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闇の抱擁  作者: 横江秋月
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 重い体を引きずるようにして自分のアパートに戻ったのは、それから一時間後のことだった。

 鍵を回しかけて俺は眉をひそめた。試しにノブを回すと、思ったとおり難なくドアが開いた。

「……若尾?」

 答えはなかった。胸騒ぎを覚えながら壁のスイッチに手を伸ばす。

 光に目が慣れるまで、しばらく時間がかかった。それから俺は思わず目をつぶった。

 部屋の中は惨憺たるありさまだった。扉という扉は開け放たれ、抽斗はすべて引き抜かれて、中身が床にぶちまけられていた。台所を通って奥へ行くと、残る二部屋も同様に荒らされていた。

 倒れた本棚の近くに、血液らしい赤黒い汚れが飛び散っていた。若尾の姿はどこにもない。

 呆然としてしゃがみこんだとき、タイミングを見計らったように電話が鳴った。

『やあ、小林くん』

 朝倉亮一だった。

『話があるんだ。今から出てきてくれないか』

「……朝倉さん」

 俺は答えを半ば予想してきいた。

「若尾を知りませんか?」

『彼ならここだ』

 陰鬱な笑い声が聞こえた。

『見せてもらったよ、あの目……生きているうちに会いたかったら、早く来るんだな』


 指定されたのは、大学の裏手にある取り壊し中の木造家屋だった。

 玄関の引き戸を開けると、月明かりに照らされて、コンクリートのたたきに黒っぽい染みがついているのが見えた。

 奥は真っ暗だった。懐中電灯を持ってこなかったことが悔やまれたが、取りに戻る時間的余裕はないように思われた。俺はライターを取り出して火をつけた。

 滴り落ちたような染みは、たたきから奥へ向かって点々と続いていた。俺は土足のまま上がりこみ、ライターの火を頼りに恐る恐る歩を進めた。

 生臭い臭いが立ちこめていた。血痕――もう疑う余地はなかった――に導かれて一枚の障子の前にたどりついた俺は、嫌悪感に思わず顔を歪めた。目の高さのところに、まだ乾いていない赤い手形がなすりつけられていたからだ。

 朝倉の悪意を感じた。

 俺は呼吸を整え、思い切って障子を開けた――。

「うぐっ……うっ……!」

 取り落としたライターを拾い、震えながらもう一度目の前にかざす。

 口を半ば開いた蒼白な顔が、どんよりした目を俺の方に向けていた。

 杏子だった。

 杏子は壁にもたれ、膝を崩すような格好で座っていた。

 心臓をひと突きにした鉄パイプが背中まで貫通し、彼女の体を後ろの壁に縫いつけていた。


 俺は声にならない悲鳴を上げて部屋を飛び出した。

 倒れるように這いつくばって空えずきをした。吐き気がおさまると、その場に座りこみ、両手で顔を覆ってすすりあげるように身震いした。

 ――さよなら――。

 あの言葉の意味を、やっと理解した。

 俺が気を失っているあいだに、杏子は朝倉に呼び出されたのだ。そのときすでに、彼女はこうなることを覚悟していたのだろう。

 頭が麻痺してしまったようで、何の感情も湧かなかった。

 それからはっと気付いた。

 そうだ、若尾は?

 俺は慌てて立ちあがると、半狂乱になって若尾を探しまわった。

 一階には見当たらなかった。二階に上がったところでライターのオイルが切れ、俺は暗闇の中を手探りで進まなければならなくなった。

 奥の方の部屋から、月明かりが細く漏れているのが見える。何度もつまずきながらようやくたどりつき、立て付けの悪い戸を力任せに開いた俺は、勢い余って部屋の中に転がりこんだ。

 危うく心臓がとまるところだった。

 ジーンズをはいた二本の足が目の前にぶらさがっている。

 ゴーッと列車の走るような音が頭の中に響いていた。

 俺はそろそろと目を上げ、次の瞬間、ほっとしてへなへなとしゃがみこんだ。

「……若尾……」

 首吊り死体でなくてよかった……!

 若尾は両手首を縛られて天井の梁から吊るされていた。

 俺は立ちあがり、彼の顔にそっと手をやった。温かい息が指にかかった。

 梁にかかったロープの先を目で追うと、床柱のような柱に結びつけてあるのが見える。俺は迷わずそちらへ向かった。

 と、その首に、いきなり冷たい物が押しあてられた。

「待ってたよ」

 背後から俺の髪をつかんで朝倉が言った。

「で? きさまはいったい何なんだ? 狼男か、それとも……」


 風の唸るような音に加えて、ぱちぱちと何かが弾ける音がしていた。

 俺は鼻をひくつかせ、重い目蓋を引きはがすようにして目を開いた。

 頭が痛い。手をやるとぬるりとしたものが触れた。両肘をついて何とか体を起こす。

 部屋の外が何やら明るかった。戸口の方まで這いずっていって、俺は息をのんだ。

 火事だ。

 俺は立ちあがって階段に駆け寄った。

 階下はすっかり炎に包まれていた。オレンジ色の炎に先行して、密度の濃い煙が階段を這いのぼり、足元まで漂ってきていた。

 身を翻して元の部屋に戻った。柱に巻きつけられたロープの結び目にとりつくと、爪が剥がれそうになるのもかまわずしゃにむに解き放った。

「若尾!」

 手首のロープをほどきながら呼んだが、若尾は答えない。

「若尾! おい、若尾!」

 何度か頬を叩くと、ようやく顔を歪めて薄目を開いた。

 瞳孔のまったくない、黄色の目が姿を現す。朝倉の言っていた〈目〉だ。

 若尾はしばらくぼんやりしていたが、急に目をぱっちり開いて俺の顔を見つめた。

「……小林?」

「しっかりしろよ! 火事だ! 起きろ!」

 若尾はいぶかしむようにあたりを見回した。煙がすでに部屋の中にまで侵入してきている。

 俺は若尾を支えながら窓の方へ行った。外からのほうが火の回りが速いようだった。俺は炎に顔をあぶられ、煙に咳きこみながら後ずさりした。

 階段はもう火の海だ。どうしたらいい?

 ふいに若尾が手を伸ばして俺の額に触れた。とたんに火勢が弱まり、煙が退いた。

「言っておくけど」

 若尾がかすれ声で言った。

「感じないだけだ。ぐずぐずしてたら丸焼けになるぞ」

 彼の持つ不思議な能力の一つだった。催眠術のようなものといったらいいか、彼は人の感覚をある程度操作できるのだ。

 俺は若尾を先に送り出し、自分もあとを追って窓から飛びおりた。

「い……っつう……!」

 足首をひねってうずくまったが、すぐに立ちあがって若尾を助け起こす。二人でもつれあうように火から離れ、ようやく安全と思える場所まで来ると地面に倒れこんだ。

 顔を上げると、若尾が片膝をついて建物の方を見つめていた。つられて俺も振り返った。

 今や炎は建物全体をのみこみ、得体の知れない生き物のように咆哮を上げてのたうちまわっていた。黒いシルエットになった建物は、まるで巨大な棺のようで、やがてゆらりと傾き、炎の中に崩れ落ちていった。

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