第七話 ゆらりゆら
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ゆらりゆら、
まるで波を押し分け行く小舟のよう。
ぼんやりと見えるのは、空と……オサフミの顔か。
どういう状況なのだろう。
分からない。
分からないが、酷く頭が痛かった。
だから俺は、目を閉じた。
「ん……」
頭は、まだ痛かった。
ゆっくりと目を開ける。
「おい羽良! おい!」
するとオサフミの顔が目の前にあって、たぶん目があって、いきなり騒ぎ出した。
「起きたのか!?」
次いで懐中電灯の光がパタパタと走ってくる。
さも大事といった様子だが、一体
「何だってんだ……?」
鈴丸は記憶を朝まで遡り、そこから巡に出来事を並べてみる。朝起きて、山を登って、おっかねえのに襲われて、逃げて、川を見つけて、降りて、歩いて…………その先はどうだったか。
「お前倒れたんだぞ! 覚えてないのか?」
ハラショーが、それは凄い形相をしている。
「覚えておけというのも無茶な話だと思うが…………ほら水だ。ゆっくり飲め。舐めるようにだぞ」
オサフミが差し出す2リットルの、たぶん元々水が入っていたペットボトルを将大の懐中電灯が照らして、その中身が燦めく。水面は下から四分の一程度。
水、
鈴丸はペットボトルを奪い取り、キャップを弾いてその口に齧り付く。
――げほ、カハッ
咽せた。
「おい馬鹿。ゆっくりって言ったろ」
斂史がペットボトルを立てる方向に押さえるが、鈴丸は咽せながらも食らい付いて離さない。中身が空になってからも、しばらく鈴丸はそのままの格好で固まっていた。
やがて飲み干したことに気が付くと、重力に任せて腕を降ろし、地面に叩き付けられたペットボトルがぐちゃりと音を立てる。
「あ……すまん。全部飲んじまった」
斂史と将大は笑った。
「いいよ。どうせそれはお前に全部飲ませるつもりだった」
虫が――いやもしかすると蛙のような生物で、虫ではないのかも知れなかったが――チリチリと鳴く声が聞こえてくる。夜になると偶に現れる、三人にとってはもう馴染みの生き物だった。
少しやかましい気もするが、決して不快ではない。聞いていると不思議と心が落ち着く。
「川に、着いたのか?」
斂史と将大はまた笑い、
「そう見えるか?」
鈴丸は頭をゆっくりと振るが、視界にそれらしきものは入ってこない。遠目であれだけでかい川だったのだから、せせらぎとは呼べないような川音がきっと聞こえてくるはずだがそれも無い。代わりに木と草と、何かの鳴き声。間違いなく、まだ道の中途であった。
「いや、」
大体、もし川に着いていたのなら水はもっとたんまり出てくるに決まっていて、そんなのはちょっと考えれば分かることである。鈴丸は少しだけ恥ずかしくなり、笑った。
しかしならば、この水はどこから取ってきた物なのだろうか。
「……何があったんだ?」
∵ ∵ ∵
「引き返す」
それは将大にとって意味不明な発言だった。斂史までおかしくなってしまったのかと、その時確かに将大は思った。
「引き返す……?」
「ああ。草原があっただろう? あそこまで戻るんだ。運が良くて夜露が降りてくれれば、それなりの纏まった水になるはずだ」
「まじか……」
とりあえず、斂史が過激な事を考えているのではないと知って将大は安心したが、しかし衝撃的な申し出であることに変わりは無かった。折角歩いた道を戻らねばならず、しかも戻ったところで運任せ。斂史は纏まった水になると言うが、露を集めたところで、とも将大は思う。塵を集まって山になるというのは、実際のところイメージしにくい。
だが、現在地が目的の川より、斂史の言う草原に随分近いことは将大も把握していた。
賭けるのか。人の命だぞ――
「勝率は?」
「悪くはないはずだ。少なくとも朝はいつも足下が湿っていたし、樹林の中では草本が短すぎてとても収拾できなかったが、さっきの草原なら長さも十分だと思う」
まず将大は数十秒迷った。
草原までの道のりは恐らく川までの四分の一か、三分の一程で、距離だけを考えるなら圧倒的に前者が有利……けれども草原は水の獲得という点において確実性を欠いているし、目論見通り露が降りたとして、集めるのにどれ程の労力が必要かも定かではない。難しい二択だった。
故に将大は、とりあえず鈴丸を持ち上げようと試みる。肩を差し、米俵でも担ぐかのように、当然持ち上がる物として力を込める。これでキツそうなら前者を、何とかなりそうなら後者を、という考えだった。しかし、
「……ぬ」
鈴丸の全身がわずかに地から離れた所で、大男は膝から崩れ落ちた。
それから二人は担架を作った。適当な長さのゴツい枝二本と腕ぐらいの枝数本を包帯で組み、レジャーシートを巻き付けただけの簡易な物であったが、制作には30分超を要した。
けれども鈴丸は目を醒まさなかった。
将大を前にして二人は来た方向へと歩く。二人とも両手が塞がっていたのでコンパスを確認する余裕などはもちろん無く、行きの道からはどこかで外れていたはずであるが、終始見覚えがある気がしていた。
二人は戻り始めて20分もせぬ間に、荷物の大半を捨てた。
干涸らびて軽くなったとは言え鈴丸の重量は43キロ弱もあり、それだけで軽く二人の許容重量をオーバーしていたのである。
放棄は二回に渡って行われた。一回目は主に衣類で、二回目には電子機器類の全てが対象となった。残したのは水を集めるのに必要なタオルとペットボトル三本、雨合羽三つと懐中電灯二つと救急セット、もう一度川に向かうためのハンディGPS、ノート一冊にシャーペン一本……それだけだった。総じて5キロは軽くなった。
目的地には、夜が更けてから辿り着いた。幾度となく転けた二人の手足には無数の傷があった。
露は既に降りていた。
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「捨てちまったのか……」
惜し気に言う鈴丸に、斂史は「ああ」とだけ答える。
「何とかなんなかったのか? せめてスマホぐらいさ」
「40キロの荷物が無けりゃなんとでもなったけどな。ほらこれも飲め。さっきのじゃ足りんだろ」
親指三本分ぐらい水の入ったボトルを渡して、代わりに空のボトルを手に取り、将大は草むらに帰って行く。
人工の光がもうだいぶ離れた所で、斂史がぽつりと口を開いた。
「ソーラーチャージャー無しでは、どうせ三日もしない内にガラクタになる物だ。気にするな」
今度はゆっくりと、舐めるように鈴丸は水を摂る。その視界の端では、赤と白の双子月がぼんやりと光っていた。
「ところで鈴丸、ライターを出して貰えるか」
そんなん勝手に取りゃいいのに、と鈴丸は胸ポケットに手を伸ばし、次に飲みかけのボトルを地に置いて、パタパタと思い当たる限りのポケットを両の手がせわしなく駆け回る。
「ありゃ」
「……どうした?」
斂史の顔に影が差した。
「いや、さ。お前らが俺を運んでくれてる間に落っこちたのかも知んねえ」
「胸ポケットなら倒れた時に確認したぞ……」
鈴丸の目が逃げた先には例の双子月が、相も変わらずぼうっと光っていた。そりゃそうである。まだ10秒だって経ってはいない。
三度息を吸った後に鈴丸は斂史へと視線を戻し、
「…………わり。あとあれだ。運んでくれてサンキューな」
見るからに紛い物の笑みをその顔に貼り付けて言う。
深い溜息が、斂史の口から漏れた。