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「いいかげんにしてください! なんにも知らないって言ってるでしょう?」
突然耳に飛びこんできたヒステリックな声に、若尾と俺は思わず足をとめた。
正門の前で、二人の人物がもみあうようにしている。一人は三十歳前後の見知らぬ男、もう一人は、語学の講義でよくいっしょになる女子学生だ。名前は確か、杉本杏子という。
「おおい」
「どうかしましたか?」
俺たちが足早に近付くと、男は怯んだように振り返った。そのすきに杉本杏子は、相手の手を振り払って俺たちの後ろに駆けこんだ。
「何なんですか、あなた」
俺は杏子をかばって男を睨みつけた。
「いや、私は……」
「痴漢よ!」
男の言葉を遮って杏子が叫んだ。
「いきなり変なことしてきたの!」
「へえ」
若尾はおもしろそうに杏子をちらりと見てから、ゆっくり男に向き直った。
「それは……」
「いや、違うんです! 私はただ、話を聞こうと……」
男は両手を振って弁解しようとしたが、形勢不利と見てとったか、徐々に後ずさりして最後にぱっと身を翻した。
「すみません! 失礼しました!」
慌てふためいて逃げていく男の姿が見えなくなると、若尾と俺は申し合わせたように杏子の方を向いた。
「それで?」
若尾が言った。
「ほんとは何だったわけ?」
「ごめんなさい」
杏子はぺこりと頭を下げた。
「ありがとう。助かりました」
それから落ち着きなく俺たちの顔を見比べ、
「あの……今日はどうしても時間がないの。説明はこんどゆっくりさせてください。ごめんなさい、ほんとに」
慌ただしくそれだけ言うと、杏子はバス停に向かって走り去った。
取り残された俺たちは、唖然として顔を見合わせた。それから若尾が肩をすくめ、それを合図に俺たちは再び歩きはじめた。