第四話 新しい季節への扉
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第四話 新しい季節への扉
賑わう校門を背にして、俺は歩き出した。
ちょうどその時、校舎の時計台が正午の鐘を鳴らした。
カーン、カーンと乾いた音色が空気に溶け込んでいく。
これまでは授業の終わりや昼休みの始まりを告げるだけの、聞き飽きたはずのチャイム。けれど今の俺には、それが過去の自分との決別を告げる合図であり、まだ見ぬ明日への祝砲のようにも聞こえた。
俺の高校生活は、今日、ここで終わる。
卒業証書も、派手な花束も、後輩からの色紙もない。ただ「中退」という二文字を背負って、俺は独り、この学び舎を去る。
客観的に見れば、それは「脱落」以外の何物でもないのだろう。俺は一人、同級生たちが進むレールから降りて違う道へ進むことを選んだ。
駅へと続く一本道。
冬の鋭い風が頬を刺すが、不思議と足取りは軽かった。
街路樹の桜を見上げると、まだ枝先には、固く結ばれた小さな蕾が並んでいる。
一見すれば、それは生命の気配を感じさせない枯れ木のようだ。けれど、その内側では、冷たい土の下から吸い上げた水分が巡り、春の出番をじっと待っている。外見は静止していても、生命の鼓動は着実に、そして力強く脈打っているのだ。
「俺も、あんな風になれるかな…・…」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟いた。
「ねえ、健人君。これから少し時間あるかな?」
背後からかけられた美香子先輩の声に振り替える。
「お祝い、と言ったら変だけど……。もしよかったら、お茶でもしていかない?」
先輩の屈託のない笑顔に、俺は断る理由なんて持ち合わせていなかった。
「……はい。ぜひ」
俺は二つ返事で頷いた。
駅から少し離れた、ビルの隅にある喫茶店。
昔ながらの重厚な木製のドアを開けると、「カランコロン」とカウベルが懐かしい音を鳴らし、客の来店を知らせる。
店内に足を踏み入れた瞬間、深く芳醇な珈琲の香りが鼻腔をくすぐり、それだけで強張っていた肩の力がふっと抜けるのがわかった。
案内された窓際の席。
二月の柔らかな日差しが、使い込まれたテーブルの白いクロスを淡く照らしている。
光の粒が空中でダンスを踊っているような、静かで贅沢な空間だった。
「改めて、少し早い卒業おめでとう。健人君」
運ばれてきたココアの湯気に目を細めながら、先輩が優しく微笑んだ。
「おめでとう……で、いいんでしょうか」
俺は苦笑いしながら、自分の指先を見つめた。
「正直、今日ここに来るまでは、自分が負け犬みたいな気分だったんです。皆が当たり前に通る道を外れて、逃げるように学校を去る、名もなき敗残兵なんだって。……でも、さっき先輩たちに会えて、なんだか肩の荷が下りた気がします」
俺はポケットから、先ほどもらったハンカチをそっと取り出す。
新品の綺麗にアイロンが掛けられた清潔な感触が手に心地よく馴染む。
このハンカチが……、俺がこの場所で過ごした時間が……、決して無意味な空白ではなかったことを証明してくれている気がした。
「高卒認定の予備校、もう調べてあるんだよね?」
先輩の問いに、俺は顔を上げた。
「はい。来週から予備校で体験授業を受けるつもりです。そこから夏ごろに認定試験を受けて、来年の今頃には大学受験で必死になれていると良いですね」
「そっか……、大学受験ね……」
今度は流されるんじゃなくて自分の意思で、進む道や行きたい場所をしっかり決めたいですから」
俺の言葉を聞いて、先輩は心底安堵したようにカップを置き、少しだけ身を乗り出した。
「健人君の行きたい大学や学部とかって、具体的に決まっているの?」
「まだぼんやりとはしていますけど、いくつか候補はあります。……実は、美香子先輩が通っている大学にも、気になる学部があるんです」
「えっ、本当!?」
先輩がさらに身を乗り出した拍子に、テーブルが少し揺れた。
「なら、また一緒に軽音楽部で楽しもうよ! 私、バイトの合間に家庭教師しちゃうよ。英語なら任せて。私、こう見えても一応、英文科なんだから」
「えっ、本当ですか? それは……めちゃくちゃ心強いですけど、先輩、お忙しいんじゃ……」
「あはは、任せなさい。後輩のピンチを見捨てるほど、私は薄情じゃないよ」
先輩は快活に笑い、それから少しだけ真剣な表情を浮かべて付け加えた。
「でも、無理しすぎちゃダメだよ。健人君は一度走り出すと、周りが見えなくなるくらい一生懸命になっちゃうから。たまにはこうして、息抜きも必要。……ねえ、前と連絡先、変わってないよね?」
「はい。スマホの設定、ずっとそのままです。先輩からの連絡、ずっと待ってたのかも……しれません」
最後の方は、自分でも驚くほど小さな声になってしまったが、心の隙間からそっと抜け出した何かが俺にそう言わせたような気がした。
「……じゃあ、予定を確認してからすぐに連絡するよ。一緒にがんばろうね。これからは高校の先輩後輩だけじゃなくて――『戦友』。そして、来年の春には大学の先輩後輩になろう!」
先輩の瞳が、悪戯っぽく、そして慈しむように俺を見つめる。
その瞬間、俺の中で長く凍りついていた感情が、パキリと音を立てて溶け出したような気がした。
止まっていた歯車が、新しい油を注がれて再び力強く回り始めたような、そんな確かな感情が胸の奥から熱となって広がっていく。
喫茶店を出ると、街の空気は相変わらず刺すように冷たかった。
けれど、ふと見上げた空の色は、朝よりもずっと深く、鮮やかな「希望の青」に染まっている。
「それじゃあ、ここで。……必ず連絡する。ちゃんとスマホ、見ておくんだよ? 約束だからね」
「美香子先輩……ありがとうございます……」
そして美香子先輩は軽く手を振ると、軽やかな足取りで自動改札の向こうへと消えていった。
一人残されたホーム。
遠くから、電車の走る地響きのような振動が足元に伝わってくる。
二月の終わり。
俺の高校生活は、華やかな式典も、卒業証書も、拍手喝采もないまま、静かに幕を閉じた。世間という名の大きなフィルターを通せば、それは単なる「中退」という名の挫折、あるいは人生の汚点に過ぎないのかもしれない。
けれど、右手のポケットの中で握りしめたハンカチの温もりと、新しく手に入れた「約束」が、これからの暗闇を照らす確かな道標になる。
滑り込んできた電車の風。
それは終わりを告げる葬送曲ではなく、新しい季節、まだ見ぬ本当の自分へと運ぶ、希望のファンファーレだった。
俺は迷わず、開いた扉、春へと続く扉の向こうへ、一歩を踏み出す。
そして二月の冷たい風を切り裂く春へと向かう列車はゆっくりと走り始めた。




