第三話 オレンジ色の空の下
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「だいぶ日が傾いてきたな」
色付き始めた空を仰ぎながら斂史が呟いた。
あれから一行は小休憩を挟みつつ北北東へ歩き続け、時間にすると既に5時間弱が経過している。しかし水源らしい水源にはぶつからず、食料も見つからず……景色さえほとんど変わらない。致し方なかろう、運が無いのも確かだったが自然は彼らの想像を遙かに超えて険しく、足は奪われ、思っていた距離のたった3分の1すら進めてはいなかったのだから。
「日が落ちたらどうする?」
「悩み所だな。野営をするつもりだったがまだ水の当てもないし、しばらく移動を続けるという選択肢もある。幸い懐中電灯があれば夜でも歩けそうな森だ」
「えぇ……休もうぜ、俺はもうしんどいぞ」
鈴丸は大体2時間ほどで音を上げ、その際に鞄の中身を全て将大に押しつけている。代わりとして彼には枝拾いの任が与えられており、一度空になった鞄はほとんど上まで渇いた種々の枝葉で満ちていた。
「分かった、休もう。羽良もそれでいいな?」
「ああ、構わん」
「マジか!? やったぜ!」
鈴丸の声のトーンがぐっと上がり、全身でガッツポーズを作る。
「それだけ元気がありゃまだ歩けそうなもんだがな」
かく言う将大も余裕は失っていた。例えばいつもなら振り向き、相手の方を見て喋る彼だが、今は歩くことに精一杯である。幾ら鍛えているからと言って慣れぬ自然が体力を削ぐことに変わりはないのだろう。
緊張が緩むと鈴丸は便意を思い出したようで、
「ところでトイレ行きてえんだけど」
「その辺でしてくりゃいいだろ。女じゃあるまいし」
将大は呆れ気味に返し、その台詞の中程で鈴丸は鞄を放り投げずんずん二人から離れていく。
そしてもう随分離れた所でふと不安になった鈴丸は、顔だけ後ろに向けて叫んだ。
「ちょっち待っててなー! 動かないでくれよー!」
二人はてっきりそこで足を止めるものだと想ったのだが、予想を裏切って鈴丸は足を止めない。やがてそのシルエットが豆粒ほどにまで小さくなると呆れて視線を外した。
「どこまで行くつもりだあいつ。そりゃ野郎のクソなんか見たくも聞きたくもねえからある程度は離れて欲しいが、にしても限度ってもんがあるだろ……迷子になるなって付け加えとくべきだったか?」
「そんなに馬鹿じゃないと信じよう。いやしかし……流石すずっちと言ったところか」
わずかに間を置いて二人はふっと噴き出し、将大でも腕が回らないほどの巨大な倒木に腰を下ろした。
足を止めて周りを見遣ると、途端に景色は精細さを増し、とんでもないところに来てしまったなあ、なんて二人は思う。
彼らの20年に本当の自然は1つもなかったと言えるだろう。強いて言えば今日の青木ヶ原ぐらいのもので、その他の山や森はどれも人の手が入った物ばかり。最低でも分かりやすい地図と歩きやすい道があって、有名なところなら見知らぬ人がうんといて、何より帰れるという安心感があった。
けれどもここには、その内の1つとしてありはしない。
GPSは現在位置を見失い続け、出てこられても困るが動物の1匹にすら出会さず、救助の見込みも当然ゼロ。無い無い尽くしは行くところまで行き、遂に時間さえもが無くなろうとしている――
夕焼けがもたらす焦燥は、彼らの心を焼き始めていた。
「なあ斂史、俺達これからどうなるんだろうな」
「さて、な……なるようになるし、なるようにしかならないだろう」
貴久利斂史はぼんやりと視線を泳がせながら言に反して頭を捻る。どうすればより生存率が上がるだろうか、何か妙案はないだろうか、と。それは今日ここに来てからずっと考えていたことで、しかし幾ら考えども閃きは訪れず、常識外の有用な知識など浮かびはしない。
道理だろう。彼は所詮ただの学生で、そんじょそこらの一般人で、現代の暮らしに頭のてっぺんまで浸かっているのだ。それがどうして野を生き抜くためのハウトゥーなど知っていようか、否――
「お待たせ。って、今日はここで野宿か?」
鈴丸が帰ってくると、丁度斂史と将大が焚き火の準備をしていた。どちらからともなく始めたことで、鈴丸の鞄の中身をサイズ順に左から並べていく。
「ほれ、ライター寄越せすずっち」
「……その呼び方やめろって俺は何回言えばいいんだ?」
溜息を吐きながらも鈴丸は胸ポケットからライターを取り出し、将大に手渡す。
受け取った将大は慣れた手付きで、名も知らぬ、無数の針を束ねたような枯れ葉に点火し、上に小枝を積み上げる。火が移ったのを確認すると今度は親指より太い枝々を重ね、最後に腕ほどもある幹の欠片を3つ乗せると、焚き火の形が出来上がった。
「スゲえなハラショー。めっちゃぽいじゃん」
「焚き火にぽいも何もあるもんか。火種と枯れ木がありゃ誰でも出来るよ」
「へえ、そういうのはやっぱ親父に教えて貰ったのか?」
「まあな。教えて貰ったっても精々焚き火の仕方と、テントの張り方ぐらいだが」
――こんなことになるなら親父の趣味にもっと付き合っとけば良かったな。
ふと脳裏に浮かんだのは、父親に対する申し訳なさから出た後悔だった。斯くも早く別れることになるのならもっと一緒に遊んでおくべきだったと羽良将大は悔いる。
その類の思考は当たり前のようで、しかしついさっきまで頭の片隅にも無かった。別に彼は薄情でも不義理でもなかったが、この状況においてそこに意識を向かせ得るだけのゆとりは持ち合わせてはいなかったのである。そして一度気が付くと連鎖的に感情は溢れ出し、たちまち後悔や罪悪感で胸がいっぱいになる。
まず親にとんでもない心配を掛けてしまっただろうし、このまま帰れなければ恩は返せず、もし死んだりすれば最悪の親不孝に違いない。それに加えて、自分だけならまだしも斂史や鈴丸までも巻き込んでしまった……
――どうして二週間前の自分は今と同じことが考えられなかったのだろうか。
しばし枝を這いずり回る炎を眺めた後、頭をぶんぶんと振って青年は脳裏のもやを払い飛ばす。
そうだ、まだ帰れないと決まった訳ではない。
「眠いのか? ハラショー」
「いや、そういう訳じゃないが……ライターは俺が預かってもいいか?」
「いいぜ。煙草もあと2本しかないしな」
「……助かる」
鈴丸の了承を得ると将大は上着の胸ポケットにライターを収め、リュックから掌より一回り小さい箱を取り出し、開封して、
「ほれよ鈴丸。斂史も」
「お、例のカロリーメイトもどきか。恩に着るぜ……ハラショー」
「すまんな……ありがたく貰う」
内包されていた小袋を1つずつ配る。
「気にすんな。元々分けるつもりで持ってきたもんだしな」
続けざまに将大は同じ箱をもう1つ取り出して封を開け、自分の分の取り出すともう一袋は箱ごと鞄に戻した。自然と三人は小袋を膝上に、揃って手を合わせ、
「「「いただきます」」」
これ程心の籠もったいただきますは三人とも生まれて初めてだった。
一行はもそもそと無言でショートブレッド状の夕餉を食み、袋に残ったカスまでも綺麗に平らげるとそれぞれまた手を合わせる。
「さて、寝よう」
やることが無くなった斂史が呟いた。
「見張りはどうするんだ?」
「そうだな……一番手はまず俺が引き受けよう。その次にどちらが番をするかは二人で決めてくれ。交代までは2時間ぐらいでどうだ?」
「それで良いと思う。斂史の次は俺がやるよ、二回に分けて寝るのは鈴丸にゃきついだろう」
「おおう、何から何まですまんな。頼むわ…………寝れっかな」
「大丈夫だろ」
そうと決まると将大はレジャーシートをなるべく平らな地面の上に拡げ、着替えとして持って来ていた衣類を布団代わりに二人は横になる。
「じゃあ2時間後に起こしてくれ」
「ああ。おやすみ」
「おやすみー」
寝れるかどうかを心配していた鈴丸は結局先に眠りに就いた。将大も日が完全に沈む頃には寝息を立て始め、その様子を見た斂史は鞄からノートとシャープペンを取り出す。そして焚き火を挟んで二人の反対側に腰を下ろした。
ペン先がノートの1ページ目を走る――
遭難一日目
覚醒時刻12:39、日没時刻17:57。日没時点の気温は体感で23度前後。
ここの植生は青木ヶ原樹海と大きく異なり、単一種と思われる針葉樹のような樹木が森の大部分を占めている。また、樹海の地表すぐ下が火成岩であったのに対し、この森は通常の土砂で埋め尽くされているようで、樹木の根はあまり横に広がっておらず、岩石が露出している場所も少なかった。草本についてはあまり詳しくないので断じることは避けておくが、馴染みの無い品種ばかりであったように思われる。
以上より青木ヶ原樹海でないのは確かで、何らかの超常現象に巻き込まれたのも間違いないだろう。後者に関してはビデオカメラの映像も重要そうであるが、詳細は不明。
異世界である可能性は低くないと思われる。
「思ったよりも書くことが無いな」
シャープペンを筆箱に直し、パタンと小気味よい音を立てながら真新しいノートを閉じると、青年は空に目を向ける。
街では見られないような夜空だった。
――凄いな。
我ながら馬鹿な感想だと思う。これでは小学生と同じだな、と苦笑する。しかし夜空に広がる凜とした黒は言葉を呑み込み、一つ一つが宝石のように煌めく星々は頭の中まで真っ白にして、それ以外の感想は出てこない。
興が乗った斂史が首を回すと、一際大きな星が視界に入った。
「あれは……」
――月、しかも赤い月。
まずその色に驚かされるが、赤い月は何度か見たことがある。大気中の塵や月食の影響により時折起こる現象で、珍しいと言えば珍しいがそれ程でもない。
真に彼を驚かせたのはその直ぐ横に在るモノだった。
「はは……」
――もう1つの、鈍く灰白色に光る月である。それはまるで親子のように赤い月に寄り添って広大なソラに浮いていた。
1つ目と比べればそれは相当に小さいが、見た目からして明らかに恒星ではなく、そして周りの星々とは比較にならないほど大きい、紛れもない月。
――いったいどういう原理で2つの月が存在しているのだろうか?
驚きの次に出てきたのはそんな疑問で、しばらく考えてもよく分からず、この非常時に自分は何を考えているんだろうなと斂史はまた苦笑する。
幾千幾万の輝きに心を委ねれば、2時間弱なんてあっという間だった。