夫の遅き恋
「ここの景色はいつも変わらないね。この美しい庭園は何度見ても言葉を失う…」
そう感嘆して領宅のバルコニーから庭園を眺めていたラースだったが、長閑な田舎暮らしは性に合わなかったらしく…。結婚から3年後には王都ノアゼリスの邸宅へ拠点を移した。
空気が綺麗なエメヴィベール伯爵領で暮らす方が身体に負担もかからないだろうとシルヴィアはそのままこの地で暮らしている。
ラースはシルヴィアのために頻繁に戻ってきていたのだが、5年の月日が過ぎても二人は子供に恵まれなかったこともあり、だんだんと足が遠のいた。
ラースはシルヴィアの身体を慮って早々に後継者作りを諦めた。
クレプスキュール侯爵とラースの考えは対立することになったが、シルヴィアへの負い目もあるラースはエメヴィベール伯爵の傍系から養子を迎えることにしたのだった。
ラースは久しぶりにエメヴィベール伯爵領へ戻っていた。
シルヴィアが個人資産で立ち上げたエメヴィベール音楽院の発表会へ出席するためだ。
エメヴィベール音楽院が設立されてから発表会は何度も開催されていたが、当初、ラースは音楽院へ興味を抱かなかった。
「エメヴィベール音楽院に素晴らしい歌姫がいる!」
ある友人から興奮気味にラースは話を持ちかけられた。友人はエメヴィベール伯爵庭園へ夫婦揃って訪れたと語る。
シルヴィアは邸宅の庭園を無料開放しており、貴族も平民も入園可能だ。
庭園は王都でも好評を博しており、エメヴィベール伯爵領は客足が絶えなかった。一大観光地となっていたのだ。
それに加えて、最近は孤児院出身の歌姫が目覚ましい活躍をしているらしく…。
「言葉では言い尽くせないほどだ…。あんなに人々を感激させる歌姫は二度と出てこないのではないだろうか!」
それほどの逸材であればその歌を聴いてみたいとラースは考えた。
もし、その娘の才能が本物であれば、王都の格式高い劇場へ紹介して音楽学院の名前を世に轟かすことも可能だ…。それは、きっとシルヴィアのためにもなる。
舞台で一番の輝きを放っていた少女を一目見た途端、ラースは雷に打たれたかのような衝撃を受けた。
「あの子は?」
ラースの隣で観劇していたシルヴィアは嬉しそうに告げた。
「フルールですわ…。私が後援している子です」
フルールの歌声は予想を上回るものだった。
彼女の凛として澄み渡った歌声は誰しもの心へ深く突き刺さる。
シルヴィアの美しさには敵わないが、フルールの亜麻色の髪もオリーブのような瑞々しい瞳も見ているだけで清々しい気持ちになり癒された。
溌剌とした生命力溢れる象牙色の肌が艶めき、不意に触れたくなる衝動が湧き起こる。
フルールが満面の笑みを見せるたびに、白い歯が覗き、爽やかな一陣の風が吹き抜けたかのような動揺がラースの心を巡っていった。
『フルールが欲しい…』
自ら求めた恋はフルールが初めてだった…。ラースは一回り以上も年齢の離れたフルールへ恋に落ちていた。これがラースの初恋だった…。
「彼女を王都の舞台で歌わせてあげたいと思うのだが…どうだろう?」
ラースはシルヴィアへ提案した。シルヴィアは難色を示す。
「それはあの子、次第だわ…。あの子が望まないのであれば、別に王都でなくても…」
シルヴィアは孤児院の子供を我が子のように慈しんできた。フルールも例外ではない。
「私は奥様のお側を離れたくありません。恩をお返ししたいのです」
ラースはフルールへ訴えた。
「君が有名な歌手になれば、シルヴィアの力になる…。シルヴィアは孤児たちがいつか自分の力で立派に自立して巣立つことを望んでいるからね。だから、君が成功すればその姿に彼らは自身を重ねて勇気をもらえる…」
エメヴィベール音楽院は主に音楽中心の教育を行なっているが、ただそれだけを教えているのではない。
音楽院を訪れる観客へ歌劇を披露するにあたり、監督、脚本家、美術など舞台を支える存在が必要だ。
歌が好きでない、人前に出たくないなど様々な性格の子供たちがおり、その子の性格に適した役目を与えていた。そのためのスキル習得を授業課程に組みこんでいる。
いつしか、絵や彫刻が得意だった者は芸術家を志したり、衣装制作に秀でた者はデザイナーを目指したりと各々の道を邁進していた。
フルールが王都で成功すれば、その子供たちの灯火にもなる。
シルヴィアはラースの言葉に反論できなかった。
「奥様が…。本当に…」
「シルヴィアは君らの幸せを心から望んでいる…」
そして、フルールはラースに導かれて王都へ向かった。華やかな劇場でフルールは押しも押されもせぬ歌姫となったのだ。
「旦那様!」
「今日の舞台も素晴らしかったよ。連日、満員で劇場主も喜んでいる。もちろん、ここへ投資をしている僕も嬉しいよ」
「奥様は…。私のことをお聞きになっているかしら?」
「もちろん!シルヴィも喜んでいるさ!」




