、お節介した。また余計なことをして、その結果奥さんは、隊長さんは。……僕は何もしなくても、何かしても、周りを不幸にしてしまう。……ごめんなさい」


 何を言っているのか。見ず知らずの国と民のために少年がしてくれたことを思えば、感謝こそすれ、恨むなど筋違いだ。

 今も、既に退役して役立たずになっている自分に寄り添い、手を握ってくれているのは、他でもない少年だ。


 そう言ってやりたいが、もう言葉を紡ぐ力はない。手を握る力を強めるだけで精一杯だ。


 あれからどれだけの時が過ぎたか。それでも少年のようななりをしているシュウの幸せを願う。

 妻への思いに囚われていても、最後に誰かの幸せを願える自分であったことを嬉しく思う。





 前世の愛しさが、今世の呪いとなる。

 エミリアの言葉を身を以て知ったのは、今世の三歳の時だ。


 今世の自分も魔力が不安定で、生まれてすぐに自分と魔力の相性が良い女性と婚姻の誓約を結ばされていた。もちろん結婚自体は自分が十五になってからだが、魔力が混じり合い、随分と安定していると思う。

 またもや、自分への生け贄のように婚姻の誓約を結ばされた女性。前世の妻を思うと複雑だが、大切にせねばと思った。


 目の前に、今世の婚約者(前世の妻)が現れるまでは。


 婚約者エミリアは前世を覚えていなかった。

 前世の妻(エミリア)は、その前の人生の記憶に翻弄された。

 今世は前世の記憶はなく、前世の婚姻の誓約と魅了に引きずられてる。


 今度は自分が前世の記憶に汚染されている。

 皮肉過ぎて笑った。


 国に決められたものの、婚約者として、将来の妻として、随分と年下の自分に歩み寄ろうとしてくれている。

 近づくだけで魔力が安定し、気持ちがざわついた。

 明らかに好意を持った目で自分を見ている。

 自分も愛しさが彼女に向かっていく。


 婚姻の誓約は成立している。今世もまた、自分を好きになるしか道はない。


 彼女が自分を好ましく思うのは、前世の影響でしかない。そう思い知る。


 もう解放してやりたい。

 もう解放してほしい。


 婚約者と距離を取って極力関わり合わないようにし、一日の大半を魔力制御の鍛錬に費やした。

 魔物と戦う日々と妻を失う瞬間を繰り返す夢に苛まれながら、幼い身体には負荷が過ぎ、意識を失うことも度々あった。

 それでも、魔力の制御さえ出来れば、婚姻の誓約を解くことが出来ると思っていた。

 北の国には規格外な魔術師のシュウがいるから。


 十歳頃から自分だけで魔力が安定するようになった。

 内密に北の国へ便りを出し、友に助けを求めた。

 帰ってきた返事に絶望した。


 返事は代理で。娘と名乗る人から、シュウが永い眠りについたことを知った。


 そもそも婚姻の誓約は古の魔術で、失われた術とさえ呼ばれている。前世でも今世でも術を解いた話は聞いたことがない。研究すらされているかどうか分からない。

 それでも王宮中、王都中の魔術書をあたった。調べて、調べて、何も見つからず、自分は十三歳になり、精通を迎えた。結婚が現実味を帯びてくる。彼女はもう十八歳で、自分が十五歳まで待たせれば、婚期を逃す。


 残る方法は、どちらかの死。

 迷うこともない。

 もう、解放してやりたい。

 覚えていないのに、前世の魅了を引きずり、前世の誓約を引きずり、こんなに冷遇しているのに自分に好意をむける今世の婚約者を。


 ただ自分が死ぬだけでは駄目だ。王族として不適格となり、幽閉の末、病死、という名の自殺が一番波風が立たない。幸い、弟はとても優秀で周りに盛り立ててもらえる愛嬌もある。良い王となるだろう。

 何をしでかせばいいか。

 出来る限り大勢の前で、取り返しのつかぬことを。


 そう思って、「しでかした」ことが、彼女を殺すことになるなんて、露にも思わなかった。

 これで解放出来たとさえ思っていたのに。


 突然、何かが身体の中からごっそりと無くなった。

 ぞっとした。

 自分は生きている。なのに、これはどういうことだ。


 開発されたばかりの転移の術を無意識に使い、()()へ向かう。

 その部屋の寝台に婚約者がいた。ただ眠っているように、穏やかに。


 馬鹿な。なぜだ。なぜだ。なぜお前が死ぬ? 死ぬのは自分だ!!


 寝台へ足を進める自分の前に婚約者の兄が立ちはだかった。


「……妹は、どんな待遇でも、殿下を慕えばこそ、耐え、殿下を解放しようと命も尽くしました。今更何しに来られたのです? いくら王族でも、あんまりだ……!」


 血反吐を吐くような叫びに足が止まる。


 慕う? 誰が? 誰を?


「お前じゃない。愛しているのはお前じゃない。愛しているのは……」


 自分を愛しているのは、前世の妻(エミリア)の影響で、今世の婚約者じゃない。


「私を愛しているのは、お前じゃないのに、なぜ……」


 もう、解放してやりたかっただけなのに。





 王位継承は弟になり、自分は弟に子が生まれた後、王族籍も抜けることになった。

 一兵卒として軍属になり、ただ国を守る小さな歯車であることだけを望んだ。


 彼女は解放されただろうか。

 自分は解放されただろうか。

 自分はどうすれば良かったのか。

 自分は、どうしたかったのか。


 分からないまま時が過ぎ、弟が即位し、黒の森が溢れる予言がされた。 自分は王の兄という立場で対応しなくてはならなくなった。


 今、ここに、シュウはいない。エミリアもいない。

 一度も名を呼ばなかった婚約者も、もういない。


 独りで立ち向かわなければならない。「ザル」は自分では不可能。一人でも強い傭兵や冒険者を森境の町へ集めることが急務だ。国を越え情報を集める。


 南西の国の辺境に、黒の森の近くでありながら、森に深く入り貴重な植物を採取する冒険者がいると聞いた。

 作る回復薬が一般に出回っている物よりも高い効果を発揮し、魔物除けも確かな効果があり、冒険者の間では密かな有名人だという。

 回復役の術師も薬師もどれだけいても困らない。


 是非協力してほしいと、報酬など細かい条件を付して冒険者ギルドを通して依頼したところ、回答と共に本人たちが王都に来た。


「ご依頼ありがとうございます、アルド王兄殿下。私はビビ・マイヤー。こちらは息子のユーリ。あの町のギルドと少々、ええ、少々揉めまして、国を出るこの依頼は渡りに船でした。微力ですが謹んでお受けします」


 会って驚いた。母親とまだ幼い男の子だった。もう一人兄がいるが成人し、従騎士になるため東の国に行ったとのこと。

 女性であることもだが、その風貌が、どことなく少年シュウと似ていることに驚いた。

 同じ国の民? いや、そんなはずはない。少年は異世界のニホンから来たのだ。


 ……まて、何年か前に、東の国で異世界からの落ち人が保護されたと聞いた。それにまつわるその国の騒動も。


 まさか。少年と同じ国の民ならば、とんでもない魔力を持っているのではないか? 「ザル」を発動出来るくらいの。


「あ、言っておきますが、私は魔力がまったくないので、生活で魔力が必要な時は息子に頼っています。息子は魔術師を目指していて、すごいんですよ!」


 秒で打ち砕かれた。


 我が国は今、一人でも多くの力を必要としていている。この親子が冒険者として協力してくれるならば、それで良しとしよう。

 もしも、()()困っているのであれば、少年への恩返し代わりに助けになろう。そうすれば、少しは自分の気持ちが救われるだろうか。


 嫌な夢しか見ない自分は、夢にも思わなかった。

 この出会いが、自分の人生を、国を救ってくれることを。

 魔物との戦いのため赴任した町に、自分の愚かさの所為で、眠るように逝った婚約者の生まれ変わりがいることを。

 自分は決して関わらない。固い決意でその生まれ変わりを避けようにも、このお節介な冒険者は、どことなく現れ、ことあるごとにくっつけようとし、……その手段たるや。

 拒んで、逃げて逃げて、拒んだのに、……最後には抱きしめて、何十年も心の奥底に沈めていた「いとおしさ」を思い出すことを。


 魔物の群と戦いながら、そんな日がやってくることを、自分はまだ知らない。



読んでくださり、ありがとうございました。

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