シルヴィアのいない世界で…。 【本編 完結】
エメヴィベール伯爵夫人が大切に育てていた庭園の花は枯れてしまった。
美しかった当時の姿は見る影もなく、何も植えられていない花壇が並んでいる。
何かの植物を植えても根を下ろすことなく萎んでいく。その景観は侘しく虚しい。
本人の生前の意向で伯爵邸の北へ広がる森へシルヴィアは埋葬された。彼女の両親が眠る墓石の隣へシルヴィアの墓はある。
薄雲が空へ広がり、その合間から細い光が漏れている。それでも、シルヴィアが眠っているその場所は雨が降っていた。
子供姿のアシルは墓石にそっと青い薔薇を供えた。
アシルはシルヴィアの部屋に残された青い薔薇の鉢植えを持ち去った。
シルヴィアが若返りの薬を与えた鉢だ。これだけは枯れることなくずっと咲き続けている。
若返りの薬に関して、アシルは何一つ資料を残さず破棄した。そして、魔塔から姿を消した。
シルヴィアから指摘された通り、自然の摂理に反していると考えたからだ。
シルヴィアの命を永らえさせるためにアシルはこの薬を作り出しただけであるが、世に出れば争いの種になりかねない。
湿った漆黒の前髪から雫が滴る。紫紺の双眸は雨で濡れているのか、それとも涙が浮かんでいるのか、悲しみを湛えていた。
『もし、貴女に来世があるなら、今度はラースではなく私を選んでくれ…。アイツと縁を結ぶ前にきっと私が探しだすから…』
冷たい無機質な墓石へアシルは接吻した。
『君が生まれ変わるまでずっと待ってる…』
アシルの脳裏に生きていた頃のシルヴィアが巡る。
無邪気な笑顔で服の裾を引っ張るシルヴィア…。
頬を膨らませてアシルの言葉に反論するシルヴィア…。
上目遣いの浅紫が弓形になる…。
小さな唇から零れる言葉の数々…。
白くて透明感のある形の良い額…。
一房落ちる銀糸の髪が煌めきを放つ…。
彼女が微笑むと年甲斐もなく心が踊った…。
月のように神秘的で穢れのない存在…。
その全てを…。アシルは…。
「愛していた…。貴女を…。シルヴィア様を愛しています…」
土を叩く雨音だけが弾み、言葉はもちろん返ってこない。
そして…。
数年が過ぎた…。
「お母様…。今日は天気がよろしいのよ…。一緒にお茶でもいかが?ふふ…。この茶葉はお母様がお好きだったものでしょ?取り寄せたのですよ」
墓の前で独り言を囁き続けている一人の女…。フルールである。
綺麗に刈られた芝生の上へウールのブランケットを広げて、バスケットの中から茶器を取り出している。
シルヴィアが死んだ折、フルールの懐妊が発覚した。ラースは身重の愛人をエメヴィベール伯爵領へ残し捨てていった。
その後、フルールは無事に女の子を出産したものの精神を病み壊れてしまった。
それでも、フルールは幸せだ…。
晴れれば、必ずシルヴィアのもとへ向かい、そこで一日を過ごす…。母と共に会話を楽しむ…。それが、フルールの日課となっていた。
遠くの木陰からその様子を眺めている小さな少女、彼女はラースとフルールの娘ファイエットである。
娘に関心のない母を恋しがって、ファイエットもまたいつもこの場所を訪れていた。
「やっぱり、ここにいたんだね。そろそろお昼ご飯だよ。さぁ、一緒に帰ろう」
青年はファイエットに手を伸ばすと小さな手が握り返してきた。赤く染まった頬が愛らしい…。
容姿はフルールに似ている。だが、フルールは喜怒哀楽がはっきりしていたものの、ファイエットの表情は読みにくかった。
「ルーネ…」
不意に上空から声が降ってくる。
「アシル様…」
屈託のない笑みでルーネは笑った。
アシルはエメヴィベール伯爵邸へ住み着いた魔法師だ。
クレプスキュール伯爵となったエドモンが、ルーネのために客卿としてエメヴィベールへ派遣した。
シルヴィアを失ってから、ラースはエメヴィベール伯爵領を追い出され、昔の容姿へ近づいてきたアシルと会うこともない。アシルはルーネを伯爵として指導しながらも平穏な日々を送っていた。
「今日もファイエットを見守ってくれていたのですか?」
「んっ?客足が多いからな…。人攫いでもいたら困る…」
アシルはみすぼらしく変わってしまった庭園を自発的に自然石で整えてくれた。
そこへ孤児院出身の芸術家をルーネは起用し、数々の石像を彫らせた。昔とは趣きが違うが、芸術作品を観覧するべく足繁く人々は通う。
「まぁ、あの女の酔狂な客もいるしな」
フルールは機嫌が良いと、シルヴィアの墓の前で歌を披露する。
シルヴィアのためだけに歌っているのだが、それを盗み聞きしてでもフルールの歌声を聴きたいと庭園の散策目的と称して、邸宅の裏にある森へと侵入してくるものも少なくない…。
「入園料は頂いていますから…。無下にもできませんしね」
ルーネはエメヴィベール伯爵邸を領地民に対して無料解放していたものの、王都や他領地から訪れた者に対しては、音楽院や孤児院の支援を名目として庭園を観覧するための料金を回収していた。
フルールには上客が多く、遠くから足を運んでまで、その日に聴けるかどうかも分からない歌のために客たちは金を落としていく。
アシルはファイエットを抱きあげた。
ファイエットはアシルの胸へと顔を埋めた。どうやら眠たかったようだ。うつらうつらと瞼が静かに開閉していた。
アシルは愛おしそうにファイエットへ眼差しを注ぐ。ルーネはその姿が不思議でならない。
アシルにとって、ファイエットは恋敵とその愛人の娘だ。憎くはないのだろうか…。
ファイエットはその名の通り、妖精のように可愛らしい少女だ。父親譲りの金髪に翡翠の瞳、容姿は王都で至宝の歌姫であった母にそっくりである。
表情は乏しいものの、そのうち背中へ透明な虹色の羽を生やすのではないかと思えるほど、神々しさも持ち合わせている。
ルーネは頭を左右に振った。
『子供に罪はない。アシル様はそれを分かっていらっしゃるのだ…』
ルーネの身長にまだ及ばないアシルへ視線を落とすと、アシルは小さく呟いた。
「あの女は…。本当に愚かな女だ…。大切な宝がすぐそこに存在するというのに…」
眉間に皺を寄せてアシルは振り返り、墓の前でずっと喋っているフルールへ視線を向けた。
「えっ?」
怪訝そうにルーネが首を傾げたのを認め、アシルは笑った。
「いや、何でもない…。今日のお昼は何かな?」
「えっと…。今日はですね…。パン・ベルデュってシェフが言ってました…」
ファイエットが小さな寝息を立てている。
アシルとルーネは声を落として、昼食の内容を語らった。
【本編完結】




