第二話 生きることさえ難しい
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人には分かっていてなお、馬鹿をしたい時期がある。その最たるが大学在学中であろう。
時間に余裕が出来た若者達はふと自分のこれまでを振り返り、そこから馬鹿とは一体何かを学び取る。そしてどういうことか、少なくない大学生達はあえてより馬鹿なことをしてやろうと思うのである。
今回の旅は当にそれだった。
「お終いだ……」
一番最初に弱音を吐いたのは鈴丸だった。目を覆うように顔の前で腕を組み、再び仰向けで倒れる。
大地はひんやりとしていて身を預けると気持ちが良い……草木のざわめきが子守歌のように感じられ、気を抜くと意識を持って行かれそうになる。
「行動を起こすべきだ」
二人を目覚めさせて以来、沈黙を貫いていた貴久利斂史が呟いた。
「……寝たらダメか? 正直今日はもう疲れた。半分引き籠もりの大学生にゃきついぜ……」
「日頃運動をしないからこの程度で疲れるんだ。というか自分で言っちゃうのかそれ」
一番大荷物だったはずの大男、つまり羽良将大はピンピンしており、本当に寝ようとする鈴丸の顔を無表情で覗き込む。鈴丸は鈴丸で気配を感じたのか、寝たまま将大を押し退けようとするのだが、将大に手首を掴まれ叶わず、おかしな膠着状態が完成した。
斂史は呆れた様子で、
「……寝るな、遊ぶな。まず状況を整理するぞ。羽良、ビデオカメラはまだあるか?」
「ん、ああ。ってあれ、どこだ」
「……これだろ、ほれ」
渋々起き上がった鈴丸が草の隂からビデオカメラを拾い上げ、将大に返す。
「やっべ撮りっぱなしじゃん」
「今保存した動画を再生してみてくれ、洞窟に入るところまでは跳ばして良い」
動画は樹海の入り口から始まる。嫌がる二人の代わりに将大が全員分の名乗りを挙げ、今回の目的を告げるシーンだ。再生箇所を操作するスライダーが掴まれると機器は音を発するのをやめ、彼らの一時間半が紙芝居の如くに流れゆく。遊歩道を大学生らしく騒ぎながら歩く様、本当に道を外れるかで揉める三人、苔むした靴を鈴丸が踏んづけて青ざめる場面などはかなり見応えがあるものだったに違いないが、全てが一瞬だった。やがて洞窟の前に一行が辿り着くと将大はタッチパネルから手を離し、横6.64センチ、縦3.73センチぽっちの小型モニターに男三人が齧り付く。
『お、ここから見ると例の絵にそっくりじゃね!?』
見覚えのある景色だった。指で枠を作ってみると更に既視感が増して、思わず鈴丸は興奮する。
『ここで椅子に腰掛けて描いたんだろうな』
『マジだな。こっから撮ると三﨑さんの絵にそっくりだ』
スマートフォンで撮った絵の写真と比べて見ても、構図は寸分違わない。丁度時刻も同じ頃であったのか光の加減までもが同じである。絵画の精密さに三人はただただ感心していた。
『んで、こりゃなんだ? 洞窟か?』
数歩進むと小さくはない穴が眼前に広がる。ほとんど円形で最上部の直径は凡そ8メートルと言ったところ。腐葉土のすぐ下は黒っぽい岩肌が剥き出しになっており、基本的に傾斜はきつく、地表から見て90度を超える返しの様な部分もある。そしてそんな洞穴の奥には、総てを一吞みにしてしまうであろうひたすら真っ暗い闇が湛えられていた。
『見た通り洞窟だな……いやしかし妙だぞ』
『妙ってどこがだ? そりゃあこんなにストンと真下向いてる穴は気持ちが悪いけど』
洞窟を画面いっぱいに納めようと、将大がすり足気味で縁に寄る。その際に蹴飛ばした拳大の石ころは静かに急斜面を沿って転げ落ちて、けれどもいつまでも音が返ってこない。
『青木ヶ原樹海は864年の貞観大噴火によって形成された岩石層の上に、この千年ばかりで森が回復した物だ。故に樹海のあちらこちらに類似の溶岩洞が存在する。鳴沢氷穴や富岳風穴なんかが有名だろ――』
『おいオサフミ御託は良い』
ニヤつきながら鈴丸が言い、一瞬不満げな表情を浮かべるも斂史は要求を吞んだ。
『……つまりだ。この穴は新しすぎる。陽の光がわずかにでも当たる箇所は苔生していなければおかしいが、見る限り苔のコの字も無い。露出部分が風化した様子もない。だからこれは最近出来た洞穴だ。極めて最近に』
『へえ、なるほど確かに……やっべーな益々雰囲気出てきたじゃん。マジで異世界あるんじゃね?』
『だから言ったろ、マジっぽいってさ』
穴の周りを鈴丸がゆっくりと回り始め、ぐるぐると、だいたい2.5周したところで嬉しそうに反対側の二人を手招きした。
それを見た斂史と将大は当然鈴丸の方へ歩き出し、まだ二人が半分も来ていないにもかかわらず、我慢の限界を迎えた鈴丸が叫びだす。
『おい、降りようぜ! ほらあの辺。階段っぽくなってていけそうだろ?』
鈴丸の言う通り、彼の指す辺りには上り下りが出来そうな段差と緩やかな斜面が穴の深いところまで続いていた。
『……あれが道から外れるのを嫌がっていた人間か?』
『結局こいつがいつも一番はしゃぐんだよなあ』
――ここまで来たのだから行けるところまで行ってみたい。
そんな好奇心が一行を穴の奥深くへと誘う。
命綱もなければまともなライトもなく、もちろんピッケルなんてものも持っていない。装備の不十分は誰の目にも明らかだったが、心得さえない彼らにとってその事実は引き返す理由たり得ず、貧弱な懐中電灯のみを頼りにして着々とその身を闇に浸していく。
ゆっくりと慎重に、足を滑らせないように、踏み外さないように……一歩、一歩、また一歩……そうして丁度、懐中電灯の光以外が見えなくなったところでそれは起こった。
『のわッ゛!』
先頭を務めていた鈴丸が突然体勢を崩す。一見足運びを誤った様に見えるかもしれないがそうではない。鈴丸はこの時まるで地震――それも震度6を超える強震を受けているような、もしくは足首を掴まれて揺さぶられているような感覚に囚われたため、体勢を崩したのであった。
『おい!』
反射的にすぐ後ろの斂史が鈴丸の襟首を掴みに掛かる。しかし既に前方へ倒れ始めていた鈴丸の勢いを殺すことは出来ず、更に斂史を支えようとした将大にまでその勢いが伝播してしまう。
『ぅ゛ぉ゛ぉぉぉッ!』
落下――重力に掴まれて三人は落ちてゆく。真下へ、垂直に。けれども通常の落下ではない。落ちれば落ちるほど全身の感覚が歪んでいくのである。
ここから先は誰の記憶にもなかった。何故なら三人とも気絶していたから。
真っ暗闇へ落ちたはずなのに、画面いっぱいに光の点が現れる。間もなくそれは線になる――
三人がダウンした中、電子機器のみが起きて宇宙を駆け抜けた。速く、速く、きっと光よりも速く、いやもしかして速度とは別の物理量と競っていたのかも知れない。時間や、あるいは人智の及ばぬ何かと。
星空に向けてシャッターを開きっぱなしにした時のような映像はおよそ1分続いた。線が点に戻り、その次の瞬間には景色が色を獲得する。
穴を抜けた先はどう見ても今いる場所であった。
「決定的だな」「やっぱお終いじゃん……」「星の海みたいなの生で見たかったな……」
口々にばらばらのことを言う。
将大は動画の再生を止めると、全体の時間から再生箇所の時間を差し引いて、
「こっちに来てからはまだ40分ぐらいしか経ってないな」
「ということは30分以上も気を失っていたのか、よく起きられたな……よし、次は所持品の整理をするぞ。俺は飲料水1リットルに、ぶどうジュース300ミリリットル、雨具、ノート1冊、筆記用具、タオル2枚、着替え1式、スマートフォン、モバイルバッテリー、ポケットティッシュ、財布……以上だ」
斂史は鞄の中身を汚れぬように草の上に並べ、全部出し終えると逆順に入れ直す。将大が続いた。
「俺は水4.5リットルと100均のカロリーメイトもどきが6箱、タオルが4枚、ビデオカメラにハンディGPS、ソーラーチャージャー、懐中電灯2本、レジャーシート、グローブ、救急セット、あとはオサフミと一緒だ」
「よくそんなに持ってここまで来たなハラショー。いやスゲエぜマジで。尊敬するわ……」
「万一遭難したときに備えてな。お前はどうなんだ?」
言われて鈴丸はボストンバックを開け、中身の無事を確認する。
「んー、俺のはオサフミのとほぼおんなじだな。ノートと筆記用具抜いて飲みもんを麦茶1リットル弱に置き換えれば完璧だ。あ、あとライターと煙草」
「でかしたぞ比嘉乃。ライターは大きい」
「初めてお前が喫煙者なことに感謝したよ」
皮肉っぽく将大が言い、鈴丸はむっと顔になる。生じた険悪なムードを払うべく、鈴丸は表情を弛緩させながらはっと息を吐き出して、
「いっつも煙くてすみませんでしたね……てか煙草もう手に入んねえんだよなあ。クソ、3本しかねえじゃん。こんなことなら12カートンぐらい買ってくりゃ良かったわ」
煙草の一本を噛むように銜える。ライターの火を点けようとしたところで、今度は将大が険しい表情を浮かべた。
「吸うのは構わんが風下で、俺から最低10メートル離れてくれ」
「はいはい」
端から見れば心配になるであろうこの遣り取りも既に幾度となく繰り返されたもので、内心またかと呆れながら斂史は二人の丁度中間に腰を下ろす。そして喋り始めた。
「とりあえず水を探そうと思う。今持っている分では保って2日だ。直に干涸らびて俺達は死ぬ。その前に川か池か湖か、水溜まりでもいい、何でも良いから水源を見つけなければならない」
「その意見には賛成だ。でもどうやって探すんだ?」
至極当然の疑問を将大が投げ掛ける。
「もちろん、歩いて」
それに対する斂史の答えは非常にシンプルな一言で、ぼうっと煙草を燻らせていた鈴丸が苦しそうに咽せた。
「……オサフミお前マジでいってんのか? この見るからにだだっ広い大自然の中歩いて水を探すって? 勘弁してくれよ、木に登るとかじゃダメなのか? こんだけ高けりゃ何かしら見えんだろ」
「上まで登れれば確かに有益な情報が得られそうだが……この高さは素人に登れるものではないぞ。少なくとも俺には無理だ」
言いながら斂史は辺りの木々を腕一本で指し示す。
今三人を取り囲んでいるのは高い物で30メートルもありそうな針葉樹群である。視認出来うる範囲のものはどれも同じ品種で、幹はほぼ垂直、加え上部まで枝葉を持たず、やっと現れた枝も足を置くには頼りなく見える太さであった。
「無理、だな。ハラショーはどうだ?」
「すまんが俺も自信はない」
「ならやはり木登りはナシだな、目の前で死なれても困る。誰かこれ以外のプランはあるか?」
大雑把な質問が投げられた際にはありがちだが、二人とも黙して考え込む。数分して、どこか怖ず怖ずと鈴丸が切り出した。
「一応聞いとくがここで救助を待つってのはどうだ? 焚き火なんかしてさ」
「見込みがあると思うか?」
そしてその提案は程なく斂史に却下されるのだが、鈴丸自身通る訳のない案だということは百も承知していて、顔色を変えずただふうっと煙を吐き出す。
「……いんや。あークッソ。動きたくねえなあ…………いや分かってはいるんだぜ、俺も分かってはいるんだ。行動するなら今しかねえってのはちゃーんと分かってんだ。でもな、俺の身体は動きたくないって主張してくるんだよ」
「なら行くぞ、俺達には時間がない。自由に動き回れるのは昼間だけだ」
「どうしてもしんどくなったら荷物くらいは持ってやるよ。辛くなったらすぐに言えよな。持つならお前よか荷物の方が30倍マシだ」
斂史と将大はリュックを背負い、立ち上がって念入りに肩紐を調整する。鈴丸は短くなった煙草を地で消してから立ち上がった。
「そんときゃ頼むわ、サンキュ……ちなみにどっち向かって歩くんだ?」
「風の吹く方へ」