気に入った人を片っ端から『私のモノ』と宣言する料理人を雇ってしまった
国境線の近くに位置する辺境領主の館。
そこに料理人兼侍女見習いとしてやってきた少女――エリーは立派な門をくぐるなり、目を輝かせてこうつぶやいた。
「今日からここが私のお館……!」
――もちろん、断じて彼女のモノではない。
彼女は一介の使用人である。
だがエリーの脳内ではすでにこの広大な屋敷は自身のモノになっていた。
アヴァリティア王国の王都はきらびやかだ。
だからこそ誰もが王都に行きたがり、辺境の領地は慢性的な人手不足だ。
国境近くを治める領主――フィリップの館も例外ではなく、その運営は常に綱渡りだった。
そんなある日、悲劇が起きる。
御年九十歳の料理長が自身の作ったスープの出来栄えに感動し、腰を抜かして歩けなくなってしまったのだ。
……本当に、たったそれだけの理由で館の食卓はあっけなく崩壊した。
慌てて募集をかけたところで、優秀な料理人がひょっこり現れるような都合のいい辺境ではない。
フィリップは侍女が作った『塩を溶かしただけのスープもどき』とパンを、死んだ魚のような目でもさもさと咀嚼する日々。
そんな限界ギリギリの領主の元へ、ついに「私、料理ができます!」と名乗り出た歳若い娘――エリーがやってきたのだ。
エリーはそれまで祖父と一緒に森の中で平和に暮らしていた。
しかし、つい先日その祖父が大往生した。
一人になった途端に知らない人たちがやってきて、家を取り上げられてしまったのだ。
おじいちゃんが死んで悲しい。家もなくなって悲しい。
けれど彼女の口から最初に出た言葉は「絶対に返してもらうんだから!」だった。
でも、まずはお腹が空いたので、一番近くにあった辺境の街に職を求めてやってきた。
取り返すのはご飯を食べてからでも遅くない。
「おじいちゃんが言ってた。『寂しいときは誰かのためにご飯を作りなさい。胃袋を掴んだらお前の味方にできるから』って!」
祖父の不思議な教えを胸に、エリーは館へと踏み入れた。
「まあ素敵な館! この館は全部……いや、この館の厨房は全部私のモノね!」
などと言う怪しい娘が屋敷に入る。
館の厨房、と言い換える程度にはエリーも常識を持っているのだ。
どう見ても胡散臭い娘だ。
だが「まあ試してやろう」と妥協してしまうほど、フィリップは塩水をすするような食事にはもう心底嫌気がさしていたのだ。
かくして、背に腹は代えられない領主は怪しい小娘を厨房へと迎え入れた。
これが、のちにフィリップの人生を大きく変えることになる小さな娘との出会いだった。
◇
エリーの料理の腕前は確かなものだった。
厨房に通してみたはいいものの、残っているのは最低限の調味料とカチカチのパンのみ。
あの料理長が腰を抜かして引退して以来、食材の仕入れもまともにできていない悪条件だった。
だがエリーは、余り物のパンを煮て油と塩で味を調えただけの一皿を魔法のように錬成してのけた。
たったそれだけの材料なのに、信じられないほどの絶品だった。
「おお……試した甲斐があったというものだ」
フィリップは素直に感嘆の息を漏らした。館の侍従たちや文官たちも歓喜した。
ついに塩スープとパンの日々が終わったのだ。
当のエリーは「全部私が食べる!」などとフィリップより先に勢いよくがっつき始めた。
しかし、フィリップの十分の一も食べないうちに「もうお腹いっぱい……」と悲しそうな顔をした。
本当に、心の底から悲しそうなのだ。
まだ食べたいのに身体がついていかないらしい。
「私、食べるのは大好きなのに……すぐにお腹がいっぱいになっちゃうの」
エリーはスープ鍋を恨めしそうに睨みつけた。
聞けば祖父のガサツな料理ですぐ満腹になるのが悔しくて、美味しいものを一口でも多く食べるために料理を覚えたのだという。
すぐに満腹になるくせに、全部食べたいと願う食いしん坊。
少ない容量を最高の一口で満たしたい。その執念が生み出した味なのだとすれば、この小さな料理人の腕が確かなのも頷ける話だった。
満足したフィリップは食材の買い付けのための金を渡した。
「市場は南門の先だ。肉は角の店が良い、魚は昼前に行け」
狭い領地だからこそ、市場の隅々まで知り尽くしている的確な指示。
フィリップは「明日も頼む」と、正式に彼女を雇い入れるのだった。
それからというもの、エリーは毎日欠かさず館に通ってくるようになった。
「おじいちゃんが亡くなって寂しくて寂しくて死にそうだった」
と本人は言う。
その言葉通り、持ち前の寂しがり屋を存分に発揮した彼女は、わずか二日で屋敷の全員の名前を暗記してみせたのだ。
妙に明るくて人を惹きつける彼女は、三日もすると屋敷に溶け込んだ。
例えば、厩舎の掃除をしている老人。
黙々と掃除をする老人に、エリーは「おじいちゃんに似てる!」と抱きついて離れない。
老人は困惑していたが、エリーが「あなたは今日から私のモノね!」と宣言すると困惑のまま固まってしまった。
それからエリーは毎朝、厩舎に顔を出しておはようを言いに行くようになった。
老人は四十年この館にいて、名前を呼ばれたのは久しぶりだと呟いた。
もっともフィリップも、ヨルグの名や四十年前の戦で前領主を守った武功を忘れたわけではない。
ただ、領主として用もないのに自ら声をかける習慣がなかっただけなのだが。
例えば、侍女のアンナ。
ある日、髪の手入れが適当すぎるエリーを見かねてアンナは声をかけた。
「こっちにいらっしゃい。ひどい髪ね」
アンナが無造作に櫛を通し始めると、エリーはされるがまま大人しく座っていた。
そして髪を結い終わる頃、エリーがポロポロと声もなく涙をこぼしていることにアンナは気づいたのである。
「誰かに髪を触ってもらったの、おじいちゃんが死んでから初めてで」
アンナが「泣くほどのことじゃないでしょう」と呆れると、エリーは涙を拭って勢いよく宣言した。
「あなたは今日から私のモノよ!明日もやって!毎日やって!」
アンナは長いため息をついた。
だが翌朝、エリーはアンナの手に小さな焼き菓子をひとつ押しつけて走り去った。それきりアンナは何も言わなくなった。
小柄な娘に「あなたは今日から私のモノよ!」と変な言葉で懐かれて、屋敷の人間は次々と絆されていった。
迷惑と言えば迷惑なのだが、本気で嫌がる者は一人もいなかった。
そして、最後はフィリップ。
フィリップが彼女の裾の違和感に気づいたのは、出入りし始めて三日目の朝のことだ。
だが、その日はあえて何も口にしなかった。
そして四日目の朝、やはり彼女の裾は濡れていた。
「お前、毎朝裾が濡れてるな。屋根のある場所から来ていない証拠だ」
一度だけなら、途中で水たまりを踏んだだけかもしれない。
だが連日となれば、それは間違いなく朝露の跡だ。
領民の少ない辺境の領主は、一人一人をよく観察しているのだ。
そうでなければ、彼らの不調も不満も見落としてしまうからだ。
それがフィリップの領主としての習慣だった。
だが確信を持つまでは口にしない。それもまたフィリップだった。
――もっとも、自作のスープで腰を抜かすような突発的な阿呆には何の意味もなさない観察眼だが。
「近頃は山賊も出る。空いている客間があるから、明日からそこで寝泊まりしなさい」
不器用な優しさで、彼女に屋敷の居場所を与えた。
結局のところ、彼もまたエリーにすっかり絆されていたのだ。
「フィリップ大好き!今日からあなたも私のモ……」
「モノ扱いは勘弁してくれ」
領主に敬語も使わずに「私のモノ」扱いする謎の娘。
不思議と怒る気にはならなかった。
その夜、執務室で一人になったフィリップは羽ペンを止めてふと呟いた。
「私のモノ、か」
無邪気な娘を思い出し、少し笑った自分に気づいて咳払いをひとつした。
そして「良い拾い物をした」と言い訳のようにつぶやいた。
◇
ある寒い日のことだった。
厩番のヨルグと日課の雑談をしていたエリーは、ふと彼の上着に目を留めた。
もはや繕う余地すらない、限界を突破したボロボロの布切れだったからだ。
「ヨルグおじいちゃん、冬の上着がぼろぼろじゃない。四十年も働いてるのに!」
エリーは泣き出した。
元々情に厚い娘だが、今回は特にスイッチが入ってしまったらしい。
森で祖父と二人きりで生きてきた彼女にとって、『おじいちゃん』と呼べる存在は特に優しくしたくなる対象なのだ。
エリーはすぐさまフィリップのもとへ直談判に向かった。
「フィリップ! ヨルグおじいちゃんに新しい上着を買ってあげてよ!」
突然の要求に、フィリップは静かにため息をついた。
「……館の運営にも、予算というものがあってな」
父の代から仕える恩人に報いたい気持ちはフィリップとて同じだ。
同じだからこそ、ない袖は振れないふがいなさに言葉が少なくなってしまう。
だがエリーは引き下がらない。
「じゃあ無駄な予算を削って、上着のお金を作る! 私がなんとかするわ!」
燃え上がるような、決意を宿した瞳だった。
一介の料理人が館の予算に口を出すなど本来なら一笑に付されて終わる話だ。
しかしフィリップはそれを咎めることなく、「まあ試してやろう」と前回同様に彼女にやらせてみることにした。
次の日。
エリーは市場から憤怒の形相で帰ってきた。
「あの肉屋、塩漬け肉を生肉の倍で売ってるの。塩漬けの方が手間はかかるけど原価は安いはずなのに!」
フィリップは驚いた。
「なぜそんなことが分かる」
エリーはケロリとした顔で答えた。
「森にいた頃、行商人が来るたびにおじいちゃんが『どうしてこの値段になるのか』を全部教えてくれたからよ」
なるほど、目利きは確かなようだ。だが本当の問題はその直後に起きた行動だった。
「高すぎる!」と正面から噛み付いた結果、店主に「嫌ならよそへ行きな」と返され、手ぶらで帰ってきたらしい。
「私のお金をボッタクリで騙し取ろうとしたのよ! 絶対に許せない!」
買い出し用のお金はもちろんエリーのモノではないのだが、エリーの中ではもう自分のモノになっているらしい。
「アンナ!あの肉屋をどうにかしたいの!」
エリーはまっすぐアンナのもとへ駆け込んだ。
巻き込まれたアンナはやれやれと首を振り、的確な助言を与える。
「あの頑固親父に正面から喧嘩を売っちゃダメ。ひたすら生肉だけを褒めて買いなさい。塩漬けが売れ残れば、向こうから泣きついてくるわ」
「アンナ天才、大好き!私のモノ!」
「はいはい、わかったから」とあしらわれつつ、翌日。
エリーはアンナの作戦通り、市場で素直な買い物を実践してみた。
生肉だけを「美味しい!」と嬉しそうに買い続けること三日。
ついに塩漬け肉の過剰在庫に耐えきれなくなった肉屋の親父が白旗を揚げたのだ。
結果として、買い付けの額は当初のほぼ半額にまで抑え込まれた。
エリーが屋敷に来て月日が流れ、フィリップも彼女の生態が分かってきた。
この娘は妙なところで欲張りなのだ。
胃袋は小さいくせに、限界まで食べようとする食いしん坊。
気に入った人間は手当たり次第に「私のモノ」と宣言する。
おまけに領主が渡した予算すら自分の財布だと思い込んでいる。
そして自分のモノだと認識したものが無駄になるのを極端に嫌うのだ。
「おじいちゃんが言ってた。『人の言い値で買う者は一生貧乏だ』って!」
数日かけて成果を出してきたエリーにフィリップは感心半分、面白さ半分で思った。
――もしかすると、こいつは本質的に『数字』に強いのではないか?
「じゃあ、うちの帳簿も見てみるか?無駄が見つかればヨルグの上着が買えるかもしれんぞ」
冗談半分で分厚い帳簿を差し出すと、エリーは目を輝かせた。
「えっ、これ全部見ていいの!?」
全部、の一語にやたらと力が入っていた。
◇
フィリップが不用意に帳簿を渡してしまった、その日の夜。
執務室で残りの仕事を片付けていると、扉を叩く音が響いた。
そこには分厚い帳簿を抱えたエリーが立っていた。
「これ、もう全部覚えたから返すわ」
フィリップは一瞬、彼女が何を言っているのか理解できなかった。
「……全部、だと?」
「うん、全部」
試しに「先月の薪代は?」と尋ねると即答で返ってきた。
――恐ろしいことに、完全に合っている。
「冬の薪代が高すぎるわ。夏のうちに冬の分までまとめ買いしておけば安い夏値で済むのに。みんなが欲しがる冬に買うから高騰するのよ」
エリーは帳簿をことりと机に置き、まるで明日の天気を語るかのように改善案を口にした。
「おじいちゃんが言ってた。『必要な時に買う者は必ず高値を掴む。必要ない時に買え』って」
言葉を失うフィリップをよそに、エリーは次の指摘を始める。
「あと、街道沿いの休憩所を荒れたまま放置してるでしょう。あそこを直して水場を作れば行商人が増える。行商人が増えれば物の値段が下がるの」
「…………」
「おじいちゃんが言ってた。『道を整える者が、その道を支配する』って」
フィリップは改善案を次々と出すエリーに戦慄していた。
理屈としてはどれも領地経営の基本だ。
だが、一介の料理人が一晩で帳簿の数字を丸暗記し、そこから具体的な改善案を導き出すなど異常事態である。
「なんだか、帳簿をめくってたらお腹すいちゃった」
言うなり彼女は勝手に厨房へ消え、ササッと二人分の夜食を作って戻ってきた。
ただパンを薄く切って焼いただけの簡素なものだが、その焼き加減と香ばしさは相変わらず完璧だった。
エリーは三口で自分の分を食べ終わると、向かいの椅子に座って膝を抱えた。
そしてフィリップが食べるのをじっと見つめている。
「……なんだ、人の顔をジロジロと」
「一人でいるのは寂しいから、食べ終わるまでここにいて、いい?」
帳簿を一晩で覚え、領地経営の改善案をすらすらと述べた娘が膝を抱えてもじもじしている。
この娘は一体何者なんだ。
フィリップはそう思いながら、パンをもう一切れ齧った。
奇妙な同席者との夜の時間は不思議と心地よく、早く食べて彼女を追い返そうという気には、なれなかった。
◇
季節が巡り、エリーがこの館にやってきてから一年。
エリーが提案した数々の改革によって、領地の帳簿は見違えるように身軽になっていた。
夏のうちに薪を買い付け、街道の休憩所を直し、仕入れ先をまとめ、保存庫の管理を変えた。
一つ一つは小さなことだったが、積み重なると領地の財政は劇的に好転した。
その年の冬には念願だったヨルグの上着どころか使用人全員の防寒着を新調し、さらに冬越しのパーティーを開けるほどの余裕が生まれていた。
テーブルに並んだ自身の手による豪華な料理を前に、エリーは満面の笑みで宣言する。
「この料理は全部私のモノ!」
そして、全種類をきっちり一口ずつ味見し――。
あっという間に胃袋の限界を迎え、見事にテーブルに突っ伏した。
「うぅ、お腹いっぱい……。でも、まだあのお肉食べたいのに……」
悔し涙を流しながら呻くエリーは、苦笑する侍女たちに両脇を抱えられて自室へと連行されていった。
全部自分のモノにしたいのに、全部は胃袋に入らない。一年経っても彼女は相変わらずだった。
エリーが退場した、その直後のことだ。
侍女のアンナが音もなくフィリップの背後に寄り、耳元でぼそりと囁いた。
「ねえ領主様。エリーって可愛いと思いません? いっそ、この館に妻として迎え入れるというのはどうですか?」
一見すると、酒の席の冗談めかしたトーンだった。
だが、フィリップを見据える彼女の目は一切笑っていなかった。
フィリップが周囲を見渡すと、他の侍従や文官たちも同じような顔でこちらを見ていた。
この一年で、屋敷の人間は完全にエリーの虜になってしまっていた。
むしろ「逃がすなよ」と凄んでくる者までいる始末だ。
あの初日に「この館は全部私のモノ!」と言い放った宣言が、一年かけて現実味を帯びてきている。
実のところ辺境領主の血筋など、身分や家柄をことさらに重んじるほど高貴なものでもないのだ。
彼女は自身の才覚で実力を証明し、屋敷の全員を味方につけたのだ。
それに――最近はフィリップ自身も、よく笑うあの娘を妻に迎える未来を、決して悪くないと想像してしまう夜があった。
だが。
周囲の熱気にあてられそうになりながらも、フィリップの冷静な部分がふと警鐘を鳴らす。
あの娘は何者だ?
二日目で屋敷の人間を全員覚えた。
三日で屋敷に溶け込み、四日で皆がほほえましく思い始めた。
帳簿を一晩で全て記憶し、祖父の怪しげな格言で屋敷を改革していった。
『道を整える者が、その道を支配する』
森で隠居していたただの老人が、孫娘にそんなことを教えるだろうか。
フィリップは賑やかな冬の宴の喧騒の中で一人だけ腕を組み、静かに考え込んでいた。
◇
ある日、市場の肉屋へ買い出しに行ったエリーは塩漬け肉がないことに気づいた。
「ねえ、私のお肉をどうして盗んだの?」
彼女は肉屋の主人に詰め寄った。
当然だが、まだ買っていない塩漬け肉はエリーのモノではない。だが彼女の中では肉屋に並んだ肉は全て彼女のモノなのだ。
「まだ買ってねえのに盗むもクソもあるか」と至極真っ当なツッコミを受けつつ、主人は単に肉が入荷していないだけだと説明した。
エリーにとっては由々しき事態だ。
私のお肉を盗んだ奴を見つけ出して、絶対にぎったんぎったんにしてやる――と鼻息を荒くしたところで、彼女はハッと立ち止まった。
肉以前に、ずっと大事なものを盗まれたままじゃない!
森の中で祖父と暮らした思い出の家を取り返すという一番の目的を、きれいさっぱり忘れていたのだ。
どうして忘れてたんだっけ?
おじいちゃんが死んでしまって、寂しくて寂しくて死にそうだったからだ。
それに、お腹もぺこぺこだった。
そんな極限状態の時に、たくさんの優しい人たちに囲まれて美味しいものを食べていたら、完全に記憶の彼方へ飛んでいたのである。
「私ったら、なんてこと!」
エリーの頭に一気に血が上った。
生活基盤が安定した今こそ、あのお家を取り戻す時だ。
エリーは市場で買った生肉を握りしめたまま館へと駆け戻った。
そしてフィリップの執務室の扉を蹴破らんばかりの勢いで開け放ち、生肉を高々と掲げて宣言した。
「私のお家を取り戻すわよ!」
血の滴る生肉を掲げて叫ぶ小柄な娘の姿は、邪神に生け贄を捧げる黒魔術師のようだった。
フィリップは書類を持ったまま、ぽかんと口を開けて彼女を見つめた。
だが、彼の口から出た第一声は彼女の奇行に対するツッコミではなかった。
「……まだ家は取られていないし、戦すら始まってもいないが?」
どうやら、本当に隣の国が攻めてくるらしかった。
フィリップが当主の座に就くまで、隣国とは長らく泥沼の小競り合いが続いていた。
彼はそれを解決するため、国境沿いの緩衝地帯にあえて誰でも使える放牧地を作ったのだ。
自国民も他国民も、使用に一切の制限を設けない共有地である。
結果として民同士の交流が生まれ、フィリップも隣の領主と親睦を深めた。
平和にしていればタダで放牧地が使え、戦争を起こせば自国民の家畜まで戦火に巻き込まれる。
巧みに利害を操って、国境は十年間も平和が保たれてきた。
辺境の領主として、フィリップは絶妙な均衡を保ってきたのだ。
だが、先方の領主が死んで代が替わった。
新しい領主は手っ取り早く武功を挙げようと、短絡的な軍事行動に打って出ようとしていた。
十年だ。
十年かけて築き上げた平和の均衡を、若造はたった一月で破壊しに来たのだ。
広げた地図を前にフィリップが一人静かに怒りを燃やしていたところへ、エリーが生肉を掲げて乱入してきたというわけだ。
「えっ、隣国が攻めてくるの!?」
当のエリーは目を丸くする。
「家を取り戻す」などと勇ましく言うものだから、てっきり街で不穏な噂でも仕入れてきたのかと思いきや。
「……まあ、知ってしまったものは仕方がない」
どうせ狭い領地だ、数日もすれば領民の耳にも入るだろう。
フィリップは呆れ半分諦め半分で彼女に現状を説明してやった。
「この領地に専属の兵はいない。辺境とはそういう場所だ」
戦となれば、木こりが斧を持ち、肉屋が鉈を持ち、猟師が弓を射る。老いたヨルグでさえ馬を引いて駆り出されることになる。
それがこの領地の「兵力」だ。
そして相手はこちらの実情を知っている。確実に押し潰せる数を揃えてきたはずだ。
「一度、領民を連れて後退する手もある。隣の領地まで退避すれば、王都に援軍を要請する時間が稼げるからな」
「待っていれば、王都から強い援軍が来てくれるの?」
「……本当に派遣してくれればの話だがな」
結局、王都から見て辺境とはそういう場所なのだった。
エリーは生肉を握りしめたまま、黙ってフィリップの話を聞いていた。
退くということはこの領地を明け渡すということだ。
彼女が「私のモノ」と宣言したこの館も、ヨルグの真新しい上着も、アンナが髪を結ってくれる椅子も。
さらに。
「おじいちゃんと暮らした私のお家も、敵が来るあっち側にあるの」
エリーの目が地図の一点を見た。
国境の手前、森の中の空白。
ちょうど隣国が進軍してくる周辺の場所だった。
「おじいちゃんが言ってた。『一度手放したものに二人目の持ち主がついたら、もう終わりだ。もう誰のモノだったかなんて誰も覚えていない』って」
エリーは静かに目を伏せて言った。
そして、その顔が上がった時――。
彼女は目をきらきらと輝かせていた。まるで宝箱を見つけた子供のような目。
だが、くしゃりと歪められた口元は激しい怒りと執着に満ちている。
無垢な光と底知れない怒り。そんなひどくちぐはぐな顔のまま、彼女は口を開いた。
「『全部欲しがれ。全部掴め。全部抱えて手放すな。世界は、欲しがった奴のモノになる』」
その言葉を聞いた瞬間、フィリップの思考は完全に停止した。
「……おじいちゃんの口癖」
その言葉を、フィリップは知っていた。
この国に生まれた人間で、知らない者はいない。
かつてクーデターで玉座を奪い取った恐るべき簒奪王。
その後、国内の紛争を全て平定し安寧を築き上げた名君。
あらゆるものに手を伸ばし、富も力も領土も、全てを己の手中に収めた男。
歴史書に太字で刻まれたその渾名は――『強欲王』。
その強欲王は晩年、息子に王位を譲るや否や、忽然と歴史の表舞台から姿を消した。
捜索隊が出されたものの、ついぞ彼の行方は見つからなかった。
何故、全てを手に入れた王は消えたのか。
そして、どこへ消えたのか。
そのすべての答えが、今、血の滴る生肉を掲げてフィリップの目の前に立っていた。
名もなきメイドが産み落とし、そして王家が握りつぶした、決して認知されることのなかった王女。
暗殺されかけたその子を「この強欲な瞳は俺に一番似ている」と強奪し、連れ去った逃避行の果て――それが国境の森の中の、小さな家。
「『私のモノ』は、全部手放さないから」
エリーの手には未だに市場で買った生肉が握られている。
「おじいちゃん――グリード・アヴァリティアも、ずっとそうして生きてきたもの」
のちに『よくばり厨房姫』という異名で歴史に名を刻み、民衆に愛されるエリザベス・アヴァリティア王女。
これが、彼女の強欲さを世界に向けて解き放った、初めての瞬間だった。
◇
「『足りない情報は想像力で補いなさい』」
祖父の教えを口にしながら、エリーはすっと目を閉じた。
「市場から『私のお肉』が消えたのは、今日から……」
エリーは帳簿を頭の中で開く。干し肉は市場から消えていなかったし、食品の価格も小麦が少し上がった程度だ。
「外部からの行商が増えていないのに、今の物価変動で養える人間の数は……?」
保存食が市場から消えない程度の、小規模な準備。
だが相手の若造領主は小物だ。周辺領に声をかけ、絶対に負けないだけの数は揃えてくるはず。
目を開けたエリーは、無言で地図の敵陣側に『三百』と書き記した。
「『人は苦労や損失を嫌い、易い方へと歩いていくものだ』」
代が替わったばかりの領主は領民の反発を恐れる。
放牧地を踏み荒らして進軍するルートは選べない。
多少の時間がかかっても周囲の森をかき分けてくる。
エリーは敵が選ぶであろう森の中の最短ルートに、すうっと一本の線を引いた。
「三百人の素人兵が、この森を突っ切るとして……」とつぶやき、経路の横に『五日』と書き足す。
料理人の小娘が、あっという間に敵軍の動向を予測し……それで――。
「それで、どうしますか、エリー。……いや王女様」
「王女様!?」
フィリップの恭しい呼びかけに、エリーは素っ頓狂な奇声を上げた。
強欲王による英才教育を受けていた彼女の知識には、一般常識が致命的に欠落していた。
ここがアヴァリティア王国であり、その名を苗字として名乗れるのはこの国の王族だけだという子供でも知っている常識を今さら教えられ――。
彼女の中で足りなかった最後のパズルがかちりとハマり、方針が決定した。
エリーが地図から顔を上げ、フィリップを見た。『私の作戦、やれる?』と目が問いかけている。
初めて彼女が館に来た時は「まあ試してやろう」と思ったのは自分の方だったのに、いつの間にか完全に立場が逆転している。
だが、こんな風に彼女に振り回される関係も悪くないと、フィリップは密かに笑みをこぼした。
◇
結果として、戦は始まらなかった。
敵軍は森を四日ほど行軍したのち、領地の目と鼻の先でクルリときびすを返し、すごすごと撤退していったのだ。
エリーとフィリップがやったのは、森の木を数本切り倒し、そしてある『噂』を流したことだけだった。
かつて家を奪った連中が王家の刺客なら、エリーはとっくに死んでいる。つまり連中の正体はただの山賊だ。
エリーたちは木こりと協力して木を倒し、敵軍の行軍ルートを操作して確実に「山賊のいる家」へと誘導した。
結果、家を占拠していた山賊たちは三百の敵軍にあっさりとすり潰された。
そして敵が山賊を蹴散らした絶妙なタイミングで、敵軍の耳に「この森には先王の隠居地がある」という噂が流れてきた。
敵国の領主たちは、王国が軍を派遣しないと踏んでいた。国境線が多少変わっても王国は気にしない。
なぜならアヴァリティア王国の王都はきらびやかだが、辺境の領地とはそういうものだからだ。
しかし、そこに『強欲王の隠居地』があり、その証拠まで出てきたとなれば話は全く別次元になる。
王国の威信にかけて、数万の兵で取り返しに来る可能性がある。
若造に付き合って兵を出した周辺の領主たちは完全に震え上がり、すぐさま兵を引いたのである。
後日、フィリップは国境で若き領主と会談する機会を得た。
いつもは温厚な彼も、この時ばかりは満面の笑みで煽ってやった。
「いやぁ、わざわざ大軍を挙げて我が領の山賊退治をしてくださるとは! 本当に助かりましたよ!」
この時の若造の滑稽な顔を、フィリップは生涯忘れないだろう。
面目を失い、何としても隣国に進軍するという妄執にかられた若き領主は無理な領地経営をしたようだ。
数か月後にはいつの間にか消えていた。
代わりに隣国の新たな領主として挨拶に来たのは、放牧地でフィリップとよく話す気風のいい羊飼いのおじいさんだった。
騒動のあとに残ったのは、山賊が綺麗に掃除された思い出の家と、いつも通り平和な辺境の日常だけ。
「おじいちゃんが言ってた。『喧嘩は止めるな。終わった後に一番得をするのはそれを見ていた奴だ』って」
エリーはえへへと笑いながら、いつも通り干し肉を頬張った。
後日、噂を聞きつけた王都から、仰々しい調査隊が辺境へやって来た。
「この辺りに、先王の隠居地があるというのは本当か?」
しかし、すでにエリーという料理人を受け入れていた領民たちは全員そろって「さあ知らないね」と首を振った。
やる気のない調査隊は泥だらけになる山林の調査などせず、そそくさと王都へ帰っていった。
早く王都へ帰りたかったのだろう。
なぜなら、辺境の領地とはそういうものだからだ。
◇
「やっぱりこのお家は私のモノ!……でも、普段は領主の屋敷に住んでいい?」
山賊が消えた先王の隠居地で、寂しがり屋のエリーは上目遣いにフィリップへ尋ねた。
二人は騒動の後、連れ立ってこの場所へと足を運んだのだ。
裏手にある祖父の墓参りを済ませ、散らかった室内を片付けている最中。
彼女はふと手を止めてそうこぼしたのだ。
「ずっと屋敷にいるのは構わないが……本当に、これで良かったのか?」
「何が?」
そう首を傾げるエリーに、フィリップは真剣な眼差しを向ける。
「自分が王女だと名乗り出れば、今なら王都へ戻って贅沢な暮らしができるはずだろう」
しかしエリーは一秒の迷いもなく横に首を振った。
「私はこの領地の全部が好きで『私のモノ』にしたの。一度抱えたものは、絶対に手放すつもりはないわ」
そう言って、エリーは無邪気に笑った。
その屈託のない笑顔を見て、フィリップは「この娘は最初からずっとこうだった」と腑に落ちた。
厨房に飛び込んできた日も、帳簿を抱えて夜食を作った夜も。
ずっとこの笑顔だった。
そんな思い出に浸るフィリップの前で、エリーはふと笑みを引っ込めた。
そして、キラキラと潤んだ瞳で、背の高いフィリップを真剣に見上げ――そのまま真っ直ぐに、彼の胸へと飛び込んできた。
「もちろん、フィリップも私のモノよ。私を拾ってくれて、一緒に戦ってくれた……世界で一番、とびっきり欲しい人」
そう囁いたエリーは、抱きついた勢いのまま――背伸びをしてフィリップの唇を奪った。
不意打ちのキスに目を白黒させる彼に対し、エリーは顔を真っ赤にしながら言い放つ。
「おじいちゃんが言ってた。『惚れたらさっさと押し倒せ。口説き文句なんぞ後でいい』って」
およそ幼い孫娘に叩き込むには低俗すぎる教えに、フィリップは毒気を抜かれて思わず吹き出してしまった。
伝説の先王の血を引く隠し王女。いつ王家の陰謀に巻き込まれるか分からない、特大の爆弾だ。
――それでも。
「モノ扱いは勘弁してくれと言ったが、お前のモノになるのも悪くないな。……いや、むしろお前を俺だけのモノにしたい」
常に領地を第一に考えて自制してきた領主も、たまには欲望のままに動いてもいいだろう。
――なぜならここは、かの強欲王の隠居地だったのだから。
のちに紆余曲折あって「よくばり厨房姫」として、数々の破天荒な伝説を残すことになるエリザベス・アヴァリティア王女。
彼女は恋愛においても一度狙いを定めたら絶対に譲らない、強欲王の血を色濃く継ぐ女性であった。
どんなに政略的に有利な縁談があろうとも、自身を拾い上げた辺境領主だけは、生涯手放すことはなかったという。




