地下鉄
夜間、地下鉄構内は非常に静かだった。
コンクリートの灰色のままの階段。
壁には手すりが、段には滑り止めが、最低限這っている。
改装してほしいな。
膝が気になる年齢だ。
そんなに変わらないのかもしれないけど、コンクリート剥き出しはなんとなく硬い気がする。
柔らかく着地するように……。
そう思って何段か降りたけれど、階段が長すぎて、結局普通に降りた。
乗り場には、見えるところに五人、まばらに人がいた。
皆、自分と反対方向の線路に向かって立っている。
電車はすぐにホームに入ってきた。
風とともに、目の前を流れる車中の様子。
ほとんど回送列車のようなもので、一……、二……、三……。
三人しか乗っていなかった。
この時間帯、こちら方面の電車には客が少ない。
電車が停止し、空気の音とともにドアが開く。
乗り込んだ車両には、誰もいなかった。
貸切状態だ。
気分良く、七人掛けのシートの真ん中に座った。バッグを気兼ねなく横に置ける。
もう帰るだけで、誰も周りにいない。とても気が楽だ。
明日は休みで予定も何もない。
背筋を伸ばすと、肩のコリがふわっと飛んでいった。
ドアが閉まって、電車が動きだす。
スマートフォンの音楽プレイヤーを操作し、無線式のイヤホンを着けた。
…………。
疑問を感じて、音量を確認する。
朝、電車に乗っていた時と同じ設定だ。
それなのに、音が小さい。
この、誰の話し声もしない車両で。
顔を上げて、気がついた。
目の前の窓が開いている。
上半分を下にスライドさせるタイプの。
それでうるさかったのか。
この路線は、郊外では地上を、都市部に入ると地下を走っている。
だから、窓が開いていることもある。
立ち上がって、スマートフォンをポケットにしまう。
向かいのシートに近づいた。
シートにすねを置いて寄りかかり、窓に両手を伸ばす。
ロックを外して、窓を持ち上げようとした。
その瞬間、暗闇の壁に見えた。
人の顔。
心臓が縮んだ。
思わず、ダンッ――と衝撃が伝わるほどの力で、窓を閉めた。
両手を上げ、ぴっしりと窓を押さえたまま動けない。
胸がバクバクして、持ち手から手が離せない。
地下。地下だ。
目の前は暗い。人の気配のない地下の中。
蛍光灯の反射で見にくいとはいえ、暗いセメントと鉄骨だけの。
目を凝らすが、反射が歪んでいてよく見えない。
窓に近づこうにも、恐くて体が動かない。
よく、外を見なくては。
窓に、近づくんだ。
動転していて気づかなかった。
外じゃない。
自分の顔の前にある窓が真っ赤だ。
閉じた窓枠には、真っ赤な液体が付いている。白い糊のような滑り光るものも混じって。
赤い液体は二筋流れていた。
進行方向の逆、横に流れていく筋。
外の風に流されたのだろう。
もう一つ、真っすぐ下に落ちていく筋。
電車のスピードの影響を受けてない、内側にある。
窓を押さえる手に込めていた意識が、ふと、下に向いた。
シートに寄りかかった膝に、湿った温いものが触れている。
動く、べきだ。
恐怖がどうの言っている場合じゃない。
目だけでも動かさないと。
耳のイヤホンを取って、周りを確認するんだ。
……確認しなくてもいいから、この場から逃げないと。
心臓ばかりが鳴っている。
どこでもいいから、他の部分、動け……。
足が……。
後ろに少し動けた。
足の動かし方が思い出せなくて、引きずるように窓から遠ざかる。
窓との距離が開くたび、視界が広がっていく。
暗く大きな窓は、誰もいない車内をよく映し出している。
それなのに、正面の赤く汚れた部分の像は歪んでいて、自分の様子だけ分からない。
何もないと分かって、左右に目線を動かせるようになった。
下だ。下を見るんだ。
ぐっと、目線を下げた。
何もない。
まっさらなシートだった。
血は、零れていない。
目線を上にたどっていくと、血なんてなかった。
正面には目をぎょろぎょろさせた……、普通に自分の姿が映っていた。
何だったんだ。
寝ぼけていたのだろうか。
目蓋に力を込めて、開けたり閉めたりする。
引きつっていた喉元が、空気を通しはじめる。
窓の高さに上げたままだった手を、すっと下ろす。
窓は閉まっている。
座っていたシートに戻ろう。
振り返りながら足を踏み出す。
ピチャッと音がした。
歩いていたはずみで、もう一歩踏み出した。
やはり、水音がした気がする。
イヤホンから奏でられる音楽越しで、足元の音さえ、もやがかっている。
さらにもう一歩が踏み出せない。
床じゃない感触もした気がする。
目の前の窓には、足元は見えないが、後ろのシートは映っている。
まっさらなシートのままだった。
直接下を見ても、床には何もない。
何もない床を見つめ続ける。
両手を耳にやり……、イヤホンの小さな形に触れる。
少しの力で、軽く外れた。
一気に入ってくる電車の音が凄まじい。
耳が痛いくらいだ。
でも、おかしい。
電車ってここまで、うるさかったっけ。
そして――、
足を動かしていないのに、ピチャッと鳴った。
「次はー……」
車内アナウンスが駅名を告げる。
降りる予定の駅だ。
途中駅、留まった記憶がない。
電車の音が、ブレーキを始めた音に変わる。
壁が、駅の中の落ち着いた彩色に変わる。
やがて停車し、背中越しに、ドアが空気音とともに開く音がした。
振り返ると、いつもの駅で……。
息を飲んだ。
真後ろの窓が開いている。
発車チャイムが聞こえた。
シートに置いたバッグを引っ掴み、不格好に駆けだす。
閉まりかけたドアから、転びそうな勢いで飛び出した。
ホームには人がいて、駆け下りたこちらを一瞥したが、すぐ目を逸らした。
普通の人がいる。
ほっとして、肩の力が抜けていく……。
家までは明るい道が多いが、暗い場所もなくはない。
心音が整うまで、人の気配のする場所にいたい。
ホームの椅子に座った。
膝に置いたバッグの中を、なんとはなしに確認する。
イヤホン……。
無線式のイヤホンを、片方は握っている。
もう片方が見つからない。
服のポケット、バッグのポケット……、椅子から立って、周りの床を確認する。
まだ反対方面の電車はこない。
待っている客が、怪訝そうにこちらを見た。
……椅子に座りなおした。
目立たないよう、バッグの奥をごそごそ探り続ける。
イヤホンの値段は少し高かったんだ。
反対方面の電車が来た。
待っていた客も、降車した客も階段を上がってしまった頃、バッグを探るのを諦め、溜息をついた。
あんな小さい物、どこかに落として見つかるだろうか。
車両が分かっている今なら、意外とすぐ見つかるかもしれない。
立ち上がって、駅員がいるであろう改札に向かう。
とりあえず数日は片方か。
耳に取り付ける。
鳴らしたままの音楽が耳に……。
電車の音がする。
ホームは空なのに。
ホームに入る時の、停車間際の音ではない。
規則正しい、スピードが乗っている時の音。
今気づいた。
音楽には、歌手の綺麗な声の後ろに、うめくような声がする。
……だ……、……れか……
うめくという大きさじゃない。
電車の音に消されていたが、叫んでいると言っていい。
何度も何度も。
引きつるような叫びは、人間のものとは思えない。
けれど単語を拾えてしまう。
……だれ……か……――
誰かを、探している。
「……いた……」
そのかすれ声は、はっきり聞こえた。