夫の裏切り
「奥様!どうなされました!?」
顔面蒼白なシルヴィアは自身の身体を支えるのも困難なほどふらついていた。侍女のイーダは慌ててシルヴィアへ駆け寄る。
シルヴィアは手元に封筒を握りしめていた。
それはフルールから届いた書簡だ。フルールは王都へ旅立ってから、何度もシルヴィアへ近況を知らせる手紙を綴っていた。
フルールはオペラ歌手として有名になった今でもシルヴィアを慕っており、シルヴィアはフルールの手紙を楽しみにしていた。
だが、この度は違った…。
手紙にはラースと一夜を共にした旨を事細かに書いてあった。
痛くてたまらなかったが、シルヴィアの代わりに務めを果たしていると思えば我慢ができたとも…。
シルヴィアは足元から何かが崩れていく感覚に襲われた。
学生時代…。シルヴィアに隠れて女性と関係を持っていたラース…。
『あぁ…。あの人は…。あの頃から変わっていないんだわ…』
夫は巧みな言葉で無垢なフルールを騙し純潔を奪ったのだろう…。シルヴィアは読んだ文面から推察した。
それでも、シルヴィアはフルールを許せなかった…。
『私…。今日も全身全霊でラースの情熱を受け止めましたの…』
ラースとの淫らな夜の内容を羅列したフルールの手紙はその後も続いたからだ。
シルヴィアはそれまでフルールへ労いの返事を送っていたが、ラースとの関係を知って以降はしたためることはなかった。
フルールは王都の大劇場で息をつく間もなく舞台へ立ち、人々の熱狂が冷めやらぬ中、振り返れば…。7年近くも走り続けていた。
そのため、フルールはエメヴィベールの地へ帰省するまでの暇がなく、帰れたとしてもトンボ返りで片手で数えられるほどしかなかった。
そのような仕事に追われている日常のさなか、シルヴィアから届く便りはフルールの励みになった。
ところが半年ほど前からシルヴィアの手紙が途絶える。フルールは返事を待っていたが、一向に届く気配がない。
『旦那様がお母様の代わりに慰めてほしいと…。私が旦那様に抱かれたときからだわ…。旦那様は周囲にこの事は内緒にって…。仰っていたけど…』
フルールは愚かにもシルヴィアへ報告した。褒めてもらえると思ったからだ。
男女の営みについて誰からも教えてもらえぬまま、ラースに蝶よ花よと扱われ、フルールは無垢なゆえに無知であった。
『旦那様に言われたとおり、内緒にしていた方が良かったのかしら? けど、お母様には全てお伝えしたいわ…』
痺れを切らしたシルヴィアはラースへ故郷に戻りたいと懇願した。
「奥様!奥様!私、少しばかりお休みを頂いたので戻って参りましたの」
劇場の改築工事でフルールはひと月の長期休暇が許された。長く留守にしていたラースと共にエメヴィベール伯爵領へ戻ってきた。
フルールの手紙の存在をラースは知らない。
ラースはフルールへ二人の関係を秘密にしておこうと言い含めていた。シルヴィアへ報告しているなどと想像だにしていなかったのだ。
だから、いつもならば…。
笑顔で迎えてくれる妻が不機嫌な様子に違和感を覚えた。
シルヴィアは二人を認めて一言だけ残す。
「そう…」
「シルヴィ…。フルールは貴女に会いたい一心で、多忙なスケジュールの中、帰省したのだから、優しくできないのか?」
シルヴィアは夫の横顔を垣間見て悲しくなった。シルヴィアどころか、いつか褒めてくれた庭園の花にさえ見向きもしない。
ラースの瞳に映っているのはフルールだ。
ラースにとっての愛でる花はフルールだけなのだ。
絶望を感じながらシルヴィアは告げた。
「私…。疲れてますの…。貴方の屋敷なのですからお好きなようにお過ごしになさって…」
「奥様…。私がお慰めしますわ…。昔のように奥様のために心を込めて歌わせてください」
シルヴィアは冷ややかな視線でフルールを一瞥して答えた。
「結構よ…」
シルヴィアの態度にフルールの瞳は潤んでいた。
「そんな冷たい態度を取らなくても良いだろう?フルールは貴女が大好きなのだから…」
フルールの腰へ手を添えるラースの眼差し、ラースへ向かう媚びた上目遣いのフルールの微笑み…。
使用人たちでさえ、二人の関係をそれとなく察しているのだ。フルールの手紙がなくとも、シルヴィアはラースの妻である。すぐに勘づいただろう…。
「どうして…。奥様は私を見てくださらないのかしら…」
「体調が思わしくないのだろう…」
ラースは首を傾げた。客室へフルールを案内したまま、夫婦の寝室へラースが足を運ぶことはなかった。
孤児院の院長がラースの一存で解雇された。
名義の上ではエメヴィベール伯爵の管理下にある孤児院であったが、実質、シルヴィアが運営に携わっている。
孤児院の院長は人柄も良く、子供たちを我が子のように愛し慈しんできた。
「何があったというの…」
シルヴィアは執事長から報告書を受け取り絶句した。
報告書に書かれていた事は…。
フルールが孤児院へ慰問した。
子供の頃、シルヴィアの訪問がフルールの喜びだったように何か子供たちへ希望を与えたいとフルールは子供たちへ夢を語った。子供たちは可憐なフルールに夢中になった。
問題は院長がフルールへ苦言を呈したことだった。
「ラース様…。私の存在が奥様を苦しめているのですか?」
「誰からそんなデタラメを聞いた?」
「…」
「言いなさい」
「…。院長先生です。旦那様との関係を改めなければ、奥様は苦しむだろうと…」
どこから話が漏れたのか…。ラースは焦り、思わず声をあげた。
「何を馬鹿な!」
「旦那様…。私が旦那様をお慰めすることは奥様が辛い思いをされるのですか?」
「何を言う?院長は間違っている…」
「それならば、何故…。奥様は私と会ってくださらないの?」
一介の孤児院の院長でさえ見抜いていることだ。妻は既に認知しているだろう…。
『だから…。シルヴィはあのような態度を取ったのか…』
ラースの背中へ汗が流れた。
「多分…。忙しいんだろう…。音楽院の資金繰りで大変なのではないか…。領民からの税収も限りなく最小限に留めているし、個人資金で運営するには限界もあるだろう…」
苦しまぎれの言い訳だったが、フルールは素直に頷く。ラースは純粋なフルールへ嘯いた。
「君がもっと有名になれば、音楽院へも寄付金が集まるに違いないよ。さぁ、シルヴィアのためにも早く王都へ戻って、民衆を君の歌で魅了してくれ!」
「そうすれば…。奥様はお喜びになられる?」
「もちろんだとも…」
「なら…。私は奥様のために王都で歌いますわ」
馬車の窓から流れゆく景色はゆっくりと故郷から遠く離れていく。フルールは滞在予定を大幅に減らして王都への帰路についた。
最後までシルヴィアとまともに言葉を交わすこともできず、フルールは悲しかった…。
『お母様とお話できなかったのは寂しいけれど…。お母様のご期待に添えるため、私が頑張らなければ…』
そして、フルールは多忙な日々に再び身を投じたのだ。




