わたくしを殺した騎士様、今世では過保護な騎士団長に再就職ですか?
「……お初にお目にかかります、アイリス王女殿下。本日より貴女様の護衛を務めます、カイル・ブライトです」
謁見の間の冷たい床に、銀の甲冑が触れる硬質な音が響きました。
跪いた少年騎士の首筋、そして絹糸のような銀の髪が、西日に照らされて妖しく光ります。
その姿を目にした瞬間、わたくしは喉の奥が凍りつくような心地がいたしました。
カイル。
わたくしを断頭台へと導き、一切の慈悲なくその首を撥ねた「王の猟犬」。
彼は静かに顔を上げ、わたくしの手を取ると、その甲に額を近づけました。
少年の瑞々しさを残しながらも、剣を握る者の硬いタコがある指先。
それがわたくしの肌に触れた瞬間、あの日、首筋を滑った冷たい剣の感触が鮮明に蘇ります。
(早く、手を離してくださらないかしら……!?)
わたくしは反射的に震えそうになる手を、必死にシルクのドレスを握りしめて堪えました。
今のわたくしは、まだあどけなさが残る十歳の少女。
死の瞬間から七年も遡っているというのに、この身体は「処刑人」の温度を覚えているのです。
ですが、わたくしは決めましたの。
今世は、あの身勝手な王の身代わりになんてなりません。 聖女のような誠実さも、自己犠牲も、すべて処刑台に置いてきましたわ。
わたくしはわたくしのために、この贅沢な王宮で図太く、しぶとく、甘いお菓子を心ゆくまで食べて生き延びてやるのです。
「……よろしくてよ、カイル。精々、わたくしのために励みなさい?」
わたくしは精一杯の虚勢を張り、傲慢に顎を上げました。
引き攣りそうになる口元は、金糸を施した扇で優雅に隠して。
*
逆行してから三ヶ月。
わたくしの「図太い人生計画」は、一人の男によって大きく狂わされておりました。
「殿下、本日の紅茶はアッサムのセカンドフラッシュでございます。そちらの焼き菓子は少々バターが重いようですので、こちらの軽いものに取り替えさせました」
わたくしがテラスの椅子に腰を下ろすより早く、カイルが音もなく影のように現れます。
彼はまだ十四歳。
本来なら騎士団の訓練で土にまみれている年頃ですが、カイルは既に「天才」として近衛の重鎮すら一目置く存在となっていました。
黒を基調とした隙のない近衛騎士服に、白銀の飾緒。その冷徹な美貌は、周囲を寄せ付けない冬の湖のようです。
しかし、わたくしの前に跪く時の彼は、まるで主人に捨てられるのを恐れる大型犬のようでした。
「カイル、あなた……。騎士団の訓練はどうしましたの? 団長がご立腹でいらしたわよ」
わたくしが、差し出されたカシミアのショール――わたくしの瞳と同じ、薄紫色の特注品――を羽織りながら問うと、彼は長い睫毛を伏せ、甘やかな、それでいて重苦しい声で応えました。
「……私の主は殿下、貴女だけです。他の有象無象に割く時間は、私には一秒たりともございません」
その瞳。
碧眼の奥に揺れるのは、忠誠心などという綺麗な言葉では片付けられない、もっと狂信的な「何か」です。
以前の彼は、わたくしを監視する「影」だったはずです。
食事を毒味する時も、寝所の前で控える時も、彼はわたくしを殺した時と同じ、凪いだ湖面のような瞳をしていました。
なのに今世の彼は、どうしてこれほどまでに必死に、わたくしの一挙手一投足を追い、守ろうとするのでしょう。
(まさか……この男も「前回」を覚えているのかしら?)
いえ、ありえませんわ。
もし覚えているのなら、彼はわたくしを殺したことを誇りに思うか、あるいはわたくしをもっと蔑むはず。
だってわたくしは、国を滅ぼしかけた大罪人として処刑されたのですから。
「……カイル。もう少し離れてくださる?」
ふと、彼の指がわたくしに触れようとした瞬間、反射的に身体が強張りました。
体が冷え、視界が断頭台の血の赤に染まります。
カイルの顔が、絶望に歪みました。
「……申し訳ございません。私には、やはり……貴女に触れる資格など……」
彼は膝を突き、その場に崩れ落ちるように頭を垂れました。
その項垂れた背中があまりに脆く、痛々しくて、わたくしは「図太い悪女」であることを忘れ、つい手を伸ばしかけてしまいます。
(いけませんわ、アイリス。この男は、あなたの首を撥ねたのですから)
*
ある日の午後、 中庭を散歩していたわたくしは、庭園の陰で上級貴族の子弟たちに囲まれ、いじめられている下級貴族の少年を見つけてしまいました。
前のわたくしなら、迷わずドレスの汚れも厭わずに割って入ったでしょう。
ですが、今のわたくしは「図太い悪女」志望ですの。
「……見なかったことにいたしましょう。関わったらろくなことになりませんわ」
わたくしは踵を返しました。
ですが、少年の押し殺した啜り泣きが風に乗って届くと、胸の奥が焼けるように疼くのです。
「殿下?」
「……カイル。あの子たちの騒ぎ声、耳障りですわ。静かにさせてきなさい。……あ、暴力は禁止ですわよ。わたくしのティーセットからお菓子でも差し上げて、お家に帰しなさいな」
結局、わたくしは一番のお気に入りだったジャム入りのクッキーを、カイルに託してしまいました。
カイルは一瞬、目を見開きましたが、次の瞬間、氷が溶けるような――あまりに慈愛に満ちた、とろけるような笑みを浮かべました。
「……承知いたしました。殿下は、本当にお優しい」
「勘違いしないで頂戴。静寂を愛しているだけですわ!」
カイルが去った後、わたくしは一人で深く溜息をつきました。
本当に、一度死んだくらいでは、このお節介な性質は治らないものらしいですわ。
すると背後から、優しげな声がいたしました。
「相変わらず優しいね、アイリス」
現れたのは、第一王子。
わたくしの兄であり、逆行する前の生で王と共にわたくしにすべての罪を擦り付けた人物です。
父王の歪んだ期待を背負い、わたくしを「便利なスケープゴート」として利用し尽くした男。
「……お兄様。お久しぶりですわね」
「ああ。……ところで、あの護衛だけど、女性騎士と入れ替えるのはどうだろう?お前は王宮にいるのだし、そこまで手厚い守りも必要ないだだろうからね」
兄が幼子に言い聞かせるように優しく語りかけると、わたくしの肩を、そっと掴みました。
その瞬間、全身の血の気が引き、呼吸が止まります。
前の記憶――。
「すべては王家のためだ、アイリス。美しく散ってくれ」と、わたくしの耳元で囁いた兄の冷たい笑顔。
「あ、あ……っ」
恐怖で喉が引き攣れ、声が出ません。
その時、空気が爆ぜるような鋭い殺気とともに、銀色の閃光が走りました。
「――殿下に、触れるな」
低い、地獄の底から響くような声。
気づけば、カイルが兄の手首を万力のような力で掴み上げていました。
ミシリ、と生々しい音が静寂に響きます。
「貴様……っ! 近衛の分際で、私に何を……ぐっ!」
「次はありません。たとえ王族であっても、殿下に許可なく触れる者は、私がこの手で処理いたします」
カイルの瞳からは、一切の光が消え去っていました。
それは、わたくしが知っている、あの「処刑人」の無機質な瞳。
兄は恐怖に顔を青ざめさせ、手首を押さえて逃げるように去っていきました。
「……殿下。お怪我はございませんか」
振り返ったカイルは、先ほどの魔王のような気配が嘘のように、濡れた仔犬のような瞳でわたくしを見つめています。
わたくしは、震えを隠すことができませんでした。
「……恐ろしいわ、カイル。あなたも、あいつも、みんな……」
思わず本音が漏れました。
カイルは幽霊のように真っ白な顔になり、それからゆっくりと、わたくしの前に膝をつきました。
「……仰る通りです。私は、貴女を怯えさせる怪物でしかない」
カイルは自嘲の笑みを浮かべ、腰の鞘から剣を抜くと、柄をわたくしに差し出し、その切っ先を自らの喉元に当てました。
「……もし、私を消し去りたいとお望みなら、今ここで、この喉を貫いてください。貴女の安らぎのためなら、私は喜んで地獄へ参りましょう」
(――狂っていますわ。この男は、本当に)
この男は、本気です。
わたくしを殺したはずの男が、今はわたくしのために死のうとしている。
その歪な愛の形に、わたくしは混乱し、そして――。
「……バカ仰いな。死ぬなら、わたくしのために働いてから死になさい」
わたくしは彼の剣を、震える手で押し戻しました。
ここで彼に死なれては、わたくしの「図太い人生」が台無しですもの。
カイルは呆然とした後、堰を切ったように、大粒の涙をポロポロと零しました。
「……はい。……はい、アイリス様。どこまでも、お供いたします」
*
平穏な時間は、砂時計のようにあっという間に過ぎ去りました。
カイルは順調に剣の腕を磨き上げ、ついに騎士団長の地位につきました。
わたくしは17歳になりました。前回処刑された時と同じ年です。
そんな中、ついに王が、隣国との外交紛争の責任を再び「王女アイリス」に擦り付け、民の怒りを逸らそうと画策し始めたのです。
前と全く同じ、醜悪な保身の構図。
ですが、今世のわたくしはもう、大人しく生贄の羊にはなるつもりはありませんの。
*
「カイル、準備はよろしくて? わたくしたちはこの腐り果てた国を捨てますの。……と言いたいところですが、まずはあのクソ親父――父様の隠し金庫から証拠を押収して、再起不能にして差し上げますわ」
深夜の執務室。
わたくしは不敵に笑い、隠し扉を開きました。 前回の生で、幽閉中に偶然知った王家の醜聞、裏帳簿、汚職の証拠。
すべてを白日の下に晒し、王と兄を徹底的に叩き潰す。
それがわたくしの復讐です。
しかし、わたくしは王の執務室で、思いもよらない「記録」を見つけました。
それは、禁忌の魔術「呪縛の枷」に関する研究日誌。
そこには、王がカイルに施そうとした処置が記されていました。
『カイル・ブライトは王女に対し忠誠以上の情念を抱いており、王の影として不適格。よって、時期がくれば精神を破壊し、肉体のみを操作する「傀儡の術」を施す。本人の意識は闇に沈み、ただ命令を遂行する機械となる――』
「……なんですの、これ……っ」
紙を握りしめる手が、怒りと悲しみで震えます。
今世の父も、前回のあの男も、全く同じことを考えていたのです。
カイルの心を壊し、その忠誠心を利用して、愛する者をその手で殺させるという、悪魔の所業を。
私の背後に、影が落ちた。
「……ご覧になりましたか」
カイルの声だった。
彼は逃亡の準備を終え、私の背後に立っていました。
その顔は、今までに見たことがないほど、悲しげに歪んでいます。
「……私は、アイリス様を殺しました。意識がなかろうと、術に操られていようと、この手で貴女の首を刎ねた。……今の私がどれほど貴女に尽くそうと、私は一度、貴女のすべてを奪った怪物なのです」
カイルは絞り出すような声で続けます。
「あの日、アイリス様を手にかけた直後……。王の呪縛が解け、私は自分の犯した罪を知りました。自分の心臓を貫き、薄れてゆく意識の中で、私は己の魂に呪いをかけました。もし次があるのなら、この罪を、後悔を、魂に刻んだままにしてくれと。……貴方を殺した記憶を忘れることなど、私には許されないからです」
(――ああ、そうだったのですわね)
彼はすべてを覚えていたのです。
自分がわたくしを殺し、その直後に正気に戻り、絶望の中で自害したことも。
彼は「自分が操られていた」という免罪符すら、自分に許していなかった。
己の意志が介在しなかった事実よりも、その手がわたくしを傷つけたという結果を、彼は今まで、苦しみながら抱え続けてきたのです。
「……だから今世は、貴女に嫌われようと、怯えさせようと、死ぬまでお守りすると決めたのです。貴女を二度と、あんな場所へ行かせないために」
カイルは私の足元に跪き、震える声で告白しました。
「……存じておりますわ」
「……え?」
カイルが呆然と目を見開きます。
私は扇で口元を隠し、以前の出来事を思い出しました。
「以前、あなたが訓練の後に汗を拭っていた際……見えてしまいましたの。あなたの肌に浮かび上がった、引き攣れたような禍々しい入れ墨の跡。……消えかけていましたけど、あれは、精神を縛る強力な服従魔術の痕跡でしょう?」
私は彼の驚愕を無視して続けます。
「あんなもの、自分の意思で刻むはずがありませんわ。だから、わたくしは疑っていたのです。あなたは前回、自分の意思に反して操られていただけなのではないか。そして今、こんなにもわたくしを過保護に愛でているのは、記憶があるからではないか、と」
カイルは絶句していました。
「カイル。前回のあなたは、王の道具でしかなかった。けれど、今こうして自らの魂を呪ってまでわたくしの前に跪いているのは、あなた自身の意思ですわ」
私は、彼の銀に輝く髪をそっと撫でました。
彼が抱える記憶の重さは、私一人のそれとは比べものにならないほど、暗く、重い。
でも、その重さの正体は、すべて私への「愛」なのだと知ってしまったから。
「カイル。これからは、二人で分け合いましょう。その地獄も、罪も。……それから、わたくしがこの後食べる、夜食のフォンダンショコラのカロリーも、ね」
「……殿下。最後のは、さすがに遠慮させていただきます」
ようやく、彼に少しだけ笑みが戻りました。
*
王の執務室。
そこに漂うのは、前世でも嗅いだ、古びた紙と隠蔽の臭い。
「アイリス、これは必要な犠牲なのだ。隣国の怒りを鎮めるには、王族の血で贖うしかない」 王は、前世と寸分違わぬ台詞を吐きました。
わたくしの誠実さを信じ、利用し、使い潰そうとする冷酷な響き。
しかし、わたくしは優雅に扇を広げ、その影で唇を吊り上げました。
「お父様、わたくしはもう、身代わりの生贄になるのは御免ですの。……カイル」
影から現れたカイルの手には、大量の書簡が握られていました。
それは、王が保身のために敵国と交わした密約の証拠。そして、王子が密かに他国へ流していた軍事機密の控え。
隠し金庫から奪ったもの、そして逆行してからカイルが命を賭して集めてきた「真実」の断片でした。
「な……っ、貴様、どこでそれを!」
兄が逆上し、剣を抜こうとした瞬間。
カイルの剣が、電光石火の速さで兄の喉元に突きつけられました。
「動くな。……私は、この方を傷つける者を、二度と、許さない」
その瞬間、カイルの全身から凄まじい魔力が溢れ出しました。 彼の瞳が、深い青から紫がかった禍々しい色へと変色します。
それは、彼が前世で王にかけられていた「呪縛」を、自らの精神力でねじ伏せ、力として取り込んだ証でした。
「アイリス様、下がっていてください。……ここからは、私の仕事です」
*
クーデターは、一晩で決着しました。
カイルが事前に根回ししていた騎士団が王宮を制圧し、汚職に手を染めていた王と兄は地下牢へと入れられました。
嵐が去った後のテラスで、わたくしは夜風に当たりながら、隣に立つカイルを見上げました。
「これで、終わりましたのね……」
カイルはゆっくりとわたくしに向き直り、その場に静かに膝をつきました。
それは護衛としての礼ではなく、一人の罪人としての懺悔の姿でした。
「王の呪縛魔法で意識を奪われていたとはいえ、貴女に刃を向けたのは、この手です。……私は、貴女の恐怖そのものだ。殺してください。今度こそ、貴女の手で」
カイルは、子供のように泣いていました。
わたくしの体が震えるのは、恐怖からではありません。
彼の絶望があまりに深く、純粋で、痛かったからです。
わたくしは、ずっと怖かった。
でも、今の彼が浮かべている表情は、あの無機質な「処刑人」とは正反対の、愛に狂った一人の男のものでした。
「……確かに、あなたのことは許せませんわ」
わたくしは彼の手を、あえて強く握りしめました。
「だから、一生をかけて償いなさい。わたくしが天寿を全うし、図太く長生きして、満足して眠りにつくその瞬間まで。わたくしの隣で、怯えながら守り続けるのです。……それが、わたくしがあなたに下す罰ですわ」
カイルは目を見開き、それからわたくしの手の甲に、祈るように唇を寄せました。
「……御意のままに。私の魂は、永遠に貴女のものです」
*
それから数年。
私は「女王」として即位……などという面倒なことはせず、信頼できる親族に政権を預け、悠々自適な生活を謳歌しておりました。
「アイリス様! そのケーキは糖分が多すぎます。まずは私の作った、消化を助けるハーブティーをお飲みください」
「もう、カイル。わたくしは甘いものを食べるのが生き甲斐と言っても過言ではありませんのに」
カイルは、今や「史上最強の騎士団長」として国内外に名を轟かせていますが、わたくしの前では相変わらず、少しでもわたくしが躓けば世界が滅びるかのような顔をして駆け寄ってきます。
かつて彼に首を撥ねられた記憶は、もう悪夢には現れません。
代わりに、夜中にふと目を覚ませば、寝室の扉の前で微動だにせずわたくしを守る、わたくしの騎士の気配があります。
「カイル、中に入ってきなさい。外は冷えますわ」
「……滅相もございません。私は影です。寝室に入るなど……」
「これは命令ですわ。……わたくし、少し寂しいのです」
そう言うと、彼はおずおずと部屋へ入ってきます。
わたくしの隣で、大きな体を縮めて座る彼。
その手を、今度はわたくしから絡めました。
「前よりもずっと、今の方が幸せですわ。……ありがとう、カイル」
カイルは一瞬、泣きそうな顔で微笑みました。
「私もです。……愛しています、私の小さな女王様」
今世のわたくしは、もう誰の犠牲にもなりません。
これからは、世界で一番過保護で、世界で一番不器用なわたくしの騎士と一緒に、どこまでも図太く、幸せになってみせますわ!




