第80話 今は頑張らなくていい
リゼアの肩が大きく震えた。
「今は頑張らなくていいよ」
その言葉だけが静かに響いた。
リゼアは顔を上げられなかった。
涙が止まらない。
嗚咽が漏れる。
肩が震える。
苦しかった。
情けなかった。
惨めだった。
それでも。
今聞こえた言葉だけは理解出来なかった。
「……何よ」
掠れた声だった。
「それ」
カナトは答えない。
急がない。
ただ。
座り込んだリゼアの隣にいた。
それが余計に苦しかった。
怒られた方が楽だった。
失望された方が楽だった。
呆れられた方が楽だった。
でも。
カナトは何もしない。
ただそこにいる。
「頑張らなくていいって」
リゼアは唇を噛んだ。
「そんなの無理よ」
震える声だった。
「頑張らなかったら追い付けない」
レオンに。
理想に。
自分がなりたかった自分に。
「頑張らなかったら置いていかれる」
怖かった。
ずっと。
追い付けなくなることが。
取り残されることが。
価値のない人間になることが。
怖かった。
「だから頑張るしかなかったの」
涙が頬を伝う。
「頑張らなきゃ駄目だったの」
何年も。
ずっと。
誰よりも努力してきた。
それだけは誇れた。
それだけが支えだった。
だから。
やめられなかった。
立ち止まれなかった。
止まった瞬間に。
全部失ってしまう気がしたから。
カナトは静かに聞いていた。
途中で遮らない。
否定しない。
ただ。
全部聞いていた。
「リゼア」
優しい声だった。
「ずっと頑張ってたんだよね」
胸が痛んだ。
言われたくなかった。
認めたくなかった。
でも。
否定出来なかった。
「……そうよ」
小さく答える。
「頑張ったわよ」
震える声。
「頑張った」
涙が零れる。
「頑張ったのに」
喉が痛い。
胸が苦しい。
それでも止められない。
「だったら」
カナトは言った。
「今くらい休んでもいいんじゃないかな」
リゼアの瞳が揺れた。
「休む……?」
理解出来なかった。
今までそんな発想をしたことがなかった。
頑張るか。
もっと頑張るか。
それしかなかったから。
「うん」
カナトは頷く。
「だって、もう疲れたんだよね」
その瞬間だった。
呼吸が止まる。
疲れた。
その言葉だけが胸の奥へ落ちていく。
もっと頑張らなきゃいけないと思っていた。
まだ足りないと思っていた。
でも。
気付いてしまう。
今の自分は。
立っているだけで精一杯だった。
心も。
身体も。
全部。
限界だった。
「疲れて動けなくなるくらい頑張ったんだ」
カナトは続ける。
「だったら今は休んでいい」
リゼアは何も言えなかった。
ただ涙だけが止まらない。
今までなら。
こんな姿は絶対に見せなかった。
弱いところなんて見せなかった。
でも。
もう取り繕う余裕はなかった。
心が限界だった。
「でも……」
リゼアは首を振る。
「休んだら終わりよ」
震える声だった。
「また追い付けなくなる」
怖かった。
止まることが。
立ち止まることが。
休むことが。
何より怖かった。
「リゼア」
穏やかな声だった。
「逃げるのと休むのは違うよ」
肩が僅かに揺れる。
「違う……?」
「うん」
カナトは少しだけ笑った。
「だってリゼアは逃げてない」
「ずっと戦ってた」
「ずっと頑張ってた」
「誰よりも頑張ってた」
リゼアは俯く。
苦しかった。
でも。
その言葉は少しだけ温かかった。
「だから今は休めばいい」
カナトは続ける。
「疲れたら休む」
「泣きたくなったら泣く」
「立ち止まりたくなったら立ち止まる」
そして。
少しだけ強い声で言った。
「でも」
「ーーそれで終わりじゃない」
リゼアが顔を上げる。
「疲れて」
「泣いて」
「休んで」
ゆっくり。
一つずつ。
言葉を積み重ねる。
「そうしたら」
「また立ち上がればいい」
瞳が揺れる。
「前を向けばいい」
夕日が二人を照らしていた。
「そして」
カナトは言った。
「ーーまた頑張ればいい」
その言葉に。
リゼアの胸が大きく揺れた。
また頑張る。
そんなこと。
もう無理だと思った。
「……無理よ」
リゼアは首を振る。
涙が零れる。
「私はもう頑張れない」
それが本音だった。
土砂災害の日から。
ずっと胸にあった言葉。
認めたくなかった言葉。
でも。
もう隠せなかった。
「無理じゃないよ」
即答だった。
迷いがない。
リゼアは思わず顔を上げる。
「今と昔は違う」
カナトは真っ直ぐこちらを見ていた。
「昔はそうだったかもしれない」
「でも」
少しだけ笑う。
「今は違う」
「違うって……」
掠れた声だった。
「何がよ」
「今は僕がいる」
リゼアの瞳が揺れる。
「皆がいる」
脳裏に仲間達の顔が浮かぶ。
笑顔。
呆れ顔。
真剣な顔。
それぞれの表情。
「皆いる」
カナトは言った。
「だから」
「一人で頑張らなくていい」
リゼアは息を呑んだ。
一人で。
頑張らなくていい。
そんな言葉。
今まで考えたこともなかった。
「だから一緒に頑張れる」
カナトは少しだけ笑う。
「背中だって押せる」
「支えることだって出来る」
胸の奥が少しだけ温かくなる。
苦しいだけじゃない。
そんな感覚だった。
「だって」
カナトは言う。
当たり前のように。
迷いなく。
真っ直ぐに。
「ーー仲間だから」
その言葉に。
リゼアの瞳が大きく揺れた。
仲間。
何度も聞いた言葉。
でも。
今は少しだけ分かる気がした。
「仲間だから……?」
確認するように呟く。
カナトは頷いた。
「うん」
「仲間だから」
その声には迷いがなかった。
打算もなかった。
見返りもなかった。
ただ。
本当にそう思っているだけだった。
リゼアは俯く。
涙が落ちる。
でも。
先程とは違う。
胸の重さが少しだけ軽くなっていた。
それでも。
まだ答えは見つからない。
「でも私…」
震える声。
「何のために強くなりたかったのか分からないの…」
長い沈黙が落ちる。
夕日がゆっくりと沈み始めていた。
カナトは少しだけ目を細める。
そして静かに笑った。
「それなら」
優しい声だった。
諭す声ではない。
導く声でもない。
ただ。
隣を歩く仲間の声だった。
「一緒に思い出そうか」
リゼアは顔を上げた。
その言葉は。
今まで誰にも言われたことのない言葉だった。
沈みかけた夕日が。
二人を優しく照らしていた。




