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やさしい夜に


 美紅(みく)は、家の近くにあるこの公園の滑り台が好きだった。ありきたりな古ぼけた市営団地の敷地内に造られた小さな申し訳程度の公園は、けれども幼い美紅にしてみれば広大な遊技場だった。

 ほぼ毎日、夕方には必ず仕事帰りの父と一緒にお気に入りの滑り台で遊ぶ。ほかの子どもたちが滑り台のてっぺんに登っていると、「そこは私のよ」と大声で主張したらしい。

 懐かしい公園。父と遊んだ、思い出の公園。

 今は誰もいない。雑草の手入れさえもされておらず、まるで誰からも忘れ去られたような朽ちた公園は、美紅には昔の記憶を覆い隠そうとしているように思えた。

 幼い頃の他愛ない記憶。

 父のいた、小さな記憶。


          *


 宿題なんて世の中からなくなっちゃえばいいのに。

 塾の帰り道、美紅は友だちとそう愚痴を言い合った。

美紅が小学校に入学して4年経つ。そろそろ授業で教える内容も難しくなってきていた。特に美紅は算数が苦手だから、毎日のように出される算数の宿題に、頭を抱えない日はなかった。もちろん苦手なだけであってできないことはないのだけれど、去年から通いはじめた塾の宿題も同じ量が出されるので、それを全部片づけていては、いくら時間があっても足りないと思ってしまうのだ。

 大きなため息をついて、それからはた(・・)と思い出す。

 ―――ため息をひとつついたら、幸せがひとつ逃げていくのよ―――

 母がいつも口癖のようにくりかえしている言葉だ。実際にため息をついて幸せが逃げていったところなんて見たことがない。けれど、なんだか(さび)しい気持ちになることは、じわりと心の中にしみこんでくるのでよくわかった。それでも美紅はため息をついてしまう。幸せの代わりに宿題が逃げていったらいいのに。

 美紅が2階下に住む友だちと別れて階段を登ろうとした直後だ。踊り場に人影を見つけた。

 同じ棟に住んでいる人かな、と思いながら、美紅は足早に脇をすり抜ける。

「落ちたよ」

 人影が美紅の方を向いて、何かを差し出した。アニメのキャラクターが印刷されたハンカチだ。驚いてポケットに手を突っ込むと、穴が開いていた。ママに怒られるかも、と心配しながら、人影――どこかの高校の制服のようなものを着ている青年にお礼を言って、その場から早足で去る。「知らない人についていっちゃだめよ」と母が口酸っぱく言っていたので、素直に従ったのだ。

 けれど、人影が階段の踊り場で立ち尽くし、何をしているのか気にもなった。ここに何か用があるのだろうか。美紅は思わず足を止めた。

「うわあ」

 階段の踊り場からおだやかな光がさしていた。真ん丸い月だ。さまざまな大きさの星が散りばめられた、雲ひとつない夜空の真ん中に、それはぽかりと浮かんでいた。

「きれいだろう? 今日は満月だって」

 青年の呟きに呼応したように、大きな星がちらりと光る。

「うん……」

 ふたりして手すりにもたれ、ときを忘れてぼんやりと月を眺めていた。

「あ、ウサギ見つけた」

「え? どこどこ?」

 青年の明るい声に、美紅が小さな身を乗り出して「ウサギ、ウサギ」と探す。

「あ、ホントだ、見えたっ。本当にお(もち)をついてるんだね」

 美紅は言いながら、本当はウサギに見えたのはクレーターとかいうもので、当然お餅もつかないのにね、と思った。けれども、ウサギがエッサホイサと餅をつく姿を想像するのはとても楽しい。

「ウサギは好き?」

「うーん……よくわかんない。かわいいけど、世話するのってすっごい大変なんだって。学校の中庭にね、ウサギ小屋があるんだけど、くさいし、あんまり近寄らないな」

「ウサギが一生懸命になって人参を食べてる姿は、見ていて楽しいよ」

「でも私、ウサギより犬の方が好き。だってかわいいし、(なつ)くし。でもママにお願いしてもすぐダメって言うんだ」

「どうして?」

 青年がやさしく訊いてくるので、美紅の口は止まらない。「だってね」と母親への不満が口をついて出る。

「だって、誰が世話するの、とか言うのよ? 私がちゃんとするって言っても、まわりのおうちに迷惑でしょって言うの。しつけちゃんとするからって言っても、勉強がオロソカになるでしょって言うの。ちゃんと勉強するっていったら、ママ、なんて言ったと思う?」

「さあ」

 あっさりと青年が白旗を揚げたので、美紅は幾分昂ぶった気持ちを抑えて答えた。

「ママ犬嫌いなの、だって。ママが犬が嫌いって言ったの、私はじめて聞いたのよ。苦し紛れの言い訳にしか聞こえない」

「でも、どうして君のママは犬を飼おうとしないんだろうね」

 青年がぽつりと呟くと、美紅が「それはだから」と口を開こうとした。けれど、途中であきらめたように月を見上げる。

「うち、お金ないから。塾だって、ママががんばって働いて、もらったお給料のおかげで行けるんだ。ママ、私にいい大学に入って就職してもらいたいんだよ。わかってる、叔母(おば)ちゃんから聞いたもん」

 美紅はまたため息をついて、それから「しまった」と思った。また幸せが逃げていく。

「私がわがまま言ってるってこと、わかってる。ママのこと考えたら、そんなこと言って困らせちゃいけないんだ。けど……」

 月から視線を外してうつむくと、月の光で陰になったところに、青年の手が見えた。その手はゆっくりと動いて、美紅のところに向かう。頭を()でられた。

「君はえらいね。頭のいい子だ」

「えらくない、ちっとも、えらくないもん」

 語尾が震えた。視界がぼやける。頭を撫でる手はあたたかく、やさしい。

「君はやさしい子だね。お願いだから泣かないで」

 グズッと(はな)をすすった。両手で涙を必死にぬぐって、美紅は青年を見上げた。とてもきれいな顔立ちだった。

 クスリと笑って、青年が人差し指を立てた。

「今夜の月がきれいだったこと、誰にも言っちゃだめだよ」

 美紅は青年の笑顔につられて、「うん」と(うなず)き返した。

 青年と別れてから、彼に名前を訊いていないことを思い出した。自分の名前も教えていない。夜にあんなところで逢うのだから、やはり同じ団地に住んでいる人なんだろうと思った。


          *


 仏壇の前に座り、リン――そういう名前だと母に教えられるまで、これを「金属でできたお茶碗」だと思っていた――を1回叩いてチーンと鳴らす。パパただいま。

 父の滋郎(じろう)が亡くなったのは、一昨年(おととし)の冬、美紅が小学2年生のときだ。仕事で車を運転していたときに、事故に遭った。信号が赤の交差点から飛び出してきた自転車をよけようと右にハンドルを切った際、誤って電柱にぶつかったのだ。打ち所が悪かったらしい。意識が戻らないまま、死んでしまった。

 小学2年生と言っても、充分(じゅうぶん)「死」については理解していた。当然(かな)しんだし、信号無視をして道路を横切った自転車の主を恨んだ。けれども、父は帰ってこないのだ。

「パパ、どこにいるの?」

 泣き()らして呆然と座り込む母に、美紅は小さな声で尋ねた。母の腕が上がって、その先に満月があった。

 父は、月にいるんだ。

 そう思うといくらか哀しさはやわらいだ。喪失感の横に、父が月にいるという満足感がぽつりと生まれた。今は父が月にいるなんて嘘だとわかる。でも信じてみるのも、楽しかった。

「パパ、今日は満月だよ。見える? とってもきれいなんだ」

 美紅は言いながら部屋の窓を開けた。

「ウサギが作ったお餅はおいしい? パパ、お餅好きだったよね。お正月にお餅ばっかり入れたお雑煮食べてたし」

 それから、と美紅はさっき逢った青年のことを話そうと思った。けれど、不覚にも泣き出してしまったことを思い出して、やっぱりやめた。

「明日は晴れるといいな。明日ね、写生大会があるんだ。みんなで河川敷に行って、花の絵とかを描くんだよ」

 晴れるかな?

 仏壇に飾られた父の笑顔が、とてもやさしい。


          *


 翌日はきれいに晴れ上がった空だった。絵は満足するくらい会心のできで、美紅は友だちとクラスメイトの男子がふざけて先生に怒られたことを笑いながら、家に帰った。今日は塾もなかったし、宿題も出なかったので、気分よく足を運んだ。

 家に戻ると、母がおかしかった。

「ママ?」

 いつもなら台所で軽快なリズムで包丁を操る母が、目の前の開いた窓に顔を向けて硬直していた。

 驚かさないようにわざと足音を立てて近づいたが、母は一向(いっこう)に美紅に気づこうとしない。それどころかぶるぶると震え出した。

「マ、」

「なんなのよ!」

 ビクッとした。いつもおとなしい母がヒステリックな声をあげて叫んだのだ。

「いったい何がしたいのよ! もうたくさんよ! もう来ないでッ!」

「ママ……っ」

 美紅のことなど、まったく認識していないようだった。包丁を勢いよく振りかざしてまな板に叩きつけて刺すと、ふらふらとおぼつかない足取りで椅子に座った。

「ママ!」

 3度目の呼びかけで尚子(なおこ)はやっと、意識を取り戻した病人のように青筋の立った顔を向けた。

「ああ、美紅……お帰り」

「どうしたの?」

 不安げに尋ねたら、尚子は笑顔を見せた。

「なんでもないわ。今日パート先で嫌なことがあったから、ちょっとイライラしちゃってたの……。心配かけてごめんね」

 普段のように振る舞おうとしても、顔面の粒のような汗は隠しようがない。尚子はそれでももう1度美紅に謝って台所に立った。「今晩のおかずは野菜の炒め物だけになっちゃうけど、我慢してね」

 美紅は尚子の言葉を曖昧に聞き取りながら、その細い背中を見つめた。母がこんな状態になるのは、今回が初めてではない。前にも1度あった。もしかしたら美紅がいないときにも、あったのかもしれない。

 美紅が初めてその状態を見たとき、「ママが壊れた」と思った。去年の夏のことだった。家の窓から打ち上げ花火を眺めていた尚子が、いきなり表情を凍らせ、大粒の汗を流しはじめた。夏だから暑いのは仕方ないとしても、その汗の()き方は尋常ではなかったのだ。

「なんなのよあんた……! いったいなんの恨みがあるって言うのよ!? いい加減にして!」

 突拍子もなく叫び出したかと思うと、ぴしゃりと窓を閉めてしまった。いきなりのことで気が動転した美紅は泣き出した。泣き声で我を取り戻した母は、美紅を力いっぱい抱きしめて「ごめんね、ごめんね」と謝り続けた。

 こんな風に豹変した母を見るのは、それから約1年ぶりのことだった。

 母はどうしてあんなことをしたのか話さない。話したくないと思っているようだから、無理強いするのは悪い気がした。けれど、いつかは話してほしい。美紅はそう思った。




 塾の帰りはいつも午後8時を回る。美紅は普段、近道として雑草だらけの公園を横切って帰っていた。電灯が皓々(こうこう)と光っているが、最近物騒だということで母から「公園には夜近づくな」と釘を刺されている。けれど、公園を横切った方が入り口に近いから、今晩も内緒で美紅は足早に走り抜けるのだ。

 けれど今晩はそこで昨夜の青年を見つけた。美紅は思わず足を止める。

「こんばんは」

 ブランコに座っている青年に近づくと、うつむいていた顔が上がって美紅を捉えた。

「帰り、遅いんだね」

「うん。今日は塾があったから。お兄さんは何してるの?」

「うん……」

 青年はそう答えて、しばらく間を置く。考えごとでもしていたのか、表情は昨夜より硬い感じがした。

「追い出されちゃった?」

 彼の母親にこっぴどくしかられたのかと訊くと、青年が笑顔を見せた。

「たぶんちがうよ」

「?」

 なぜ頭に「たぶん」がつくのかわからなくて、美紅は首をかしげる。

「でも、そうかもしれない」

「よくわかんないよ」

 わかるように話して、と、美紅はもうひとつのブランコに座って青年を覗き込んだ。

「僕にもわからないんだ。なぜわからないのかわからなくて、困ってる」

「なぞなぞみたい」

「なぞなぞだね。でも本当に、わからないんだ。覚えてないのかもしれない」

「忘れてるの?」

「……うん、忘れてる」

 何を? と訊いたら、わからない、と返ってきた。変なの、と美紅は呟いた。

「ねえねえ、私、お兄さんの名前知らないの。だからどこの人かわからなかったんだよ、昨夜(ゆうべ)

 ママにも言えなかった、と付け足して、「私、広瀬美紅。東棟の502号室に住んでるの」と自己紹介した。

「タカオ」

 次に美紅は「どこに住んでるの?」と訊いたら、答えが返ってくるまでに間があった。

「……ごめんね」

 しばらく待って、答えの代わりに返ってきたのは、答えではなかった。

「何が?」

「僕、君を困らせること、したくなかったんだ。それに、せっかく話ができる人を見つけたのに、本当のことを言って、嫌われるのなんて嫌だった」

「ねえ、何が?」

 たまらなくなって美紅が言い寄ると、タカオは一段と哀しい眼つきになってこう言った。

「僕、死んだんだ」

 はじめは冗談だと思った。冗談を言って、美紅をからかおうとしているんだと。けれど、青年の眼は本当に哀しそうで、とても冗談を言っているようには見えなかった。

「どういうこと……?」

「ごめん」

 青年は申し訳なさそうな笑顔を向けた。また哀しそうだった。

「なんで謝るの? お兄さん、悪いことしてないよ」

「うん、でもやっぱり君を困らせた」

 それは本当だ。美紅は正直困っていた。ことの真偽はともかく、死んだ人と話すなんてことは今までなかったから、どう接していいかわからないのだ。

「でも嫌わないよ。それより、お兄さんが言ったこと、本当?」

「本当だよ、たぶん」

「お兄さん、たぶんって言うの多いね」

「ごめん」

 何も言えないじゃないか、と美紅は思った。(いさ)めるごとに謝られては話が進まない。

「もう謝らないで。私が悪い人みたいじゃない」

「ごめ、」

「お兄さん!」

 怒られてシュンとしてしまう様は、美紅よりも子どもじみていて恰好(かっこう)悪かった。本当に子どもなのかしら、と思って、美紅は尋ねた。

「ねえお兄さん、お兄さんって何歳? 高校生?」

 訊いてから、「たぶん、はつけちゃだめよ」と念を押す。

「えと……た……そう、かな」

 これでは「たぶん」があろうとなかろうと同じだ。美紅はため息をこらえながら続けて質問する。

「っていうことは、そのくらいの歳に死んじゃったってことね。どうして死んじゃったの?」

 青年は曖昧(あいまい)に笑った。

「よく覚えてないんだ。朝ってことは覚えてるけど、気がついたら交差点の真ん中にいたし、トンネルの入り口にもいたっけ」

 連れてかれちゃったのかな。と笑った。

「最初に交差点にいたってこと? じゃあ、交通事故なんだよきっと。私のパパも交差点で事故を起こして死んじゃったんだ。で、どこの交差点かわかる?」

「……。わからない」

 青年が一瞬おかしな表情をしたが、美紅は無視した。なぜ父のことを話したのか、美紅自身もわからない。もしかしたら妙な近親感を覚えたのかも知れないが、今は目の前の情けなさそうな青年の正体を知ることが先と、さらりと流した。

 それにしても妙なものだ。自分の名前は覚えているのに――姓か名かはわからないが――、どこで死んだか忘れてしまっているなんて。それが霊の特徴なのだろうか。

「じゃあ調べて、お兄さんのおうちを探したらどう? お兄さんがどこの人かわかったら、どうして死んだかとかわかるかも」

「調べるって、どうやって?」

「そんなの決まってるじゃない。電話帳で……」

 そこまで言って、はたと気づく。そもそもこの青年がどこの「タカオ」なのかわからないのだ。もしかしたら南の果てに住んでいるかもしれないし、あるいは海を越えているかもしれない。「タカオ」自体が彼の名前ですらない可能性も否定できない。それに美紅ひとりでは到底調べられそうにもない。警察に……いや、相手は「幽霊」だ、自称だけれど。

 美紅は腕を伸ばして青年の右手に触れた。ちゃんと感触がある。そう言えば彼とはじめて逢った夜も、この手で美紅の頭を撫でてくれたじゃないか。

「幽霊って言うの、嘘でしょ?」

「嘘じゃないよ。たぶん」

 でなければ記憶を失っているだけ。美紅はようやく本当に彼を信じていいかどうか悩みはじめた。今のところ青年の哀しい眼つきは嘘だとは思えない。思いたくない。ではやっぱりこの青年は本当に幽霊なのだろうか。

 哀しいかな、この世に「幽霊」を自称する者はいないし、仮に現れたとして、何をもって「幽霊」とするのかの基準もない。ここは本人を信じるしかないのだ。

 美紅は青年の言葉を信じることにした。何かを失うということは、誰にだって耐えがたい苦痛なのだから。

「まあいいわ。ところで、なんでここにいるの? 成仏してないってことは、お兄さん、この世に未練があるんだよね?」

「うん、たぶん」

 じゃあ父は成仏したんだ、と頭の隅で安心し、一方で頼りない幽霊だと青年に呆れた。

「ねえお兄さん。死んだのっていつのこと? 最近?」

「さあ、いつだろう……」

「よーく思い出して!」

「は、はい……。……」

 びしっと顔の前に突きつけられた美紅の指をじっと見つめながら、青年は腕を組んで必死に思い出そうとしている。そしてあきらめの表情が浮かんだ。

「ごめん」

 今度は美紅があきらめの表情を作る番だった。

「もー……」

 近頃うまくいかないことだらけだ、と美紅は思った。これではなんにでも「呪われている」とつなげてしまうマイナス思考の人みたいだ。嫌な先生はいるし、学校の宿題は面倒だし、塾の宿題も面倒だし、犬も飼えないし(これは我慢することにしたが)、ママはときどき怖いし……

「どうしたの?」

 うっかり表情に出してしまったか、美紅はあわてて立ち上がった。しかしそのあとどうするとも考えていなかったので、バツの悪い気分になりながらも再びブランコに腰かけた。

「……なんでもない」

 それで納得がいくわけがない。青年はおだやかな口調で言った。

「そんな風には、見えないけど」

「……」

 言ってみようかな、と思った。言って、どうなるわけでもない。「それは大変だね」で終わるような話だ。頭のおかしい母親を持って大変だねって。

「パパが死んじゃったせいかな。……さっきも言っちゃったけど、うち、パパ死んだのね。パパが死んでから、ママ、ときどきだけど、変になるの。誰もいないところに向かって叫んだり、怒ったりするんだ……やっぱり、変だよね。近所のおばさんたちも言ってるんだ。母子家庭って大変だから、おかしくなっちゃったんだって……」

 広瀬さんちも大変よねえ、2年前でしょ、旦那さんが亡くなったの。それからずっと母ひとり子ひとりで生活して。生活費だって今まで旦那さんが稼いでたのにいなくなっちゃったもんだから朝からパートタイマーで働いてるのよ。もしかしたら夜も働いてるんじゃないのだってあそこの子ども娘だったかしら塾に通わせてるのよ授業料だってバカにならないじゃないじゃあやっぱり夜に奥さんの実家今借金抱えてて生活保護だけじゃ食べていけなくって頭おかしくなっちゃって――

「へん、なんだって……」

 まただ。また、泣いてる。泣く気なんてこれっぽっちもないのに。恥ずかしい。泣くな、自分。

 タカオに話したのは美紅の母がときどきおかしな言動をすることだけだった。なのに頭の中で耳にしてきた近所の無責任な噂話がぐるぐると廻り出して、どんどん気持ちが悪くなってくる。なんとかして母を救いたい。父の死、母の苦しみを話のネタにされた悔しさが、なおさら涙を止まらないものにしている。

「君は、ママのこと、変だって思ってるの?」

「そんなこと思ってないもん! ママ、つらいだけなんだよ。だってママ、パパのこと大好きだったんだから。私知ってるもん、お葬式のときに1回も泣かなかったママが、私に隠れて泣いてるの。ママ、私に弱いところ見せたくなかったの。パパがいなくなったから、ママがひとりで私をしっかり育てようって考えてたの、知ってるんだから……」

 だから、大好きな父の代わりになってでも、美紅を立派に育てようと思った。それが、大好きな夫へ贈る最後のプレゼントになる、そう考えて。

 美紅の大きな涙の粒が、タカオの手の甲に落ちた。気がつけば、タカオは美紅の眼の前に膝をつくようにしてしゃがみ込み、美紅のぎゅっと握った両手を包んでいた。

 不意に、タカオは美紅を抱き寄せた。

「おに、」

「こうやるとね、落ち着くんだって。昔誰かが言ってた」

 ゆっくり、やさしく腕の中で抱かれていると、まるで赤ん坊に戻ったような気分になる。美紅は懐かしい気持ちで、しばらくの間その中で甘えていた。


          *


 家に帰ると尚子が、美紅の帰りが遅いと(とが)めた。時計を見るといつも帰る時刻より30分ほど経っていた。母に心配をかけさせたと思った美紅は素直に謝った。

 夕食をすませたあと、お風呂に入って「おやすみ」と声をかけた。

「何? 今日は美紅の好きな俳優が出てるドラマがあるでしょ。見ないの?」

「うん、でも宿題があるから。録っておいて」

 なかなか現実味のある言い訳をして、美紅は部屋に戻った。

「……ま、宿題があるのは本当だしね」

 美紅の部屋には押し入れがあり、季節もの蒲団(ふとん)や衣類などがしまってある。ここにならあれがあるかも知れない。美紅は音を立てないように慎重に押し入れを物色した。途中バサリと紙の束が落ちたので、ピンと背筋を張って耳をひそめた。大丈夫だ、気づかれていない。

「これだよね、ママの卒業アルバムって」

 数分後、美紅は大きめのノートパソコンくらいの本を手にした。表紙には「はばたき」と印字されていて、ページをめくると「市立都南高校」とある。父と母の母校の卒業アルバムだ。

 美紅は青年の腕の中にいるとき、ふと彼の服の腕に縫いつけてあったワッペンを見つけて、軽い既視感を覚えていた。

「もしかしたらってだけだし、本当かどうか微妙なところだけど……」

 彼の着ていたシャツとワッペンの紋章のデザインが、両親の母校の制服のそれと合致しているかどうか、記憶を手繰りながら慎重にたしかめた。

 果たして、美紅は我知らず興奮を覚える。

「――あった」

 以前に1度見たことがあるのだ。若い頃の両親がどんな風だったのか、特に父がはりきって、今と同じように卒業アルバムを家族3人で見たことがあった。

 尚子と父は、同じクラスになったり委員会で隣り合ったり、また同じクラブに所属していたわけではなく、また付き合いはじめたのも高校時代ではなかったという。母が転校し、その後、進学先の大学が偶然にも一緒だったため、これは何かの縁と付き合いはじめたらしい。

 それ以来、アルバムを見たことはない。見せてもらえなかった。ただ押し入れの整理中に出てきたとき、そっと覗いたことがあるだけ。

 今、美紅は再び親に内緒でそのアルバムを開いていた。そして青年の姿がアルバムの中にあるのを見つけたのだった。

 集合写真の右上で、丸く縁取られて。


 ――三年二組四十番 若宮(わかみや)喬生(たかお)(享年十七)――




 その後、しばらく青年と会うことはなかった。

 美紅は夢心地の状態でいたあの夜のことを思い返しながら、尚子と手をつないで家路に着いていた。

 今日は授業参観日だった。久々にはりきってきれいな化粧をしている母を見て、美紅は誇らしく思った。陰口なんてへっちゃらだよ、と叫びたい衝動に何度駆られたことか知れない。それくらい美紅の母はほかのクラスメイトの母親たちよりも美人なのだ。高校時代には「マドンナ」などと呼ばれていたらしい。

 そのマドンナと一緒に、美紅は放課後に市中心部に出かけ、ホテルのレストランで久々のディナー料理を堪能した。ちょうど美紅の誕生日が近いこともあって、その誕生日会も兼ねている。

 ゆっくりと料理を味わい、会計を済ませてホテルから出てくる頃には、時刻はすでに夜9時を回っていた。タクシーで団地の前まで送ってもらい、車から出てきたところで、美紅が不意に棟と反対方向に歩き出した。

「美紅? どこ行くの?」

 無意識のうちだった。公園に、彼の姿を認めたような気がしたのだ。

 公園の入り口にさしかかったあたりで母が追いついた。「離れちゃだめでしょ」と叱る尚子に、美紅は静かに尋ねる。

「ねえ、ママ」

「何?」

「若宮喬生って、誰?」

 わずかに機嫌を損ねていた母が、その瞬間まるで電撃を受けたように、身体をビクンと震えさせた。

「な……何……?」

 覚えているか覚えていないかはべつとして、いくらなんでも故人の名前を出すのは不自然だったかも知れない。

 しかし、そんな美紅の心配をはるかに上回って、尚子の表情は一変してしまっていた。美紅は言うタイミングを完全に外したことに気づいて慌てた。

「……誰から聞いたの、それ」

「えっ……と、誰からだったっけ。よく覚えてない……」

 美紅はだんだん怖くなってきた。小さな震えが止まらなくなっている。

 尚子は、あのときの表情になっていた。

「パパと私しか知らないはずなのに……どうして美紅がそんなこと知ってるの? 美紅、あんたママに何か隠してない? 隠してるでしょ! ねえ美紅、答えてッ」

「マ、ママ、」

「あいつのこと、なんであんたが知ってるのよ!?」

「ママ……っ」

 必死に尚子の手を振りほどこうとするが、二の腕をがっちりと掴まれてしまって、その場から動くことすらできない。美紅はショックで涙が出てきた。

「そうよ、あいつ、私たちが幸せそうにしてるから、とうとう私の娘にも手を出してきたんだわ。(ゆる)さない……なんの恨みがあるのよ! 滋郎さんを殺しておいて、今度は娘に何かするつもりなのね!? だったらあたし、あんたを地獄に送ってやるわ!」

 ヒステリックに叫ぶと、尚子は美紅の腕を放して公園の方へ駆けだした。

「ママ!」

 美紅もあわててあとを追う。追いついたとき、尚子は公園の真ん中で空中に向かって、途中どこかで拾ってきた棒を振り回していた。

「このッ……おまえなんか、2度と現れないようにしてやる!」

「ママッ!」

 美紅の声は、しかし尚子の耳には届いていなかった。尚子は髪が乱れるのも気にせず、ひたすら何もない空中に棒を叩き付けていた。

 ――誰か、助けて! ママを助けて……!

 恐怖で足がすくみ、美紅はただ祈るしかない。

 そんな美紅の背後に気配が現れたのは、その直後だ。


          *


 その姿を最初に見つけた尚子は、恐慌(きようこう)状態に陥ったかのような狼狽(ろうばい)ぶりを見せた。

「あ……い、いや……いやあああ!」

 叫びながら、尚子は走って美紅のところまで行き、美紅を強く抱き寄せる。そのままぶつぶつと暗く呟いている。

「渡さないわ……この子は絶対渡すものですかッ」

「ママ……っ」

 あまりに強く抱きしめられたため、美紅は苦しくなって母に訴えた。しかし尚子はそんな美紅のことなど気づかずに、さらに彼から遠ざかろうとする。

「ママっ。放してよ、お兄さんは悪い人じゃないからっ」

 強引に母から抜け出せた美紅は、喬生に駆け寄っていった。

「はっ、離れなさい美紅! そいつに近づいちゃだめよ!」

 今度は美紅が抱きしめる番だった。自分を盾にして、喬生を守ろうとした。尚子はそれを見て呆然と立ち尽くす。

「み、美紅……?」

「ママ聞いて! お兄さんは私を殺したりなんかしない。パパも殺したりなんかしてない。パパが死んだのは2年前だよ?」

 惰性のように尚子の首は否定し続ける。

「前みんなでアルバムを見てたでしょ? ママは知ってるはずだよ。お兄さんは……ママが高校生のときに死んじゃったんだから」

「だ、だって、現に今、ここにいるじゃない。美紅の横にいるじゃないっ。そいつが滋郎さんを……あんたのパパを殺したのよ!」

 尚子の悲痛な訴えを我慢して聞きながら、すがるように美紅は喬生を見上げた。喬生は(うれ)いを帯びた表情をしている。

「お兄さん?」

「……美紅ちゃんの言ってることは本当だよ。僕はもう死んでるし、滋郎を殺してもいない。お願い、信じて」

 静かに語る喬生に、尚子は悪魔でも見るような驚愕(きょうがく)の表情を浮かべた。

「そ、そんなの……じゃ、じゃあなんでここにいるのよ……ッ。あんた、交通事故で死んだって、滋郎さんが……」

 この悪霊。言外に尚子はそう言って喬生を(ののし)った。

 顔面蒼白の状態の尚子を見て、このまま倒れてしまわないかと美紅は心配になった。どうしたらいいのだろう、と喬生を見ると、彼は黙って頷いた。

「僕は、たしかに死んだ。でも、死んだ人は天国かあの世に行くんだよね。僕もそこに行くんだと思ってた。……けど、いくら待ってもどこにも行けないんだ。ずっと待っているのに」

 ずっと待っていたら、君と出逢った。

 喬生は(いつく)しむように美紅の頭を撫でた。

「君がいつか言ったよね。僕には未練があるんじゃないかって」

「うん?」

「僕にはそれがわからなかったんだ。君と別れたあと、僕はずっと考えてた。僕は何を未練に思っているんだろうって」

「お兄さん……」

「でもやっと、思い出せた。君が(みね)さんの子どもだってことを知ったときに」

「嶺?」

 美紅は突然出てきた言葉に耳を疑った。一瞬誰のことかと思い悩む。しかし答はすぐに出てきた。嶺は尚子の旧姓だ。

「あなたは、嶺尚子さん。滋郎の、想い人だ」

 喬生の憂い表情(かお)が、(つぼみ)がほころんだようなそれに変わった。

「そして僕は、若宮喬生。高校3年のときに死んだ、滋郎の……クラスメイトだ」

 尚子が小さく目を見開いた。喬生はゆっくりと尚子のいる場所に歩み出す。

「ひとつ思い出したら、あとはどんどん出てくるんだ。滋郎とは、中学のときから同じクラスで、よく遊んでた。いたずらもいっぱいして、よく先生に叱られた。高校のときにはじめて煙草を吸ったときは、こんなものが売れてるなんて信じられないって、笑った。……僕にとって一番仲のいい、クラスメイトだったんだ」

 美紅は叫んだ。ちがうよ、と。

「なんで? お兄さん、なんでクラスメイトだなんて言うの? 友だちだったんでしょ? 仲良しのクラスメイトって、友だちって言うんだよ。パパの一番の友だちだったんだよね?」

「ちがう、ただのクラスメイトだ。友だちなんて、もう言えない」

「なんで……?」

 喬生は美紅の問いには答えず、座り込んでいる尚子の前まで行くと、しゃがんでどこからかそれを取り出した。

「な、何……?」

 逃げ腰の尚子に渡されたのは白い封筒だった。宛名は「嶺尚子さま」。尚子はわけがわからず、ただ呆然と喬生を見上げている。

「これが、僕の未練だった」

 開けてみるように促されて、尚子はためらいつつも、震える手で封を切る。手紙を広げて読み進むにつれて、尚子の表情が固まっていった。

「……これ……まさか、」

「いろんなことをずっと思い出していって、最後に行き着いたのが、これだった……」

 滋郎が書いた、君宛ての手紙。

「――やっと、渡せたよ」

 喬生が心から安堵したような声を出した。美紅は尚子のところに駆け寄り、手紙を(のぞ)き込んだ。


 嶺尚子さま。こんにちは。オレは3―2の広瀬滋郎です。いきなりの手紙でごめん。オレは口べたなので、手紙を書きました。オレのことは知らないと思います。オレはあなたのことが好きだなと思っています。変な人って思うかもしれませんが、オレはべつに変な人ではないです。でも転校すると聞いて、やっぱり言いたいと思いました。返事はいつでもいいです。 広瀬滋郎


 汚くて癖のある字で、ところどころ修正した跡がある。文章も稚拙だった。しかしまちがいなく、生前の父と同じ筆跡だった。

「パパ、こんなの書いたんだ」

 美紅は感心するというか、恥ずかしいような気持ちで文面を見返した。喬生は当時を懐かしむ声音で言った。

「滋郎は高校1年のときからあなたのことが好きだったんだ。でも彼はシャイだったからね、嶺さんが転校するって知って、思い切って手紙を書いて告白しようとしたんだよ」

「へえ。パパって結構かわいかったんだね」

 喬生は微笑んだ。

「……知らないわ。あたし、こんなのもらってないもの」

 尚子は文面を何度も何度も読み返しながら、呆然と呟く。

「うん。あなたが知らなくて当たり前だよ。僕はそれを横取りしたんだから」

「横取り?」

 美紅が驚いて声を発した。父が書いたラブレターを横取りする。いったいどういうことなのか――

「あ、もしかしてお兄さん、ママのこと好きだったの?」

 美紅のひらめきには、しかし喬生はうっすらと笑みを浮かべるだけで、肯定も否定もしなかった。

「……あの日、僕は嶺さんの下駄箱にその手紙を見つけたんだ。その前に彼の机の中にあるのを見てたから。ああ、彼はやっと告白したんだなって、僕は嬉しくなった。けれど同時に、もやもやした感情が生まれた。僕は咄嗟(とっさ)にそれを持ち帰って、その日に、車に()ねられた」

 喬生は少しだけ間を置いた。美紅もつられて深く深呼吸する。

「僕も彼以上に気が弱かったんだよ。それにまだ子供だった。だから、あんなことをしたんだと思う。ごめんなさい」

 だから、僕は友だちだなんて言えない。大切な滋郎の心を踏みにじった自分に、彼の友だちだと言う資格なんてない。

 そう言って(うつむ)く喬生の心に、小さな針が無数に刺さっているのを感じた。なぜだかわからない。無意識に美紅は叫んでいた。助けなければいけないと思った。彼を助けなければ。

「そんなことないっ」

 彼の未練は、これだけではない、と。

「そんなことないよ。お兄さんはパパのこと好きだったから、ちょっといたずらしちゃったんだよね? 私もママに遊んでほしくて、ママの嫌いな蛇のおもちゃでいたずらしたことあるもん。それにこの手紙をもらってなくても、パパとママ結婚したよ? パパは全然怒ってないよ。だからお兄さんは悪くない。お兄さんは今もパパの大事なお友だちだよ!」

「美紅……」

「私、信じてるから!」

 喬生は呆然と美紅を見た。呆然としつつ、なぜこの子供はそんなにも自分に味方してくれるのかと疑問に思った。散々母親を苦しませた自分を。

「……ありがとう」

 喬生は逢ったこともない神を見るように美紅を見つめ、そう呟くしかなかった。わずかに沈黙し、美紅が最初に見た静かな笑顔で尚子に向き直る。

「嶺さん、ううん、広瀬さん。ごめんなさい。渡すの、遅くなってしまった」

 言ってから頭を下げる喬生に、尚子はただ首を振った。

「もう、いいの。いいのよ……」

 手紙をぎゅっと抱きしめるように手に包み込む。

「……あなたが生きてたら、あたしたちライバルになってたのかしら」

 しばらく間を置いてから、ためらうようにぽつりと尚子が言った。喬生は面食らった表情(かお)をして、苦笑した。

「くやしいけど、もしそうなったとしても、きっとあなたが勝つよ。滋郎はあなたのことが好きだったし、それにあなたは強いから」

「強くなんかないわ」

「強いよ。必死になって美紅ちゃんを僕から守ろうとしたじゃないか。あの頃からずっとそうだったよ、おとなしそうに見えるけどね」

 どういう意味よ、と尚子が複雑な表情をした。美紅は「そうだよ」と(はげ)ました。

「ママ、強いもん。私を怒ったときなんて、お尻が腫れるくらい叩くじゃない。私、知ってるからね。パパだってそう思ってるよ、きっと。ううん、ぜったい」

 尚子は美紅の笑顔を恨めしそうに見上げたが、ふ、と破顔して美紅を抱き寄せた。

「うん、ありがとう……美紅」


          *


 喬生の気配が薄れているように感じたのは美紅だ。

「お兄さん……?」

 ぼんやりとした光がまわりに立ちこめている。ここは雑草でいっぱいの公園だったはず。今はどこか知らない場所のように変わっていた。

「やっと、来たのかな」

 喬生はうっすらと微笑んだ。18年目に見る光だ、と知る。

「お兄さん、行っちゃうの?」

 美紅は思わず喬生に駆け寄った。喬生からは美紅が今まで見たことがないようなキラキラとした光があふれていて、美紅は彼が神さまのように思えた。

「うん、たぶんね」

「やだよ……やだ。私、お兄さんとお別れしたくない。もう誰かとお別れするなんてやだよっ」

「美紅……」

 だだっ子のように喬生の身体にしがみついた美紅の手を、喬生はやさしく掴んで言った。

「哀しまないで。僕はもうみんなとお別れしたあとなんだよ」

「でも私、お兄さんとお友だちになったんだよ? お友だちとお別れしたくないよ!」

 喬生はわずかに目を見張った。そして美紅の身体をやわらかく包むように抱きしめ、尚子に向き合った。

「もう一度逢えて、よかった」

 尚子は思わず駆け寄ろうとした。しかし身体が思うように動かない。手にしている手紙がぼんやりとした影になっていることにも気づかなかった。

「――ありがとう」


 さようなら。


          *


 久々に公園を清掃する、ということになり、日曜日に公園に集まった団地の住人たちは、文句を言いつつも、持ち回りのスコップなどで雑草の撤去作業に汗を流していた。

 美紅もしっかりと雑草を抜いて、記憶の中で輝く公園になるようにがんばった。

 いくらきれいにしても、誰も戻ってはこない。そんなことはわかっていた。

 けれど、公園の記憶は誰にも邪魔されない。きれいに切り取られた世界は、いつまでも美紅の心の中にあって、美紅にやさしく微笑んでくれるのだ。

 だから美紅はせっせと雑草を抜く。この公園で新しい記憶を作っていく人のために。

 ―――パパもお兄さんもいないけど、パパとお兄さんがいた公園は、ここにあるんだ

 美紅は大きく息を吸い、ゆっくりと吐いた。ため息はつかない。幸せをめいっぱい身体の中に吸い込んだ。

 汗を拭いながら、雑草を抜き続けた。


 ある日、押し入れを整理していると、昔使っていたおもちゃなどがいっぱい出てきた。懐かしがって宿題の片づけを一時中断していた美紅の前に、見覚えのあるアルバムが転がってきた。

「これ……」

 あの日の青年の姿を初めて見たアルバムだった。思わず頬がほころぶ。

 カサ、と音がするのでそちらに視線を向けると、バラバラに落ちている紙の束があった。せっかく母がまとめただろうものなので、仕方なくそちらの片づけを優先しようとした。

「……マ、ママ!」

 数分後、あわてて台所に駆け込んできた美紅を認めて、尚子は怪訝(けげん)な表情をした。

 驚きと嬉しさが交じったような表情の娘から白い封筒を渡され、釈然としないまま尚子はそれを開く。

 (またた)く間にその両目から涙がこぼれ、膝の上に落ちる。あの拙く懐かしい文章だった。

「……パパね、大学で私と付き合うようになった頃に、こんなこと言ってたの。高校時代に自分は恥ずかしがり屋だったから、好きな人に面と向かって告白できなかったんだ。だから古風だけど手紙を書いて、それを好きな人に送ったことがあるんだって。ママが、誰に送ったの? って訊いたら、パパ、なんて答えたと思う?」

「わかんない」

 美紅は答えた。ああやっぱり自分はママの子どもなんだなあ、と思ってしまった。

「パパね、少しだけ驚いたような表情をして、内緒って答えたのよ。……あれ、あたしのことだったのね。パパったら遠回しに言ってたのに、あたし全然気づかなかったの」

「パパって不器用だったんだね」

「そうね。今度お墓参りに行って謝んなきゃね。でも彼のことも言わなきゃ、パパったらぜったい気づいてないから」

「パパのことだから、きっとお兄さんもママのことが好きだったんじゃないか、って誤解してるかも」

「あー。あり得そう」

「でしょ? パパに言わなきゃね、鈍感なんだからあって」

 美紅はそう言って笑った。母も笑ってくれた。久々の心からの笑顔を見せたので、美紅はそれが嬉しくて仕方がなかった。

 仏壇に飾られた父の笑顔が、とてもやさしい。



おわり

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