「姫、退職代行です」過労死寸前の第三王女は伝説の暗殺者に麻袋で救出され、隣国へ転職したら永久就職を申し込まれました
「姫、退職代行です」
深夜三時。
窓を割って現れた伝説の暗殺者が私に突きつけたのは、刃ではなく、一枚の退職届だった。
「……殺しに来たのでは?」
「いいえ。救出に来ました」
「申し訳ありませんが、今は少々立て込んでおります。殺害も救出も、予算案の再計算が終わってからにしていただけますか」
「この二日間で、四十分しか眠っていないと聞きました」
「途中で机に突っ伏して、少し気を失いました」
「それを睡眠とは呼びません」
暗殺者は真顔だった。
黒い外套。腰に下げた細身の剣。顔の下半分を覆う布の上から、灰銀色の瞳だけが冷たく光っている。
音もなく国境を越え、王侯貴族さえ仕留める伝説の暗殺者。
《夜帳》のハルヴェン。
吟遊詩人の作り話だと思っていた男が、なぜか私の執務室で労働環境を心配していた。
「こちらへ署名を」
彼が示した羊皮紙には、大きく【退職届】と書かれている。
「私、王女なのですが」
「存じています」
「王族に退職制度はありません」
「先ほど作りました」
「そんな簡単に制度を作らないでください」
「貴女の国では、国王の晩餐会費を捻出するために、騎士団の給与を止める方が簡単なのでしょう?」
私は黙った。
机には、三度計算しても合わなかった今年度予算案が広がっている。
騎士団の装備費。河川工事費。官吏の給与。
必要な金は次々と消え、父上の晩餐会費と、王太子である兄上の愛人への贈答費だけが去年の倍になっていた。
私の名前はティセラ・メルヴァン。
メルヴァン王国第三王女にして、父と兄が投げ出した政務を一人で片づける、便利な王族である。
外交文書から城内の蝋燭の発注まで。
真面目に引き受けているうちに、なぜか全部が私の仕事になった。
食事は冷えた薬草茶と硬いパン。目の下の隈は、そろそろ隣国との国境へ到達しそうだった。
「……私が辞めれば、困る人が大勢います」
「貴女が死んでも、同じ混乱が起きます」
ハルヴェンの声から、冗談めいた響きが消えた。
「違いは、今夜辞めれば貴女が生きていることです」
羽ペンを持つ指が震えた。
救援を待つ村。給与を待つ官吏。擦り切れた装備で国境に立つ騎士たち。
だから辞められなかった。
私が止まれば、すべてが止まると思っていた。
「国を支えることと、国に食い潰されることは違います」
静かな声だった。
命令でも、叱責でもない。
その瞬間、明日の予定を空白のままにしてもよいのだと、初めて思えた。
私は新しい羽ペンを取り、退職届へ署名する。
ティセラ・メルヴァン。
久しぶりに、自分のために書いた名前だった。
「署名しました」
「確かにお預かりしました」
ハルヴェンは退職届を丁寧に折り畳んだ。
「確認します。ここから連れ出されることを望みますか」
戻れば、また朝まで書類を書くだろう。
今度倒れた時、目を覚ませる保証はない。
私は机から手を離した。
「……お願いします。私を、ここから連れ出してください」
「承知しました」
彼が背後から、人一人が入りそうな大きな麻袋を取り出した。
「ちょっと待ってください」
「何でしょう」
「なぜ、そこで麻袋が出てくるのですか」
「城門を通る際、最も発見されにくいので」
外側は粗末な麻布だった。
しかし内側には上質な絹が張られ、底には分厚いクッションまで敷かれている。
「無駄に快適そうなのが腹立たしいのですが」
「長時間労働者は皮膚も弱っていると、医官から報告を受けました」
「そこまで気を遣えるなら馬車を――」
スポッ。
視界が暗くなった。
「少々揺れます」
「まだ予算案が机に残っています!」
「明日からは、貴女の仕事ではありません」
麻袋の中で、私は初めて抵抗をやめた。
ハルヴェンは私を肩へ担ぎ、窓枠へ足をかける。
「では、退職届を提出して帰還します」
その夜。
私の署名入り退職届は、国王の寝室の扉に短剣で縫いつけられた。
目を覚ました父上の悲鳴は、王城の端まで響いたらしい。
◇◆◇
麻袋から出された時、窓の外は明るくなっていた。
私は長椅子に座らされ、湯気の立つ鶏肉のスープを両手で持っていた。
目の前には、金茶色の髪をした若い男がいる。
隣国グレンツ帝国の皇帝、オルディス陛下だ。
私を運んだハルヴェンは黒装束を脱ぎ、濃紺の軍服に着替えて陛下の隣に立っていた。
「まずは謝罪しよう」
オルディス陛下は深々と頭を下げた。
「我が帝国衡務院長官が、かなり刺激的な方法を取った」
「長官?」
「諜報、汚職調査、要人保護を担う部署の責任者だ。優秀なのだが、時々説明より先に窓を割る」
「緊急時でしたので」
ハルヴェンが淡々と答える。
部下ではなく、まさかの責任者だった。
皇帝は一枚の羊皮紙を机へ置いた。
兄上の署名がある。
読んだ瞬間、胃の奥が冷たくなった。
兄は帝都の金融商会から莫大な金を借りていた。愛人への贈り物と、私的な賭博のために。
返済できなくなった兄は、担保として私の身柄を差し出していた。
「……あの馬鹿兄上」
「その感想には全面的に同意する」
皇帝は契約書を手に取り、真ん中から破った。
「違法金融商会を摘発した際に押収したものだ。人間は担保にならない。まして、本人の知らないところで売買されるものでもない」
破られた契約書が机の上へ落ちる。
「この契約書は、メルヴァン側から抗議があれば、その主張を退ける材料にさせてもらう。だが、君を所有するつもりはない」
「では、私はこれからどうなるのですか」
「君が選んでくれ」
陛下は三本の指を立てた。
「メルヴァンへ帰る。帝国の保護下で亡命する。それとも、望むなら我が国で働く」
「帰る選択肢もあるのですか」
「当然だ。君の人生だからね」
戻れば、父と兄は私を執務室へ鎖で繋ぐだろう。
それでも、選ぶのは私なのだと、この人は言っている。
「今すぐ決めなければなりませんか」
「いや。まず眠るといい」
私は思わずハルヴェンを見た。
彼は小さく頷く。
「寝台は隣室です。誰も仕事を持ち込みません」
「本当に?」
「扉の前には俺が立ちます」
「そこまでしなくても……」
「貴女は寝ぼけて執務室を探す可能性があります」
否定できなかった。
「それにしても、ハルヴェン」
皇帝が楽しそうに彼を見る。
「君が一個人の救出をあれほど強く進言したのは初めてだった」
「陛下。緊急性の低い情報を口にしないでください」
「緊急性は低いが、重要そうなのでね」
ハルヴェンは黙った。
灰銀色の目だけが、わずかに気まずそうに私から逸れる。
その理由を尋ねる前に、猛烈な眠気が襲ってきた。
その日、私は十五時間眠った。
途中で何度か目を覚まし、仕事を忘れている気がして飛び起きた。
けれど机の上に書類の山はない。
誰も私を呼ばない。
扉の向こうには、ただ一人分の静かな気配があった。
私は安心して、もう一度眠った。
◇◆◇
十日後。
医官から半日だけの活動許可をもらい、私は皇帝の執務室を訪れた。
「働かせてください」
「もう少し休んでもよいのだが」
「何もしない生活には、まだ耐えられそうにありません」
「正直でよろしい。では採用試験だ」
陛下が三冊の帳簿を机へ置く。
「帝国南部の港で、関税収入が七パーセント減っている。原因を調べてほしい」
「期限は?」
「一週間」
「今日中に終わると思います」
背後でハルヴェンが咳払いした。
「本日の勤務許可は四時間です」
「まだ採用されていません」
「試験中も適用されます」
私は不満を飲み込み、帳簿を開いた。
入港記録。免税倉庫の出納。商会登録簿。
商会名は違うのに、保証人の印章が同じだった。積荷は免税期限の直前に別商会へ名義だけを移され、同じ倉庫を巡っている。
「横領ではありません。制度の穴です」
三冊の該当箇所を並べる。
「七パーセントは対象品目の関税率と一致します。複数の商会を装い、同じ者たちが免税期間を更新し続けているのです。商会の代表者ではなく、出資者と保証人を基準に適用回数を制限すれば塞げます」
オルディス陛下が帳簿を覗き込んだ。
「半年追っていた問題を、三時間で見つけたのか」
「数字は、嘘をついた人間の癖まで残しますから」
「採用だ。衡務院の特命補佐として来てもらいたい」
差し出された雇用契約書を、私は端から端まで読んだ。
年俸。勤務時間。休日。医療費。住居。契約解除の条件。
最後の一文まで確認し、顔を上げる。
「残業には事前申請が必要とあります」
「ああ」
「申請すれば可能なのですね」
皇帝がハルヴェンを見る。
「長官」
「却下します」
「まだ申請していません!」
「顔に書いてあります」
こうして私は、グレンツ帝国衡務院へ転職した。
◇◆◇
衡務院での仕事は、驚くほどまともだった。
仕事には担当者がいる。期限には余裕がある。分からないことを聞けば、誰かが答える。
そして夕方の鐘が鳴ると、本当に皆が帰る。
「ティセラ殿。定時です」
転職して一か月。
ハルヴェンが私の机の前へ立った。
「あと一枚だけです」
「昨日も同じことを言いました」
「昨日とは違う一枚です」
「帰りなさい」
彼は書類を奪わなかった。
代わりに、机の上へ木箱を置く。中には、まだ温かい肉入りのパイが入っていた。
「夕食を取っていないでしょう」
「まだ空腹ではありません」
「昼食も半分残しました」
「見ていたのですか」
「労務管理です」
「監視との違いを文書で提出してください」
「明日の勤務時間内に回答します」
私は仕方なく羽ペンを置いた。
けれど、立ち上がる気にはなれなかった。
「どうしました」
「帰っても、することがありません」
「眠ればいい」
「眠ると、不安になるのです」
口に出してから後悔した。
ハルヴェンは何も言わず、私の向かいの椅子へ座った。
「何もしていないと、父上の声が聞こえる気がします。休んでいる暇があるなら働けと。兄上には、お前にはそれしか価値がないと言われました」
一度口を開くと、止められなかった。
「仕事をしていない私は、ひどく役立たずに思えるのです」
ハルヴェンはしばらく黙っていた。
「働くなと言っているのではありません」
「では、なぜ止めるのですか」
「貴女が明日もここにいるためです」
顔を上げた。
彼はいつもと変わらない、静かな顔をしていた。
「仕事が残れば、明日やればいい。失敗すれば、原因を調べて直せばいい。その責任を貴女一人に背負わせる組織なら、先に組織の方を直します」
「……なぜ、そこまでしてくださるのですか」
ハルヴェンは少し迷ったあと、静かに口を開いた。
「五年前、メルヴァン南部の国境で干ばつがありました」
「覚えています」
王都の倉庫を開き、穀物を南部へ送る計画を立てた。
父上には金の無駄だと言われ、兄上には自分の名で発表するなら許すと言われた。
「俺は当時、その村に潜入していました。国境紛争の調査で」
彼は静かに続ける。
「食糧が届かなければ、村はひと月も持たなかった。俺も任務を捨て、子どもたちを連れて国境を越えるつもりでした」
「救援命令を出したのは兄上です」
「命令書の署名は王太子でした。ですが、添付された配給計算だけ筆跡が違った」
彼の口元が、わずかに緩む。
「貴女は合計を修正する時、七の数字を少し右へ傾ける」
知らなかった。
そんな癖を見ていた人がいることも。
私がした仕事だと、気づいてくれた人がいることも。
「救われた人々は、貴女の名前を知りません」
「必要ありません」
「俺は知りたかった」
灰銀色の瞳が、まっすぐ私を見る。
「だから、貴女が王城で死にかけていると知った時、陛下に救出を進言しました」
「能力が必要だったからではなく?」
「能力も必要です」
即答された。
少しだけ笑ってしまう。
「ですが、それだけなら麻袋の内側に絹は張りません」
「医官の指示では?」
「候補を選んだのは俺です」
「麻袋選びに候補があったのですか」
「最終候補は三種類でした」
「最終候補?」
「最初は五種類でした」
思わず、もう一度笑った。
ハルヴェンは立ち上がり、肉入りのパイを私へ差し出す。
「食べ終えたら、送ります」
「一人で帰れます」
「知っています」
「では、なぜ」
「俺が送りたいからです」
胸の中の計算だけが、どうしても合わなくなった。
その日から、夕方の鐘が少しだけ楽しみになった。
◇◆◇
初めての休日。
私はハルヴェンに連れられ、帝都の市場を歩いていた。
「休日にまで上司と一緒なのは、規則違反ではありませんか」
「今日は上司ではありません」
「では、何なのです?」
ハルヴェンは答えず、焼き菓子の屋台で足を止めた。
林檎と香辛料を薄い生地で包んで焼いた『林檎包み』を二つ買い、一つを私へ渡す。
「先ほどから三軒の店で値札だけ確認し、何も買っていない」
「価格調査です」
「今日は私用です」
「私用で市場へ来た経験がないので、何をすればいいのか分かりません」
「では、練習しましょう。美味しいものを食べ、必要のない物を見て、疲れる前に帰る」
「非効率的ですね」
「休日とは、そういうものです」
林檎包みを一口かじる。
薄い生地が小さな音を立て、その中から温かな林檎と香辛料の匂いが広がった。
「……美味しいです」
「それはよかった」
ハルヴェンが笑った。
任務中の鋭い顔とは違う。
誰かを斬るためではなく、ただ私が菓子を食べる様子を見て笑っている。
「ティセラ」
初めて、敬称なしで名前を呼ばれた。
「嫌でしたか」
「いいえ」
胸の奥が熱くなる。
「もう一度、呼んでください」
彼は一瞬だけ目を見開いた。
それから、私にだけ聞こえる声で呼んだ。
「ティセラ」
夕方の鐘を待ち遠しく思う理由だけは、どれだけ計算しても仕事のせいにはできなかった。
仕事が終わるからではない。
彼が迎えに来てくれるからだ。
◇◆◇
私が帝国へ来て三か月。
メルヴァン王国は、予想どおり混乱していた。
決裁は止まり、官吏の給与は遅れ、父上は不足した財源を増税で埋めようとした。兄上は自分の借金を隠すため、軍の予算にまで手をつけた。
以前の私なら、すぐに戻っただろう。
けれど私は戻らなかった。
私一人が父と兄を支え続けることは、国を救うことではない。腐った仕組みを延命するだけだ。
そんな折、父の妹であり、北部の領地を治めるエレノア叔母様から密書が届いた。
『戻れとは言わない。これは残った王族と諸侯が負うべき責任です。ただし、王太子の不正を証明できる資料があるなら、評議会を動かせます』
叔母様の領地だけは、凶作の年にも餓死者を出さなかった。
私が信頼できる、数少ない王族だった。
私はオルディス陛下へ願い出て、押収された兄の借款記録と帝国内での支出を調べた。数字を追ううち、軍費の流用と架空の外交費が一本の線で繋がった。
証拠の写しを叔母様へ送った直後、メルヴァンから使節団が帝都へ到着した。
先頭にいたのは、兄上だった。
「望むなら、俺が追い返します」
謁見の間へ入る前、ハルヴェンが言った。
私は首を振る。
「いいえ。退職の後始末を、今日で終わらせます」
扉が開いた。
「ティセラ!」
兄は入ってくるなり、私を睨みつけた。
「今すぐ帰国しろ。お前が逃げたせいで、国が混乱している!」
「逃げたのではありません」
私は席を立った。
「退職しました」
「王女に退職などあるものか!」
「退職届は父上のお部屋へ提出済みです」
「扉に短剣で刺すことを提出とは言わん!」
隣に立つハルヴェンが、小さく咳払いした。
「受け取りを拒否される可能性がありましたので、確実に目へ入る場所を選びました」
「お前は黙れ、暗殺者!」
兄が顔を真っ赤にする。
「ティセラ、お前はメルヴァン王家の人間だ。国のために働く義務がある!」
「では、兄上は王太子として、どのような義務を果たされたのですか」
兄の顔が強張った。
私は机の上へ、数冊の帳簿を置いた。
帝国が違法金融商会から押収した融資記録。
兄が王太子の名で重ねた借金。
その返済に流用された軍費。
架空の外交費として処理された愛人への贈答品。
そして、私の身柄を担保として差し出した契約書の写し。
「こちらについて、ご説明いただけますか」
「な、なぜ、それを……」
「私が調べたからです」
使節団の貴族たちがざわめく。
「兄上が私を連れ戻しに来ることは分かっていました。ですから、その前に必要な記録をすべて揃えました」
「偽造だ!」
兄が叫んだ。
「グレンツ帝国が私を陥れようとしている!」
「では、こちらも偽造でしょうか」
ハルヴェンが一通の命令書を掲げた。
数日前、帝都へ侵入したメルヴァンの密偵が持っていたものだ。
私を拘束し、必要なら薬を使ってでも連れ戻せ。
父上の印章と、兄の署名がある。
「帝国領内における衡務院職員の拉致命令です」
オルディス陛下が笑みを消した。
「君たちは、我が国との戦争を望んでいるのかな」
「ち、違う! それは父上が勝手に――」
「兄上」
私は兄の言葉を遮った。
「すべてを誰かのせいにするのは、おやめください」
兄の顔から血の気が引いた。
「父上が悪い。私が悪い。官吏が無能だった。帝国が陥れた。そうやって責任から逃げた結果が、今のメルヴァンです」
「お前が戻れば済む話だ!」
「戻りません」
はっきり言えた。
机の下で握りしめていた私の手に、ハルヴェンの指先がそっと触れた。
けれど、次の言葉は私自身のものだった。
「私は、私を人として扱う場所で働きます」
「家族を捨てるのか!」
「先に私を担保として売ったのは、兄上です」
兄は何も言えなくなった。
使節団の中から、一人の老侯爵が前へ出る。
「王太子殿下」
彼は兄ではなく、帳簿を見ていた。
「軍費の流用について、帰国後に諸侯会議でご説明いただきます」
「何を言っている。私は次の王だぞ!」
「だからこそ、説明していただくのです」
老侯爵は静かに顔を上げた。
「その資格がおありかを判断するために」
兄の表情が崩れた。
帝国へ連れてきた使節団が、その場で兄への支持を取り下げた瞬間だった。
兄が衛兵に両脇を固められ、謁見の間を出ていく。
最後まで、私に向かって「役立たず」「恩知らず」と叫んでいた。
以前なら、その言葉だけで足がすくんだだろう。
今はもう、痛くなかった。
「ティセラ」
ハルヴェンが私の名を呼ぶ。
「帰りましょう。定時です」
謁見の間に、夕方の鐘が鳴り響いた。
私は兄ではなく、彼の方を向いた。
「はい。帰りましょう」
◇◆◇
数週間後。
メルヴァン王国では諸侯会議が開かれた。
父王と兄は、国庫の私的流用、帝国への無断借款、人間を担保とした違法契約、帝国領内での拉致未遂を追及された。
給与を止められていた官吏や騎士たちも次々と証言し、二人を庇う者はいなかった。
父王は廃位され、兄は王太子の地位を剥奪された。
他国へ嫁ぐ際に王位継承権を放棄した二人の姉に続き、私も正式に継承権を放棄したため、王位は地方統治の実績があるエレノア叔母様へ移った。
叔母様は、私が以前作っていた行政改革案をもとに新しい評議会を設け、重要な政務を一人へ集中させることを禁じた。
父と兄は王族としての特権を失い、横領した金を返済するまで王家直轄の採石場で労役に就くことになった。
その日の採掘量と収支を自分たちで記録し、監督官へ提出することも労役の一つだった。
兄が初日に提出した出納帳は、合計が三か所も間違っていたという。
私は修正しなかった。
明日からも、私の仕事ではない。
◇◆◇
「これで、貴女をメルヴァンへ縛るものはなくなりましたね」
春の庭園で、ハルヴェンが言った。
帝国へ来て半年。
私の目の下から隈は消えた。
食事を一日三度取り、夜には眠る。休日には市場へ行き、必要のない物を眺めることも覚えた。
最近では、自分で林檎包みを買える。
「少し寂しいです」
「帰りたいのですか」
「いいえ。あの国で助けたかった人たちを思い出すだけです」
「それでいいと思います。忘れる必要はありません」
ハルヴェンは私の隣へ立った。
春風が、彼の銀灰色の髪を揺らす。
私はそっと、彼の手に触れた。
「ハルヴェン様」
「はい」
「衡務院との契約は、一年ごとの更新でしたね」
「そうです」
「更新していただけますか」
「もちろん」
彼は私の手を握り返した。
「ただし、別の契約についても相談があります」
「別の契約?」
ハルヴェンは懐から、小さな箱を取り出した。
中には、灰銀色の石をあしらった指輪が入っている。
「こちらには、更新期限を設けるつもりはありません」
「随分と長期の契約ですね」
「終身を希望します」
胸の中で、数字が一斉に散らばった。
どれだけ並べ直しても、平静という答えには戻らない。
ハルヴェンは私の目をまっすぐ見つめていた。
「ティセラ。俺は、貴女の能力を尊敬しています」
「ありがとうございます」
「ですが、仕事をしていない貴女も好きです」
息を呑んだ。
「市場で菓子を食べて笑う貴女も、休日の朝に寝坊する貴女も、俺にとっては大切です」
それを自分で信じられるようになるには、まだ少し時間がかかるだろう。
けれど、彼となら信じられる気がした。
「契約条件を伺っても?」
「何なりと」
「週休二日」
「承知しました」
「残業は原則禁止」
「俺にも適用されますか」
「当然です」
ハルヴェンが笑う。
「それから、困った時は一人で抱え込まないこと」
「約束します」
「私より先に死なないこと」
「必ず」
私は指輪を手に取った。
「報酬は?」
「俺の全財産と、残りの人生でいかがでしょう」
「かなりの好条件ですね」
「ご契約いただけますか」
私は左手を差し出した。
「はい。永久就職を希望します」
ハルヴェンが私の指へ指輪を通す。
それから、ゆっくり顔を近づけ、私が目を閉じるのを待った。
唇が触れ、離れる。
遠くで、夕方の鐘が鳴った。
今度は、私の方から彼の手を取った。
もう、麻袋は必要なかった。




