第五話 シロンとメイドと黒い球
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※アルカニア王国で用いられている単位はもちろん皆様が普段使用しているそれと異なりますが、ややこしいので全て分かりやすい単位に直してお送りいたします。
こっち側の出口座標を固定していた部分に傷が入ってしまったのだと思う、たぶん。
魔法式は非常に繊細な物である。流石に傷の1つ程度で物に速度を与える魔法が爆発を起こす魔法になったりはしないが、速度の方向が滅茶苦茶になることはあり得るし、実際にシロンも何度かやらかしたことがある。
だからまあ、今回は運が良かったのかも知れない。
傷の入り方によっては魔法が消えていた可能性もあったし、あれだけ魔石があったのだ、とんでもない現象が引き起こされて八つ裂き……というのも十分あり得ただろう。それに比べれば出口が動くなんてのは些細なことで、ここに岩石を吐き出すようなスペースがなかったという事実を考慮すればむしろ幸運に違いなかった。
「うーん……」
腕を組んで少女は唸る。
出来る事なら逃げていったあの黒い球を追いたい。異世界人との出逢いがあるとすれば、それはアレの下だ。しかし何が起こるか分からない今、この場を離れるわけにもいかないだろう……今日の実験は誰にも教えておらず、使った魔石の大半は研究資材として国から支給された分を節約して捻出したものなのだ。もちろん求められただけの結果は出しているし、別に問題はないと思うのだが、もし事故が起きてしまえば役人達が立ち入ってくるのは必至、その結果どこの誰が横領だなんだと難癖つけてくるか分からない。誰かに見ていて貰えばよいのだろうが、信頼できる魔法使の知り合いもいない……敵は何故か多いけれど。
――ギィ
不意に背後のドアが軋みを上げて、シロンはびくりと肩を竦める。
「大丈夫ですかシロンさん! 凄い音でしたけど…………って何ですかコレッ!」
シロンの背後に現れたのはシロンよりは少し大人びた、しかし少女であった。声を聞くとシロンは緊張を緩め、ゆっくりと振り向く。
「ふぅ……なんだリナか。いやー驚いた。ドア開ける前にノックしてっていつも言ってるでしょー。次からは気をつけてよね」
「はぁ、すいません…………じゃなくて! あんな音したら悠長にノックなんてしてられませんよ! あと何気なく話を逸らさないで下さい! 一体全体何なんですかこの黒い円盤と瓦礫は! どっから持って来たんですか!?」
かんかんになって怒るリナと呼ばれた少女――本名リィナ・ミル・ハッツェはシロン専属の使用人である。
天才と凡人の時間は等価ではない。例えば小説なら凡人が10年費やしても書けない名作を天才は1ヶ月、あるいは1週間で形にするし、それは魔法においても同じことで、凡人が生涯を掛けても1つの魔法も生み落とせないなんてことが往々にある中、天才はたったの13年で本人すらぶっ魂消るような魔法を創ってしまったりする。
ではそんな天才の時間を、家事やら何やらの誰にでも出来る雑用に潰させてしまって良いのだろうか?
答えは否。少なくとも国家のお歴々に世間一般、そして本人達はそう思っており、王立魔法研究員の魔法使達には伝統的にそれぞれ最低四人、最大十七人までの使用人が国から与えられることになっている。貴族であれば元からの使用人をこの枠に当て直すのが普通であり、平民の出ならば嬉々として十七人限界まで雇うことも少なくないのだが、シロンはここでも異例だった。存外神経質な彼女は見知らぬ他人が自らのパーソナルスペースに踏み込んでくることを嫌がり、拒んだのである。この件においてシロンは頑なで、長らく魔法研究院院長の悩みとなっていた。
そんなシロンがやっと一人雇った――もとい買ったのがこのリィナという少女なのである。
時間を作るための使用人探しで時間を無駄にするというのは何とも可笑しな話だが、上流階級ほどしきたりには五月蠅く、護衛兼見張り役の近衛兵二人に引っ張られてシロンはあっちやこっちの養成所や奴隷市に行き、毎度手ぶらで帰っていた。
そしてそれは王都では珍しい、頭がくらくらする程暑い日のこと。数えて17回目にもなる奴隷マーケットの隅っこ、性的奴隷売り場にて。
――この娘ください。
兵士の一人は、暑さで頭がイカれたかな、と思った。
もう一人は、ああ、この人は同性愛者だったんだな、と悟った。
もちろんどちらでもない。
シロンがリィナを買い取ったのは二人が王都に来る前からの知り合いだったからであり、また、9年も会っていなかったリィナに一目でシロンが気付いたからである。
――リィナ・ミル・ハッツェはシロン専属の使用人であると同時に、家族のような幼馴染みなのだった。
「あー、どうどうどう、分かったから落ち着いて。まず黒い円盤じゃなくて黒い球ね。これは穴で、この世界とは別の世界に繋がってるんだ。んで土石はその別世界から落っこちて来たもの。質問の答えはこんな感じでオーケー?」
「え? ええまあ、はい…………納得はいきませんが一応……」
主人の勢いに負けて、リィナは反射的に返事をする。
本当はもう少し文句を言いたい気分であったが、しかし確かに質問には答えて貰ったし、まさか出鱈目を言うわけにもいかない。
昂ぶった感情を鎮めるべくリィナが深く深呼吸をすると、シロンはにこっと笑って言った。
「ところでリナにちょっと頼み事があるんだけど」
「何でしょう?」
シロンはにこにこするばかりでなかなか本題を言わず、リィナはきょとんする。やがてシロンが喋り出すと、
「あのー……えっとさ、しばらくこの魔法式見といてくれない? 私あっちの森に用事があっ――」
リィナの顔が一瞬で赤くなった。
「はいッ!? 無茶を言わないで下さいよ! 私が魔法さっぱりなのはシロンさんが一番知ってるでしょう!? それにこの時期はガザリの繁殖期で奴ら気が立ってますから、森に入ればシロンさんなんてあっというまに胃袋の中なんですよ! 分かってます!?」
「あーあー、そんなにカリカリしてると老けちゃうって落ち着いて」
「誰のせいですかっ!」
あまりの剣幕に流石のシロンも後ずさりした。しかしこの程度で諦めるような彼女ではない。
「お願いっ!」
パンと手を合わせながら少し頭を低くしてシロンは目を瞑る、お願いのポーズである。昔からリィナはこうやって頼まれるのに弱く、シロンはそのことをよく知っていた。
「……そんなに大事なことなのですか?」
「うん、めちゃ大事。私の二年半が報われるかどうかが懸かってる」
リィナが沈黙を破ると、待ってましたと言わんばかりにシロンが畳みかけ、極め付けには神に祈るかのような仕草と上目遣いで最後の一言を引き出しに行く。それからリィナが折れるまで、然程時間は掛からなかった。
「…………はぁ……分かりました」
「ほんと!? よっし! ありがとうリナ愛してるッ!!」
まずガッツポーズをし、勢いよく二回転までするとシロンはリィナに抱きついて、今度はリィナを軸に跳んで跳ねて時計回りに回り出す。
「あ、でもシロンさんを森へは行かせませんよ」
鬱陶しそうにしながらも撥ね除けたりはせず、しばらくシロンに付き合っていたリィナが、ふと思い出したかのようにぽつりと言った。
「なんですとっ!? …………え、どういうこと!? さっき分かったって言ったよね!?」
「ええ、はい。ですから代わりに私が行きます。そっちの方が理に適ってるでしょう? 何か問題がありますか?」
リィナの言葉を受けてシロンは苦い顔をする。確かにリィナのプランはシロンのそれより合理的であった。魔法式の暴走に対処するのなら明らかにシロンの方が向いているし、森に入るのならばこれまで荒っぽい世界を生き抜いてきたリィナの方が向いている……
しかし、
「……危ないよ?」
シロンは至極真面目にそう言った。
「だから私が行くんでしょう……」
「いやいや、私が一人で勝手に危ないところに突っ込んでいくのはどこまでも自己責任で私的に問題ないけど、私の我が儘でリナを危ないところに行かせるのは違うと思うんだよね」
はぁ、とリィナは溜息を吐く。
端的に言ってしまえば、シロンは世間知らずだ。早くに親を亡くし、幼少期をまともな常識すら無い貧民街で生きて、後に行き着いた魔法学校ではこれ幸いと魔法の習得に全身全霊を注いだ過去を知れば納得こそ出来るが、それにしたって酷い。物心ついてからシロンに買われるまでスラムから出たことの無かった自分ですら知っていることを、彼女は平気で知らないとか、もしくは出鱈目を言ったりするのである。例えばさっきガザリという獣の名を出した時も何だそれと顔で言っていた。子供を叱る文句に度々登場する、著名な獣であるにも関わらず、だ。
リィナは自分には常識があって良かったと思う。
でなければ今、こうしてシロンをフォローすることも出来なかった。
「考えてもみて下さい。もしこのままシロンさんが森に行って、そして死んだ場合、残された私はどうなると思いますか?」
「私の遺産で快適な生活を送る?」
間髪を入れずシロンはそう答えた。リィナはあっけらかんとして、
「何をどうしたらそうなるんですか……」
「そりゃあ、遺書書にシロン・セデタの死後、その全財産はリィナ・ミル・ハッツェに相続させる、って書いてあるからだけど」
「そんな縁起の悪いもの書かないで下さいよ…………いいですか、いくらシロンさんの遺言といえど守られる保証はどこにもありません。どうせ遺産なんてお役人やら何やらに根こそぎ持っていかれてしまうのがオチです。まあそれだけなら別に良いんですけど……私みたいな奴隷上がりのメイドは主人を失えばまたどこかに売り飛ばされる可能性が高いですし、危険を知っていながらシロンさんを送り出した重罪人と言われればそれは間違いありませんから、物理的に首が飛ぶというのも十分にあり得ます。つまり、私は私自身を守る為にもシロンさんに代わって森へ行くんです。ご理解頂けました?」
「……いたしました」
そう言いながらもシロンは納得いかなそうにうーんと腕を組む。
「そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。伊達にスラムを十数年生き抜いて来た訳じゃありませんし、ちゃんと人も雇います。それで、用事というのは?」