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【完結】エメヴィベール伯爵夫人の魔法庭園  作者: 礼三


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2/18

天使

 その夜、シルヴィアは寝室で書類へ目を通していた。

 エメヴィベール領主はラースであるが、実際に領地を管理しているのはシルヴィアであった。執事から渡された会計報告書を読んでいたのだ。

 銀色の髪が肩からこぼれ、しばし、シルヴィアは意識が飛んでいたことに気づいた。

 不意に視界の端で白のレースカーテンが揺れているのを認め、文書からシルヴィアは顔をあげる。

 侍女が部屋から退出をする際に窓の鍵を確認していたはずだ。

 何者かの気配を感じたシルヴィアの口から不意に言葉がこぼれる。

 

「誰?」

 

 かすかな月光に照らし出された小さな影が伸びる。カーテンの合間から声が届いた。

 

「…。貴女の…。天使だよ…」


 現れたのは…。シルヴィアよりも深い紫…。スターチスの花を思わせるような(つぶら)な瞳で真っ直ぐにシルヴィアを見据える少年。漆黒の髪が月光に艶めき滑らかだ。

 胸元にあしらわれたフリルの白シャツに上等な紺色のベルベットのジャケット、膝上丈のパンツを着こなしている。同色の大きなサッシュリボンが特徴的だった。


『夢を…見ているのかしら…』


 羽こそ生えていないが、天使然とした少年に呆気に取られつつもシルヴィアは問いかけた。


「天使?ふふ…。可愛らしい天使ね?」


 戸締りをしていた部屋へ真夜中に窓から訪問する子供…。警戒心を持つべきだが、無邪気に微笑んでいる姿からはシルヴィアへの悪意を感じられない。

 

「ねぇ?若返りたくない?もう一度、人生をやり直すんだ…。僕と一緒に子供の頃から…。僕が貴女を幸せにしてあげる…」

 

 子供はシルヴィアのそばへ駆け寄り、キラキラと輝く大きな双眸で訴えた。上目遣いが愛らしい。

 あまりにも唐突な申し出に、これは夢だとシルヴィアは確信した。

 

「あぁ…。やっぱり…。これはきっと夢ね?私は夢を見ているんだわ…。書類を見ているうちにうたた寝をしてしまったのね…」

 

「違う…。夢じゃないよ。現実なんだ…。この薬…。この薬を飲めば君は少女に戻れるんだよ…」


 少年はシルヴィアの目の前へ小瓶を差し出した。透明な青い小瓶の中で液体が揺れる。

 あどけない表情で子供はシルヴィアをじっと見つめた。シルヴィアは笑おうとしたが…。

 

「くっふ…ごっ…ふ…ごほごほっ…」


 咳き込んでしまう。寝巻きの胸元を手繰り寄せ、水色の柔らかな生地が皺になるほど掴んだ。

 

「大丈夫?」

 

 子供はテーブルに備えてあった水差しの水をグラスへ注ぎ、シルヴィアへ手渡した。シルヴィアの隣へ座ると背中をさする。

 夢にしては現実味を帯びていて、子供特有の高い体温が背中ごしに伝わってきた。

 シルヴィアの額へ冷や汗が浮かんでいる。

 青白い顔色をしたシルヴィアは少しずつ口から水を流し込み喉を潤した。

 

「貴方が可笑しなことを言うから…。思わず咽せちゃったわ…」


 痛々しい笑みでシルヴィアが答える。

 

「嘘つき…」


 少年が小さく呟く。先ほどまでの愛嬌が消え失せ、泣きそうな顔になっていた。

 

「嘘?」


 シルヴィアは少年が何を言いたいのか理解していたが、思わず少年の言葉をオウム返しした。

 

「貴女は長いこと病を患っているでしょ…。このままだと貴女は確実に死ぬよ?」


 何故、少年はそれを言い当てるのか…。天使だからシルヴィアの寿命を知っているのだ。

 死期が近づいているシルヴィアは明晰夢を見ているのだと結論づけた。

 シルヴィアは身体の不調から先が長くないことを悟っていた。

 

「確かに…。私は余命幾許もないかもしれない…。けど、若返るなんて…。天寿を全うする…。人としてそれが道理よ…。死は誰にでも平等に訪れるものなの…。逃れられる人はいないわ」


 シルヴィアの返答に少年は深刻そうに眉をひそめた。青紫に透き通った清らかな瞳へ涙が浮かぶ。シルヴィアは少年のその様子に心苦しくなった。

 

「…。こんなことは言いたくはないけど…。もしかしたら、貴女が若返ったら伯爵の気持ちを取り戻すこともできるかもしれない…。貴女がそれを望むなら…。僕は協力するよ…。貴女に生きていてほしいんだ…」

 

 シルヴィアは弱々しく首を横へ振る。藤色の眼差しは動揺していた。風に舞い散り、降り注ぐ藤の花びらのように切ない。

 

「歳が若いからといって…。自分を愛してくれるとも限らないわ。また、愛されたからといってそれが続くとも限らない」


 ラースが愛しているのはフルールであって、シルヴィアではない。もし、少女の頃に戻ったとしても、ラースはシルヴィアを愛してくれないだろう…。

 ラースの視線の先にシルヴィアはいない。

 

『そう…。全てが虚しいだけだわ…』


「嫌だよ…。貴女が死ぬのは…」


 少年の瞳から大粒の涙が溢れ出した。

 シルヴィアは少年の濡れた頬を指で拭う。柔らかな肌の感触が子供らしく温かみを感じる。

 少年はシルヴィアの手に自分の手を重ねて、ギュッと握り締めた。


「大好きな…。貴女がいなくなるなんて…。考えたくもない…」

 

 少年の懇願する眼差しをシルヴィアはじっと見つめた。太陽が昇り出す前の明け方の空のような紫紺の瞳が涙で煌めいた。

 シルヴィアはこの瞳を知っていた。

 

「思い出したわ…。薄明の空のように鮮やかで美しい紫色の瞳…。貴方は…」

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