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冬の終わり、春の扉 ~少し早めの卒業式~  作者: 星野サダメ


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第三話 喧噪の中の決別

 第三話 喧騒の中の決別

 駅から学校へと続く並木道。かつての俺にとって、この道は単なる通学路ではなかった。

 それは、重い鉄球のついた足枷を引きずりながら、一歩ずつ進む苦行そのものだった。

 一歩進むごとに、心臓は嫌な早鐘を打ち、肺の奥がすり減るように呼吸が浅くなる。

 この角を曲がれば、あの灰色の校舎が見えてしまう。そう思うだけで、胃の底から苦いものがせり上がってくる……そんな、忌まわしい記憶の染み付いた道だった。

 けれど、今日は違う。

「健人君、大丈夫? 少し顔が硬いかな」

 隣を歩く美香子先輩が、覗き込むようにして俺に微笑みかけた。

 彼女の柔らかい声が、こわばっていた俺の肩をふっと解いていく。

 不思議だった。あんなに重かった足取りが、驚くほど軽い。先輩の隣に並んでいるという事実が、俺の中に「独りではない」という確かな盾を作ってくれているようだ。

「……いえ、大丈夫です。ただ、こんなに落ち着いてこの道を歩ける日が来るとは、思っていなかったので」

 俺は素直な気持ちを口にした。嘘を吐く必要も、自分を虚飾する必要もない。今の俺には、隣にいてくれる彼女という救いがある。


 そうして辿り着いた校門を潜ると、そこには記憶にある高校とは異なる喧騒が広がっていた。

 色鮮やかな花束を抱えた誇らしげな姿の保護者たち。慣れない手つきで制服の襟元を正し、どこか浮足立った様子の在校生たち。

 人々の吐き出す熱気が、凛と張り詰めた冬の冷たい空気を激しく震わせていた。

 かつての俺にとって、このコンクリートの校舎は、自分を閉じ込め、精神を摩耗させる巨大な牢獄だった。けれど、今日ばかりは違う。

 どこか遠い異郷の、自分とは関係のない美しい城のように、客観的な視点で見ることができた。

「ほら、健人君。胸を張って。君は何も悪いことなんてしていないんだから」

 美香子先輩が歩調を緩め、俺の耳元で囁いた。

 その凛とした佇まいに背中を押されるようにして、俺は小さく、けれどはっきりと「はい」と答えた。


 体育館の巨大な扉からは、厳かなピアノの旋律が漏れ聞こえてくる。

 ――『仰げば尊し』。

 古めかしい、けれどどこか寂寥感を誘うメロディが、冬の空気に溶け込んでいく。

 式典はすでに終盤に差し掛かっているようだった。俺たちは扉の隅に身を寄せ、静かに「その時」が来るのを待った。

 やがて、重厚な扉が勢いよく左右に開かれた。

 割れんばかりの拍手の渦。その中心を、胸に赤いコサージュをつけた卒業生たちが溢れ出してきた。誰もが誇らしげで、けれどその瞳の奥には、住み慣れた場所を去る一抹の寂しさを滲ませている。

「あ、健二君!」

 美香子先輩が、人混みの中から懐かしい顔を見つけ、大きく手を振った。

 俺の視線の先には、かつて放課後の音楽室で、アンプのノイズに紛れて青臭い夢を語り合った軽音楽部の仲間たちの姿があった。

 元部長の健二先輩。俺が不登校気味になり、部活に行けなくなった時も、何度も連絡をくれた人。

 彼は美香子先輩の姿に気づくと、驚いたように目を丸くした。そして、その視線が俺に留まった瞬間、彼の表情が劇的に変わった。

「お前……、健人か!? それに、美香子先輩まで……マジかよ!」

「健人! 久しぶりだな、おい! 最近顔を見せないから、みんなで本気で心配してたんだぞ!」

 仲間たちが次々と駆け寄ってくる。

 正直、怖かった。彼らに「逃げ出した裏切り者」だと思われるのが、何よりも恐ろしかった。

 けれど、俺の胸の奥に澱んでいたその重苦しい罪悪感は、彼らの変わらない笑顔と、俺の肩を叩く懐かしい体温によって、陽光に曝された霧のように霧散していった。

 彼らは、俺を責めなかった。ただ、再会を喜んでくれた。

 その単純で、けれど温かい事実が、俺の心をどれほど救ったか、彼らは知らないだろう。

「先輩方……卒業、おめでとうございます」

 俺は喉の奥につかえていた言葉を、絞り出すようにして伝えた。

「……それから、伝えなきゃいけないことがあります。俺、実は三月で、この学校を辞めることにしたんです。だから、最後に皆さんにちゃんとお礼が言いたくて、今日来ました」

 俺の告白に、先輩たちは一瞬だけ沈黙した。

 周囲の喧騒がふっと遠のき、冷たい風の音だけが耳に残る。俺はぎゅっと拳を握りしめ、次の言葉を待った。

 しかし、健二先輩は、困ったような、けれど照れくさそうな笑みを浮かべると、俺の頭をガシガシと乱暴に撫で回した。

「そうか……。お前が本気で悩んで本気で決めたなら、それが正解のはずだ」

「え……」

「いいか、健人。どこにいたって、お前が俺たちの後輩であることに変わりはねえ。学校なんて、ただの箱だ。大事なのは、そこで誰と出会って、何を感じたかだろ? ここはゴールじゃねえ。次はもっと広い場所で会おうぜ。その時は、お前の作った新しい曲、聴かせてくれよな」

 その言葉は、どんな金文字で綴られた卒業証書よりも深く、力強く、俺の心に刻まれた。

 彼らの瞳の中には、落胆の色など微塵もなかった。ただ、これからの俺を応援してくれる、真っ直ぐな光だけがあった。


 ふと、視線を逸らした先に、あの男がいた。

 俺を精神的に追い詰め、存在を否定し続けたあの教師。彼は少し離れた場所で、他の生徒や保護者に、卑屈なまでの愛想笑いを振りまいていた。

 以前の俺なら、その姿を見るだけで激しい吐き気に襲われ、憎悪で視界が歪んでいただろう。

 彼に復讐したい、彼に自分の苦しみを知らしめたい……そんな暗い情念に支配されていたはずだ。

 けれど、不思議だった。

 今の俺には、もう怒りすら湧いてこなかった。

 彼は、俺の人生という長い物語における、ただの「通り過ぎていく背景」に過ぎないのだ。

 彼が俺をどう評価しようと、彼が何を言おうと、俺の価値は一ミリも揺らがない。

 俺の価値を決めるのは、彼のような人間ではなく、自分自身なのだと。

 その真理を、俺は今日、この喧騒の中でようやく心の底から理解できた。

 俺はもう、あの男の支配下にはいない。

「健人君、いい顔になったね」

 美香子先輩が、少し誇らしげに俺を見上げた。

 その瞳には、かつて部活で一緒に演奏した時のような、確かな信頼が宿っていた。

 俺は彼女に向き直り、今日一番の、嘘偽りのない笑顔を返した。

「……俺、今日ここに来て、本当に良かったです」

 二月の終わりの風は、まだ肌を刺すように冷たい。

 けれど、美香子先輩から受け取ったハンカチを握りしめたポケットの中だけは、春の陽だまりのように、確かな熱を持って温かかった。

 俺はもう、足枷を引きずっていない。

 自分の足で、自分の行きたい場所へ行ける。

 並木道の向こう側、まだ見ぬ明日へと、俺は軽やかな一歩を踏み出すのだ。


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