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老兵

作者: ゆぞぅ
掲載日:2015/08/01

短いお話です

 

 定年退職の日から四年。

 私は近所を徘徊する、ただの老人に成り下がっていた。

 毎日朝早くに目覚め、妻の後をついて回る日々。時々振り返った妻は、腰に手を添えて呆れたように溜息をついた。


 そんな私に電話がかかってきたのは、二週間前のこと。長く勤めた居場所から、再雇用を打診されたのだ。

 妻は反対しなかった。

「部署も同じなんですか? 課長だったからって、威張り散らしたりしないで下さいよ」

 反対どころか、当然引き受けるものと決めつけていた。堕落していく私の身を案じた、というわけではなさそうだ。

「そんなこと、お前に言われなくてもわかっとるよ」

 私たちにはそれなりの蓄えがあったし、年金受給もすぐに始まる。しかし私は嬉々として再び飼われることを望んだ。

 週に四日だけ勤務する、契約社員として甦ったのだ。こんなものなくなればいい、とさえ思っていたネクタイも、私の背筋を伸ばすアイテムに他ならなかった。


 復帰後の私に与えられた仕事は、新幹線に揺られること三時間、神戸まで足を運んでの、謝罪だった。

 エアコンのない倉庫内は外よりも暑かった。

 問題の商品の横で、私は平身低頭して詫びた。困り果てた顔に滴る汗は、わざと拭わない。いぶし銀の技を、今にも飛び掛かって来そうな土佐犬面の得意先と、私の後ろに隠れるように控える若い男女に披露した。


 昼過ぎになって、何とか生還した私たちは、木陰を見つけて立ち止まった。会社に報告を入れるためだ。

 電話の向こう、かつて部下だった現課長から労いの言葉を貰い、若い二人への説教を依頼された。面倒臭いことを丸投げするところ、あいつは全く変わってない……。


 報告を終えると、行きの電車内では一言も喋らなかった、彼女が言い出した。

「じゃんけんで負けた人が、あそこの看板まで荷物持ちね」

 この突飛で不躾な提案に、私は耳を疑った。一件落着して、気が緩んだのだろうとは推測できる。

 しかし、そもそもこんな所にまで出向き、私が汗を掻いているのは、彼女の受注ミスが原因だ。その怒りの電話を受けた彼の塩対応もマズかった。二次クレームというやつに発展したわけだ。

 かなり目上の私に、火の粉を被せられただけ私に、鞄持ちをさせるだと!

 このままでは、彼らはこの先もっと深い落とし穴に填まる。その中には、大きな流れの先に開いている、回避しがたい穴もあるだろう。しかしそれ以外の穴に、ましてや自らで掘る必要はない。ここはやはり私が言うべきなのだ。

 彼女へ一歩詰め寄ると、脳裏に妻の言葉が浮かぶ。‟立場を忘れないで……”

 これはそういうのとは違う。言いたいことではなくて、言うべきことなのだ。私は頭上の妻を掻き消すように手で払った。……が、消えてくれなかった。

 

 結果、私はこの長い上り坂を、若造どもの荷物をゴロゴロと引いて上っている。

 ツクツクボウシごときから、独特の声で嘲笑される始末だ。だいたい、初手にパーなんてものを繰り出す輩は、頭が、パ……、いや、みなまで言うまい。私から見れば孫のような彼らに、鬱憤をぶちまけて何になろうか。

 身軽になった彼らは、重力を無視するように駆けていった。ふと、その姿が孫たちと重なった。

 中学に上がってから、とんと顔を見せなくなったが、あれたちは息災だろうか?

「木下さぁん。ここまで頑張ってー!」

 彼女が坂の途中で、こちらに手を振っていた。

 私は舌で歯茎をなぞるような顔で、右手を肩の高さまで挙げ、それに応えた。


 それから彼らに遅れること一分、やっと飲食店の案内板の下までたどり着いた。

 私はその看板を指差して言う。

「腹、減っとるだろ? 昼飯くらいは経費で落とせるはずだがね」

 若い二人は顔を見合わせた。

「俺たち、これからすぐに三ノ宮まで出るんすよ。行きたかったショップがあるんすよ」

「アタシも明日休みなんで、折角だから宝塚で一泊しようと思って」彼女はそう言うと「じゃぁ次。じゃーんけーん……」と、拳を上下に振った。

 二人のこの御大層なバッグはそういうことか。呆気に取られながらも、私は瞬時に頭を巡らせた。そのリズムからはみ出さぬように、鋭くチョキを出した。


「……木下さん、じゃんけん弱いっすねぇ」

 彼が口元を片方だけ上げた。

「お疲れ様でーす」

 彼女のほうは身を翻して、とっとと歩き出した。

 私は眉頭を寄せ口を尖らせた。二人のバッグに目を落とし、雑に取手を掴んだ。

(チョキで負けた?)これは信条を曲げた私への罰だ。この歳になっても、ゆらゆらと蠢くのは、この坂の蜃気楼ばかりではないということか。

 呻き声と共に顔を上げると、彼がまだそこにいた。

「あの、すみませんでした。あの、今回のこと。あの、ありがとうございました」

 それだけ言うと、彼はペコッと頭を下げた。

「ああ、今回のことなら構わんよ。それよりこの荷物を半分……」

 彼はとっくに行ってしまっていた。

 私は、彼の心境の変化について行けず、目を細めて突っ立っていた。

 少し先で待っている彼女の表情は、逆光で窺えない。

 私には、彼らを育ててやる、などという驕りはない。こちらもそのつもりなのだから、上手く利用してくれれば良いだけだ。

 私は細く息を吐いて、彼らの後を追った。

連載ものに行き詰まって寄り道

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