来訪者
少女は、夢を見ていた。
少女にとってそれは、見慣れた夢だった。
分類でいえば、悪夢に入る。その悪夢は、かつて実際に見たものだった。
いわば、トラウマの記録映像を再生しているのだ。
少女にとって忌まわしいことに、その悪夢はいつ見ても現実である。
血の匂いも、淡い思いを抱いていた近所のお兄さんの腕が足元に飛んできたことも、両親の悲鳴も。
最後は決まって、たった1人で彷徨い、行き先さえ分からず涙するところで終わる。
今回もそうで、とても鮮明な感覚とともに、目が覚める。
「また、あの夢……何度目かしら」
少女は、起きたばかりにもかかわらず、疲れた表情で呟く。
髪の色は黒。瞳も黒。ただ、肌は白い、とても、白い。
切れ長の目に、今は感情の色はない。忌まわしい悪夢といえど、見慣れすぎてしまったからだ。
彼女はその夢の中で、1つおぞましいものを見ている。
それを彼女は探している。一度、すべてを喪った日からずっと。
「変な時間に目覚めたのかしら」
窓から差し込む光は、まだ弱く、早朝だということを示している。
時間も明るさも中途半端で、彼女はここからどうすべきか思案する。
すぐにすることは決まる。これまでも何度も、こんなことがあったからだ。
「書類整理をしよう」
少女は、同じ小屋で寝ている他の少女を起こさないように着替えると、粗末な小屋を出た。
華奢で腕力に乏しい彼女は、自らの所属するレジスタンスで専ら事務的な仕事をしているが、来るときに備えて、自主的に鍛錬はしていた。
過去形なのは、すぐに彼女がそれは無理だと悟ったからだ。弓は絞れないし、剣は重くて持てない。勿論、斧も、槍もだ。
結局彼女は、それよりも頭脳労働の方を極めることにしたのである。彼女の目的は、自身の手でそれにトドメを刺すことであるからだ。
生け捕りにして、自らトドメを刺す。彼女の青写真だった。
幸い、彼女は聡明で、書物を読めば読むほど、知識は増える一方だったし、それを知恵として使う術にもたけていた。
少女は敷地を歩く。目指す仕事部屋はここから2、3分ほど歩いたところにあるからだ。周囲には、彼女の寝ていたような些末な小屋が、無数にある。
ほとんどすべて、レジスタンスのメンバーの就寝場所だ。拠点とはいえ、外から見れば、ただの集落にしか見えない。
森に囲まれたこの地は、確かに元集落である。それは、彼女の故郷にも似ている場所だ。彼女もまた、静かな集落の生まれだった。
「何の音かしら」
この時間と言えば、鳥のさえずりくらいしか音はしないものである。
ところがどうだ、今は確かに音が聞こえる。よくよく聞けば、人の足音だ。
誰かほかにも起きているものがいるのか、と少女は考えた。
「僕に、食べ物を分けてくれ」
唐突に、声がした。少女は初め、それが自分に向けられたものだとは思わなかった。
自分へ向けられたものだと理解したとき、声がした方を振り向いた。男だった。
無造作に眉のあたりで切られた銀髪に、黒く鋭い目。背は高くはないが、がっしりとした体つき。
いわば、戦力になりそうな男ではある。歳は、少女と同じくらいだと見える。
本来ならば、とりあえずは話を聞いてみるのが上策だ。レジスタンスとしては、若い男は1人でも多く欲しいのだから。
ところが彼女は、この男に、なにかとても嫌な感覚を抱いた。
「…………」
「答えは?」
「却下、ね」
灰色の髪の少年は、肩を竦めて、なぜかな、と聞く。
「信用できないの。貴方が」
「信用?」
少年は、疑問で答えた。
それは、何か難解な専門用語にでも出くわしたかのような疑問形だ。
少女は、不信を強める。
「スパイかもしれない、ってことよ」
「ふうん。そう。お腹空いているから、ご飯食べさせてってだけなのに」
友人に語るような、軽い口調。
だが、軽いのは口調だけだ。いかなる感情も、こめられてはいない。
「まあそれなら、ここにいる人、食べるだけだ」
先ほどと全く同じ口調で、そういい始める。
別に、殺気など出していない。相変わらず感情すら見えてこない。
それでも少女は、危険、と判断した。本能の警告だ。
「貴方は、何者?」
努めて冷静に、少女は聞いた。
その問いに、相も変わらず灰色の瞳をただ少女に向けている少年は答える。
鳥のさえずりも、木々の囁きも、いつの間にかやんでいた。
「ヴォウフ。ヴァンって呼ばれてる。狼のアニム、さ」
「アニム……! あなた、アニムなの」
少女はその言葉を、何より嫌悪していた。
アニム。それは一般的には、数年前より目立つようになった獣人のことを言う。
普段の外見は人間と変わらないが、戦闘時には半人半獣となる。その力は圧倒的で、並の人間では勝機などない。
孤立させて、罠にかけ、袋叩きにしてようやく仕留められるようなものだ。
レジスタンスにもアニムはいるが、その多くは王軍に所属している。
レジスタンスに所属するアニムはわずかだし、何より脱走兵程度のもので、比較にならない。
それでも貴重な戦力ではある。だが、彼女はどうしてもそれを認められなかった。
彼女にとってアニムとは、自らの全てを奪った仇敵なのだ。その存在を認められない。
レジスタンス所属のアニムとすら、言葉を交わしたことはなかった。
それに――狼と来た。彼女のすべてを奪ったアニムは、彼女の記憶ではまぎれもなく狼なのだ。
「それで、返事は?」
彼女の憎悪などまるで気が付いていないかのよう――もしかしたら本当にわからないのかもしれない――にヴァンは重ねて聞く。
彼女は今、理性と憎悪とが葛藤していた。今ここで断れば、恐らく本当にヴァンがこの場を蹂躙する。
分かってはいても、憎悪がこみ上げる。それでも彼女は聡明である。その聡明さは今、いらぬほどの負担を彼女の心に強いていた。
脳裏に繰り返される悪夢。両親の血。友の泣く声。無造作に飛ばされる、慕っていたお兄ちゃんの首。
その全てがこの男の行為かもしれないと思うと、憎悪せずにはいられなかった。
そしてそれが、自分の返事1つで繰り返されるかもしれない。彼女の精神は、ギリギリのせめぎ合いに軋みを上げる。
拳が震える。肩が震える。唇を噛み、呪詛の言葉を抑える。
俯いた彼女を見て、ヴァンは至極簡単に告げる。
「分かった。"自力"で食料を求めるとするか」
そっけなく、それでいて凶悪な最後通牒。
「待って」
動こうとしたヴァンを、彼女は呼び止める。呪詛と憎悪と嫌悪と衝動との暗黒を無理に抑えた震えた声。
それでも彼女の理性は、破滅的な暗黒を抑えている。普段知性的な瞳の色は、輝きを失っていてもだ。
奇跡に近い事だった。ヴァンが足を止めたのは、その奇跡に対する対価かもしれない。
「食事、用意する」
一切、ヴァンの方を見ずに告げる。今の彼女に、言葉を紡ぐ以上の行為は、できるはずもない。
それを無礼だ、と咎める者もいるだろうが、ヴァンはそんなことなど気にしない性質だった。
「そうか、ありがとう。君の名は?」
「私、私は……クリス。クリスティナ・ユキハラ」
黒髪の少女クリスは、結局、狼のアニム、ヴァンの灰色の瞳を見ることなく、その名を告げる。
クリスは、それ以上ヴァンと話し続けるのは耐えがたくなり、事情の説明がてらリーダーのもとへ赴いた。
ここのレジスタンスのリーダーは、名をグラムロ・アーチボルトという。
グラムロは王都の生まれであり、その中でも有力な貴族の家であった。
そんな彼が全てを保証された自分の家を捨て、出奔し、レジスタンスのリーダーとなるに至ったには、様々なうわさが飛び交ったのだが、結局彼自身が語ったただ愉しみのために人々を押さえつける貴族が嫌になったことが理由とされている。
クリスはヴァンを置き捨てて集落の中心部にある小屋に向かった。
扉を叩く。グラムロの朝は比較的早い。この時間でも起きていることが多い。そうでなくとも、ノックを繰り返せば起きてくる。
扉から出てきた細身の男――グラムロは、まだ寝巻であった。どうやら起きた直後か、起こされたからしい。
眠そうな表情を見ると、起こされた、が正解であろう。
彼はその特徴的な縮れ髪をくしゃくしゃにかきながら、クリスに問いかける。
「こんな朝っぱらから、どうした?」
実は――と、狼のアニムを名乗るものが、食料を求めやってきたということを話す。
「何ィ、アニムだとぉ!?」
普段滅多に驚かないグラムロだが、この時ばかりは驚きの声をあげる。
すぐさま寝ぼけ眼をさまし、服も着替え、更にレジスタンスの主だったメンバーを呼び集めるようクリスに指示を出す。
「そんな時間は、恐らくありません」
「なぜだ」
「彼、食料を出さなければ、ここの人間を食べるって言ってます」
グラムロは脅しをかけているのか――、と腕を組む。片眉を上げ、思案顔になる。
降伏かと思ったが、そうとも取れない奇妙な態度なうえ、こんな時間というのも意味が分からなかった。
スパイにしてもこんな取り入り方はおかしい。訪問者の言葉に従えば、ここの拠点をまとめて滅ぼせるだけの自信があるということだ。
それならば内偵などと回りくどいことに使われるのは解せない。こんなケース自体が初めてである。
「ともかく、会ってみよう。君はいい、辛いだろうからな」
「ありがとうございます」
クリスにアニムの居場所だけ聞くと、そこに向けてグラムロは足を運んだ。見れば、灰色の空となっている。
噂のアニムは、その空と同じような髪の色をしていた。グラムロのアニムへの第一印象は、正直なところ、なにもない。
空虚そのもの――と感じるほど、何の色も感じられない。身にまとった服やその灰色の髪などが色を認識させる程度だ。
「私はグラムロ・アーチボルト。ここ、レジスタンス"旭日"のリーダーだ」
「さっきの子は?」
「クリスなら、休んでいる」
初めに応対した少女が下がっていても、彼は別に咎めはしなかった。
言葉を聞いてグラムロは、クリスと同じように、とても嫌な感覚を抱く。
それは、クリスと違い明確な色ではないが、本能的な警告による危機感といえるものだ。
背中には、嫌な汗が伝っている。それでも、不思議と少年の色は見えない。何が入っているかが見えない。
「要件は食料を譲ってくれ、ということだけ」
「それはクリスから聞いた」
「なら、早く出してよ」
無礼な言い方だが、グラムロは、それを咎めもせずに食料を差し出すことに決める。
まったくもって力量などが分からないからだ。それに、アニムを味方に引き入れることができるかもしれない、という淡い期待もある。
この世界でそれは、大きな戦力が加わることを意味する。
ヴァンを案内した食堂では、クリスが前もって料理番を起こしておいたために、すぐに料理は運ばれてきた。
好みがわからないため、野菜に肉に魚、ともかく、誰もが食べられそうなメニューを並べる。
成人男性2人分になろうか、という量だ。
それをヴァンは、簡単に平らげる。
「ごちそう様」
席を立ち、そのまま去ろうとするヴァン。それをグラムロは、おい、と呼びとめる。
「何」
「一宿一飯の恩義、という言葉を知らないか」
「恩義、手を貸せと?」
「そういうことだ。アニムの力は正直言って、我々に必要だ」
先ほど出された食事の匂いが立ち込める木造の食堂内で、彼は考える。
顔立ちは端整なだけに、寂れた食堂での思案顔も、なかなか様になっている。
「うん、わかった」
思いのほか、あっさりと承諾される。正直、グラムロは面食らった、と言ってもいい。
「僕からの条件は、僕の食事を保証してくれること」
「それだけか?」
「うん」
条件まであまりに軽い。やはりスパイか、との疑念がぬぐえない。
そもそも目の前の男が、アニムか否かも確認していない。ただ、恐怖を感じさせるだけだ。
人間時のアニムは、ただの人間と区別はつかない。
「君は、アニムなのかね」
「そうだね。でも、この場で確認しない方がいいよ。グラムロの事、食べちゃうかもしれないからね」
食堂であることにかけたか、それとも本気か、冗談か否かもまったくわからない平坦な口調で、そんなことを言う。
良心が云々、などというのは全く見えない。感情すら、あるかどうか定かではないと感じるほどだ。
朝の平穏を知らせるはずの小鳥のさえずりが、不安をあおる。
「……。君の名をまだ聞いていなかったな」
「彼女から聞かなかったの?」
「ああ」
「僕はヴォウフ。ヴァン、って呼んで」
「そうか。改めて、私はグラムロ。よろしく」
その右手を、グラムロは差し出す。同じように差し出された手を握りながら、グラムロは思った。
ヴォウフ。それはこの国、エルファの言葉で、そのまま狼を意味する言葉。それが狼のアニムなど、いくらなんでも単純すぎやしないだろうか、と。