第六話 夜が来る
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「あのさ…………」
鈴丸が出し抜けに口を開き、そして閉じる。
「なんだ?」
少ししてから将大が尋ねた。
「いや、なんつーかアレだ、その…………」
「無駄口ならよせ。水分が勿体ない」
言いながらも斂史は手に持ったハンディGPSのコンパスを確認し、スマートフォンのメモ帳に数字を足していく。それは迷わず目的地へ辿り着くための、どちらに何歩進んだか、という記録だった。
「……しょんべんって飲めんのかな?」
たっぷり間を置いて、怖ず怖ずと鈴丸は言う。
斂史はゆっくりと顔を上げて、
「そんなことか…………答えはイエスだ」
それだけ言うとまたスマートフォンに目線を戻し、末尾に数字を付け足す。20歩毎に1文字と定めて、これは丁度500文字目。つまりあの高台を出てから合計1万歩の道のりを踏破したことを表していた。着実に目的地には近づいている。しかし問題はその所要時間で、時計の長い針がもう既に、3周とちょっと回っていた。
「身体に悪かったりしねえのか? 臭いは? 味とかさ」
「害はない。臭いはするが、鼻を摘まんで一気に飲めば些細な問題だ。味はしょっぱい」
1万歩を歩くのに掛かる時間は、平地なら普通80分程度である。舗装もなにもされていない道を歩いているのだから歩みが遅くなるのは当然で、更には人生で最大の、どれだけ疲れているか自分で判断することすら出来ないような疲労に身体を苛まれてさえいる今、たった2倍強の時間に収まっているのはもはや奇跡と言えるかも知れない。
だがそれでは足りなかった。これでは夜に間に合わない。まだ、半分までも来ていない――
「……詳しいな。てかなんで味まで知ってんだ? ……まさか飲んだのか?」
「今朝の話だ」
マジかよ、そう呟いて鈴丸は辺りをきょろきょろと見回す。ひとしきり首を振って、予想外の返答に驚き興奮した頭を沈めると、
「んじゃ俺ちょっと小便いっ――」
一陣の風が吹き抜け、すぐ右横にあった低木がガサガサと揺れた。
「――おわッ」
物の見事に鈴丸が転ける。この3時間の内に何度も繰り返されたその所作はすっかり板に付いてしまっていて、鮮やかという形容が相応しい。
「いい加減にしろ。風が吹く度に転けてたら保たんぞ。明らかに獣じゃないし、もし獣だったとして転けるのは最悪だ」
鈴丸は不満そうな顔で何も言わず立ち上がり、再び一行は歩き出す。
「小便、行かなくて良いのか?」
先頭を歩く将大が、小首を回して言った。
「誰がそんなこと言ったんだ」
「いやまあ……お前がいいならそれでいいんだけどな」
その後しばらくは、誰も口を開かなかった。
――3時間と、ちょっと前に遡る。
あの高台からは、水が見えた。渇望が見せる幻かと疑いもしたが、それは三人に等しく見えて、写真に撮っても消えたりしない、正真正銘の川だった。
この木々に負けぬほどのスケールを持った大河が、森をぶち抜いて蕩々と流れていたのである。
川の存在を確信するや否や将大は慣れた手付きで、しかし出鱈目に鈴丸の手当てをし、斂史はコンパスを添えてそこから見える景色をしこたま写真に収めた。双方出来映えはともかくとして、手際は素晴らしく、あっという間に立て直しと準備は完了する。
その場を後にしてからは、まず高台を降りるまでに時間が掛かった。なにしろ3,40メートルもある木々の頭を超えて森を見下ろせるような崖であったので飛び降りるわけにもいかない。何とか下れそうな場所を見つけるまでに気が遠くなるほどの寄り道を余儀なくされ、かなりの無茶をしながらやっと降りきった先には再びの崖。ただでさえ生気のない顔が一層蒼くなったのは言うまでもないが、それでも何だかんだ彼らは下山しきり、文字通り山場を越えた後は順調で然程の障害もなく、今に至る。
更に、1時間が経った。
森のざわめきと、鳥か何かの声ばかりが聞こえてくる何の変哲もない一時間だったが、歩みはそれなりに進んだ。
2時間が経った。
特筆すべき事は何も無かった。強いて言うならば鈴丸が遂に小便を我慢出来なくなって森の中に消えた後、しばらく口が気持ち悪いと騒いでいたぐらいである。
3時間が経った。
樹冠が日の光をほとんど平らげてしまうせいでいつも夕方のような森を一旦抜け、三人は広大な草原に出た。久方ぶりのまとまった光に目が眩む。そこは崖の上からも見えた場所であり、川と崖との丁度真ん中辺りで、つまり彼らの行程が半分ほど終了したことを意味していた。草原は10分もすると終わり、一行はまた森へ。
そして4時間が経って直ぐ。その瞬間は訪れる。
――鈴丸が、倒れた。
前兆なんてモノは、ありすぎてむしろ無いに等しかった。三人とも一挙一動がぎこちないのはずっと前からのことで、何かの拍子に起こる手や瞼の痙攣はもはや気にもならなくなっており、歩いているという感覚すらも曖昧。森の中の木がどれも同じに見えるように、当たり前と化した異常の数々からその1つを見つけ出すことなど出来ようはずはない。
「またか」
だから斂史は、ただ転けただけなのだと最初思った。鈴丸が最後尾を歩いていたのも気付くのが遅れた原因の一つだったに違いない。糸繰り人形を放った時の如く頽れる様を、斂史も将大も、見てはいなかった。
「……おい、大丈夫か?」
ちっとも起き上がろうとしない鈴丸の前にしゃがんで、将大が声を掛ける。
返事はなくて、
「冗談よせよ……」
揺すってもひっくり返してみても、やはり反応はなかった。斂史の手が鈴丸の首に向かってするりと伸びる。
「息は、ある。脈拍は……速いが、そこまでじゃないな。大丈夫だ。まだ死んじゃいない」
「…………起きるんだよな?」
「分からん。3分で起きるかも知れないし、1時間後かも知れないし、起きない可能性も十分ある。点滴バッグがあれば良かったんだが……」
点滴バッグなんてもんがありゃ、そもそも失神するような状況には陥ってないだろ――そんな内容の、誰でも当たり前に思い付くようなツッコミは当然無く、将大はなお表情を強張らせる。そうして、唇を震わせながら一言。
「どうするんだ……」
舌も回ってはいなかった。
斂史は下を向いて思考を巡らせる。
――失神した人間は基本動かしてはならない。その常識に則るのならばここで鈴丸が起きるのを待つべきである。しかし待ったところで目覚める保証はどこにもなく、根本的な治療を為していないのだからまた倒れる可能性だって低くない。放っておけば状況は刻一刻と悪くなるだけなのではないか。この場での正しい判断は――
「起きるのを待とう……そうだな、長くて15分ぐらいだ」
「……もし起きなかったらどうする気だ?」
この時ふと将大の脳裏に、数時間前の光景が再生される。斂史と鈴丸が喧嘩をしていた時のことだ。鈴丸が言いだして、斂史がアリだと答えた、
――遭難して、一人喰っちまった話。
まさか、
「……斂史ッ!」