第一話 凍てつく朝の境界線
純文学って何かよくわかっていませんが、こんな感じだろうと投稿してみます。
作者の実体験を元にあれこれと書いてみました。
どうぞよろしくお願いします。
全四話
第一話 凍てつく朝の境界線
二月の終わり。暦の上では立春を過ぎ、世界はひっそりと春の準備を始めているはずだった。
しかし、結露した窓ガラスの向こうに漂っているのは、季節の移ろいを断固として拒絶する鋭く尖ったような冬の残り香である。
午前七時。遮光カーテンの隙間から細く差し込む光は、暖かさなど微塵も感じさせない。それは、どこか神罰を思わせるような、冷徹で無機質な色をしていた。
街全体を巨大な冷却装置の内部に閉じ込めたような冷たさを感じる静寂が支配する朝だ。
重たい瞼をこじ開けると、視界に飛び込んできたのは、冷え切った空気で白く霞む自室の天井だった。
後攻へ行かなくなってからというもの、この天井の木目、小さなシミの形、壁紙のわずかな浮きまで、何度となく見つめ続けている。
吐き出す息がかすかに白く、部屋の隅に置かれた加湿器の、どこか心許ない駆動音だけが、ここが停滞した夢の中ではなく、残酷なまでに鮮明な現実であることを主張していた。
「寒い……、寒いな……」
独り言が、冷たい空気に吸い込まれて消える。
その音の空虚さに、胸の奥がチリリと痛んだ。
容赦のない寒さがまだ夢の狭間を漂っていた意識を、厳しい現実という名の戦場へと引きずり上げていく。
意を決して、体温で温まった毛布という名の「最後の楽園」を捨てた。
その瞬間、肌を叩く刺すような冷気に身を震わせ、歯の根が合わないほどの旋律を覚え、血管が急速に収縮していくことを実感する。
。逃げ場のない寒冷から逃れるために、椅子に放り出されていた厚手のパーカーを強引に羽織り、這い出すようにして一階のキッチンへと足を向けた。
階段を一歩下りるたび、乾燥した冬の木材が軋み音を立てる。
ギィ……、ミシッ……。
朝の静まり返った家の中に響くその音は、これから現実世界へ踏み出す俺の心が上げる悲鳴のようだった。
そうして一階へ降り、ダイニングのドアを開けると、そこには使い古されたエプロンの紐をきゅっと結び、朝の支度をする母の背中があった。
コンロの上では鍋がしゅんしゅんと湯気を上げ、出汁と味噌の香りが僅かに鼻を掠める。その、あまりにも「普通」で、あまりにも「正しい」日常の光景が、今の自分には酷く眩しく、同時に胸を締め付けるような痛みを伴って迫ってきた。
「母さん」
声をかけると、彼女の細い肩がびくりと揺れた。
「……おはよう。今日は早いのね」
振り返った彼女の顔は、朝だと言うのに疲れが浮かぶ悩み抜いたような薄い隈があった。それを直視できず、視線を泳がせる。
「うん。……母さん、今日は学校へ行くよ」
その言葉に、湯気を立てる鍋をお玉でかき混ぜていた母の手が、魔法をかけられたようにぴたりと止まった。
静寂が部屋を満たす。換気扇の回るゴーッという音だけが、異常に大きく聞こえた。
ゆっくりと振り返った母の顔には、隠しきれない驚きと、それ以上に深い戸惑いが複雑に混ざり合って浮かんでいた。
「えっ……何か、心変わりでもしたの?」
彼女の瞳の中には、微かな期待と、それを裏切られることへの恐怖が同居しているような光が見えた。
俺は思わず視線を斜め下に落とし、指先でパーカーの裾の毛玉を執拗に弄る。
「いや、そういうわけじゃないんだ。ただ……今日は一つ上の先輩たちの卒業式だから。三月末で中退する予定の俺だけど、お世話になった人たちに、最後くらいは挨拶しておきたくて」
母は一瞬だけ、眉間に複雑な陰を落とした。
息子が「学校を辞める」という事実。それを言葉にして提示されるたび、彼女の心には新しい傷が刻まれているのかもしれない。
親としての期待、世間体、そして何より息子の将来への不安。それらをまだ完全には咀嚼しきれていないのだろう。
けれど、彼女はすぐに柔らかな、どこか切なげな微笑を湛えて頷いた。
「そっか……。あんたももうすぐ、高校生じゃなくなるものね。先輩たちと一緒に、一足早い卒業、か……」
その言葉に含まれた微かな寂しさを、気づかないふりでやり過ごす。
罪悪感から逃げるように、早口で付け加えた。
「……うん。それじゃ、朝ごはん頼むよ」
自室に戻り、クローゼットの最深部、埃を被っていた制服を引っ張り出す。数ヶ月ぶりに袖を通したその紺色の生地は、驚くほど冷たく、まるで凍土から掘り出したような冷気すら感じた。
鏡に映る自分を見ると、制服が少しだけ、肉体に対して窮屈に感じられる。
背が伸びたわけじゃない。おそらく、学校という社会的な枠組みそのものが、今の自分の、ひび割れて歪んでしまった輪郭に合わなくなってしまったのだ。
ボタンを留める指先が、寒さのせいか、それともこれから向かう場所への緊張のせいか、微かに震えていた。
それから朝食と身支度を終え、玄関の重い扉を開ける。
「行ってきます!」
「……ええ。気をつけてね」
背中に投げかけられた母の声は、朝の冷気に溶けてしまいそうなほど小さく、それでいて、どこか遠い場所へ旅立つ巡礼者へ贈る祈りのように優しかった。
外に出ると、空気の硬さが一段と増していた。自転車のサドルは氷のように冷たく、握ったハンドルから冷気がダイレクトに骨まで伝わってくる。漕ぎ出した瞬間、頬を撫でる風は刃物のように鋭く、耳の奥をキリキリと痛ませた。しかし、不意に見上げた空は、驚くほど高く澄み渡っていた。
雲ひとつない蒼穹。それは、俺の挫折と停滞にまみれた卑小な過去を冷笑しているかのようでもあり、同時に、積もった汚れをすべてリセットしてくれる無慈悲なまでの清らかさを持っていた。
そう、先輩たちの新たな門出を祝うには、これほどはないと俺に思わせるには十分すぎる程の青空が広がっていたのだった。




