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第四話 自然とは

 2日目はほとんど進展がなかった。何故なら昨日の活動が斂史と鈴丸に強烈な筋肉痛をもたらしたからで、1時間もせぬ間に二人はギブアップし、日の低い内から一行は野営の体勢へ。結果として水と食糧の問題はこれっぽっちも解決に近づかなかった。


 しかし全く無意な一日だったというわけでもない。少なくとも1日の時間に昼と夜の内訳――昼がおよそ14時間で、夜が7時間だということは分かったし、そこらの石で枝打ち用の簡易なハンマーも作成した。またこの日彼らは初めて自分達以外の動物を目撃している。牛と鹿を足して二で割ったような体躯を持ち、発達した前向きの二本角が特徴の、おそらくは草食動物だ。それまでは漠然と、半ば常識として野生動物の存在を予想していた彼らだが、実際に見てみると認識が大きく改められる。


その時はただただ恐ろしかった。なんと言ってもあの巨体、双角が己が身体を貫き通す様は想うに易く、蹴りの1つで一体如何ほどの被害を受けるかなどは想像すら出来ない。故に襲うなんて選択肢は浮かぶはずもなく、固唾を吞みながらやり過ごすようにしてその場は事なきを得、2日目の夜は具体的な不安を抱きながら順に眠った。




 3日目の朝には水と食糧が底をついた。そもそも頼りない食事ではあったが、無くなってみると空腹感は一層増し、昼頃にはもう後が無いという切迫感が出てくる。


 未だ下半身の痛みは続いていたが、幾らかマシにはなり、状況が状況ということもあって一行は計6時間弱、緩やかなペースで歩き続けた。その甲斐あって一行は長い平地を抜け山に入るのだが、絶壁にぶつかったところで体力と気力が限界を迎え、やはりこの日も問題の解決には至らない。


 野営の支度――と言っても焚き火用の枯れ木を集める程度だが――を終えると、今度は有り余った昼時間で何か出来ないかという議論が行われる。しかし不安感と物理的な身体の不調が和を乱し、都合3度の喧嘩を経て寝るのが一番だという投げ遣りな結論が弾き出された。


 なおこの日の夜には風を凌ぐためにレジャーシートに包まって眠ることが提案されるのだが、男二人で一緒にというのは明らかに不快であり、再度喧嘩が起きたのは言うまでもない。雨合羽で事足りるということに気付いたのは口を開くのも億劫になった後だった。




 そして本日は4日目。水の探索は現実的に考えて今日がタイムリミットである。水無しでも3日生命を維持できると言うのは有名な話で、おおよそ間違いではないのだろうが、しかしこれは救助が来ることを前提としたもの。自ら動いて水を探すのであれば3日も猶予があるはずはなく、手足の震えや、軽度の頭痛、高熱を発した時のような倦怠感、並びに薄れ行く意識から三人は直ぐそこにまで来ている死を痛感していた。こんなことなら2日目に不調を押して行動すれば良かったと各々後悔してみるが、過去に(いか)ったところで時間が巻戻る訳はない。


 動きたくないと訴える身体に鞭打って日の出と共に三人は行動を開始し、がむしゃらに高所を目指して歩き出す。もし断崖の上まで登ることが出来れば森を見渡すことが叶いそうだった。そして森を見渡せれば、川の1つや2つは見つかるはず――


 手を土に塗れさせながら急勾配を制し、ひたすらに木々の合間を進んで、行き止まると更に大きく迂回する。進行不能な箇所は存外多く、あっちへこっちへと行っている内に崖がどこにあるかなどさっぱり分からなくなっていたが、感覚だけを頼りに三人はひたすら登り続けていった。そうして数時間。


 太陽が頭上で輝く頃にはもはや誰も喋る気力を持ち合わせず、活気なく歩む姿はB級映画のゾンビと見違えるし、斜面を這い上る様などはまるで地獄から逃げてきた罪人のよう。この日の朝でさえ何となく汚れることを嫌っていた彼らも昼には形振り構わなくなっており、何をどうしたのか鈴丸に至っては眉にまで土を付けていた。


「なあ、知っているか?」


 また1つ、50度はあろうかという斜面を登り切ったところで久しぶりに斂史が口を開く。それから大きく間を開けて、


「…………何を」


 生気の無い声で将大が返事をした。


「人間という生き物は極限状態では仲間内でも殺し合うことがあるらしい」


「「……………………」」


 当然の如く長い沈黙が訪れる。何と返すべきか将大が判断しかね、斂史の発言を鈴丸が即座に理解できなかったが為の沈黙である。三人の中でも鈴丸の消耗は激しく、ほとんど無意識に先頭である将大の背中を追っていた。


 やっと斂史の言葉を飲み込んだ鈴丸はカッと目を見開き、


「そりゃつまり? 手が滑って殺しちまっても状況の所為だからしゃーないよねって言い訳か? ――っとワッ!」


 歩きながらくるりと反転して、最後尾の斂史に対し全身で喋る。しかしただでさえ調子が悪いのに後ろ歩きなどまともに出来るはずも無く、障子の敷居ほどの段差に足を取られ、間もなく後頭部から地面に突っ込んだ。


「……馬鹿め」


 呆れ顔で斂史が手を差し出し、鈴丸が二度の躊躇の後それを取ると一息に引き起こす。


「どうしてそうなる…………そんなこともありうるのだと知っていればもし本当にそういう思考に陥った時、多少冷静になれるだろう」


「……へえ。そういや俺聞いたことあるぜ、四人で海洋遭難して一人食っちまった話」


「それは恐らくミニョネット号事件だな。俺の記憶が正しければ確か……イギリスを出てオーストラリアに向かっていたヨットが嵐で難破、漂流20日目に内の一人が渇きから海水を飲んでしまい、瀕死に陥ったその船員を残りの三人が会議の末殺害して食べた、というものだったはずだ。この事件の特異で興味深い所は――」


 また始まった。


 将大と鈴丸はほとんど同時にそう思った。何かにつけてやたらと雑学を披露したがるのは斂史の悪い癖である。二人とももう何度うんざりさせられたか分からない。しかし大体の場合において彼らは斂史を止めず、それはわずかな好奇心の為で、この時もただ黙って歩き出した。


 喋りながら、もちろん斂史も二人に続く。


「やはり殺人に正当性があったということだろう。24日目に救助された後、三人の内二人は殺人罪で逮捕され死刑宣告が為されるが、世論に弁護されて禁固6ヶ月にまで減刑される。救助される直前の4日間には水も食糧も得られず、もし殺された一人が自然に死んでしまっていたなら死後凝血のせいで死体から十分な血を啜ることは出来なかった、だからこれはやむを得なかった、とな。そしてこの事件はカルネアデスの板に類する物として有名になった」


 ――ああ、ちなみにカルネアデスの板というのはだな、


 もう二人ともまともに聞いていなかったが、気が紛れるからだろう、斂史は次々と話題を変えながら喋り続け、それが止まぬ間に将大が呟くように言った。


「食うなら俺にしてくれ。元はと言えば俺のせいだ」


「な、やめろよハラショー。そんなの俺は嫌だぞ」


「いやしかし……ナシではないんじゃないか? 全滅よりは随分マシだろう。瀕死の一人を犠牲にして残りの二人が生き残れるのならば俺達はその選択肢を採るべきではないか?」


「おいオサフミ」


「恐れることはない。今は良心や常識が邪魔をしてそんなこと出来るわけないと思うかもしれないが、明日の昼か朝、早ければ今日の夜にもそれしか無いと思えてくるだろう。さっきも言った通り遭難事件においてはよくある話――」


「おいオサフミいい加減にしろよ!」


 鈴丸の腕がぬるりと斂史の襟元に伸びる。


「お前が言ったんだろう」


「はぁ? お前が変なこと言うからだろ!」


 鈴丸の手に力が籠もった。浮きまではしないが胸倉がぐいと持ち上がり、その辺のドラマで見たことがあるような


 この腕が俺の言葉の証明だな――そんな台詞が斂史の口から飛び出そうとした瞬間、


「落ち着けッ!!」


 頭が割れんばかりの大声で将大が叫び、二人の肩を掴んで無理矢理引き剥がす。


「お前ら馬鹿か? どう考えても今は喧嘩してる場合じゃねえだろ! 俺を食えとは言ったがお前らが自殺志願者なら話は別だ。死にたい奴は勝手に死んでくれ」


「……すまん」


「……悪い」


「行くぞ」


 三人はまた歩き出した。


 ところで、自然界において肝要なのは速さと隠密性である。弱き動物も俊敏でさえあれば捕食者から逃げおおせることが叶い、そも見つからないのであれば命がけの追いかけっこは必要無く、強き者も獲物に忍び寄り、最後の数十メートルを詰めるだけの足を持たなければやがて飢餓に殺される。


 つまり何が言いたいのかと言えば獣は速く、静かで、追われる側は一瞬の油断すら許されないということ――


 しかし、自然界における常識を、人間界で生きてきた彼らは知るはずも無かった。


「のわッ!」


 背の鞄に突然きつい衝撃を受けて、鈴丸が顔面から地面に突っ込む。


 すぐに鈴丸は、斂史が蹴ったのだと思った。鈴丸の後ろを歩くのは斂史で、斂史が蹴ってくる理由には心当たりがあったからである。


 ――さっき胸倉を掴んだから、やり返してきたのだ。


 良いだろう、続きをやろうじゃねえか。


 そう思って鈴丸が顔を上げると、目が合う。


 ギラギラと光る、黒くて大きい眼だった。


「ひゃ」


 おかしな声が出て、頭が真っ白になる。


 ごわごわした焦げ茶色の体毛に、興奮を感じさせる荒々しい鼻息、唾液で生々しく光る犬歯……当然斂史ではなく、見たこともない動物だった。


 頭が状況を理解するより早く血の気が引いて、氷水に叩き込まれたかのように全身がすうっと冷たくなる。


「……ぁぅ……」


 鈴丸は兎に角この状況から脱しようとするのだが、腕にも足にもうまく力が入らない。何度試みても精々痙攣したみたいに身体の末端が跳ね上がるのみであった。やがて動けないことを悟った鈴丸は次に自分の現状を伝えんとするのであるが、どうやら動かないのは喉も同じらしくて、一単語すら発せず……トライアンドエラーを繰り返す度深いパニックに陥ってゆく。


 世界の終わりのような気分だった。


「――鞄だ! 鞄を捨てろ!」


 その将大の言葉で、鈴丸の意識が一気に引き戻される。


 見れば獣は鈴丸の上にのしかかり、鈴丸の一部と勘違いしているのか木の枝が詰まったボストンバックを滅茶苦茶に噛んでいた。  


 鈴丸は将大に手伝われながら言われた通りに身を捩って肩紐から身体を抜き、そのまま仰向けになってずるりと脱する。丁度獣が鞄を両の前足と顎でしっかりと固定し、更にはその後ろ足が地に置かれていたため抜け出すのは容易であった。


 鈴丸が立ち上がることに成功すると、呆気に取られてカカシになっている斂史から将大が鞄をひったくり、ぽんと背中を突く。


 その後はただ走った。


 足下の草を蹴散らしながら斜面を横切り、立ちはだかる倒木を乗り越え、険しい岩場は滅茶苦茶に踏み越える。


 目の前がチカチカした。一歩進む毎に万力で締められたかの如く頭が痛んだ。途中で音が聞こえなくなった――それでも走り続けた。


 そして、三人同時にぶっ倒れた。


「も、ッ」


 ――もうだめだ。


 将大がそう言おうとしたが一音目しか声にならず、身体が呼吸以外のあらゆる動きを拒んで続きはどうにも出てこない。幾ら日頃から走り込みをしている彼といえど、三人分の10kgにすら及ぶ荷物を持って走るのは過酷で、もう完全に限界だった。


 一行は不安に心を震わせながらもぐったりと横たわり、たった2分にも満たない疾走で乱した呼吸を、肩と言わず全身で整えにかかる。平時の息遣いに戻るまでにはたっぷり13分を要し、それだけの時間があってもあの獣が追い掛けてくることは無かった。


「……すまなかった」


 斂史がゆっくりと起き上がりながら深刻そうに言う。その言葉は鈴丸に向けられたもので、


「何がだ?」


 当人は気の抜けた声でそう返事をした。


「何も出来なかっただろう……さっき」


「ああ、んなことか。しゃあねえって気にすんなよ。ほれ、俺は無事だ」


「……いや、背中から血が出てるぞ」


「なに!? どこだ!? あ、言われてみりゃ痛え気がしてきたぞ!」


 首を振り、身を捩り、しまいには手で背を触り回って鈴丸は自身の傷を探す。見かねた斂史はその手を掴んで制止した。


「暴れるなバカ傷が広がるぞ。羽良、救急セットを出して貰えるか?」


「……………………」


 しばし待っても返事は無く、将大の方に視線を向けてみれば心ここにあらずといった感じで突っ立っている。


「羽良?」


 聞こえていなかったのでは、そう思い再度声を掛けてみると、


「……あったぞ」


 今度はすぐに反応があったが、しかし意味が分からなかった。鞄の口は閉じていて、どこからどう見ても将大は救急セットを出していない。一体何の話をしているのか……


「あったって何があったんだ? 俺は救急セットを出してくれと言ったんだが……もしかして幻視か幻聴でも出たか?」


「そうかもしれんな……だからお前も見て確認してくれ。ほらあそこだ。あそこに――」


 ――川が見える、よな?

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