第7話:戦慄の泥スープと、スパイスの魔術師
俺は震える手でスプーンを持ち、灰色の液体を口へと運んだ。
ズズッ。
舌に触れた瞬間、ザラリとした感触が広がった。
それは、雨上がりのグラウンドの水溜まりを啜ったような、強烈な土の味だった。
そして、奥歯で噛み締めた瞬間。
ガリッ。
脳天に響くような硬い音がした。
砂じゃない。もっと大きい固形物だ。俺は慌てて口からそれを取り出した。
指先に乗っていたのは、小豆ほどの大きさがある小石だった。
「……ッ、い、石が……」
俺が引きつった顔でそれを見せると、ゴウダがバシッと俺の背中を叩いた。
『おおっ! その小石を飲み込むとな、胃の中で他の食いモンとぶつかって、すり潰してくれるんや!』
ゴウダは親指を立ててニカッと笑った。
俺は絶句した。鼻に抜けるのは、獣の体臭を煮詰めたような油の匂いと、ドブ川のような腐敗臭。
味付けは……ない。あるのは素材から滲み出た微かな塩分と、圧倒的な「泥」と「小石」の主張だけだ。
俺は白目を剥きそうになりながら、強引に液体を胃に流し込んだ。小石はこっそり捨てた。
胃袋がドスンと重くなる。
『どや、レン! 精がつくやろ! これがオーク族伝統のスタミナ食や!』
ゴウダが期待に満ちた声で聞いてくる。
俺は口元の泥を拭いながら、引きつった笑みを浮かべた。
「あ、ああ……すごいな。大地の……味がする」
『せやろ! 泥ごといったほうがミネラル豊富なんや! さあ、具も食うてくれ! 底の方に煮崩れた肉が沈んどるはずや!』
ゴウダが俺の椀を指差す。
俺はスプーンで底をさらった。ドロリとした感触と共に、灰色の塊が浮き上がってくる。
……これが肉か? 泥にまみれて正体がわからないが、皮には剛毛が残っているし、血管もそのまま見える。下処理という概念が完全に欠落している。
俺はスプーンを置いた。
無理だ。これ以上は生物としての防衛本能が許さない。
素材が悪いわけじゃない。この森の豊かな土壌で育った根菜、野山を駆け回った猪。本来なら極上のシチューになるはずの彼らが、ただの生ゴミ入り泥水にされている。
これは「料理」ではない。「破壊」だ。
元・勇者パーティの料理担当として、そして一人の食いしん坊として。
これを見過ごすことはできない。
俺は椀を置き、立ち上がった。
「ゴウダはん。……ちょっと、俺にその鍋を貸してくれないか?」
『え? 鍋? まだぎょうさん残っとるから、おかわり自由やで?』
「いや、食べるんじゃない。……俺が魔法を使って、このスープをもっと美味しくしてみせる」
俺の言葉に、周囲のオークたちがざわめいた。
『美味しくする? これ以上か?』
『今でも十分ご馳走やのに、魔法を使うんか?』
彼らは半信半疑だが、俺はゴウダの目を真っ直ぐに見た。
「頼む。俺に作らせてくれ。このままじゃ、せっかくの獲物が泣いてる」
『……分かった。レン兄ちゃんがそこまで言うなら、好きにしてええで』
ゴウダが場所を譲ってくれた。
俺は焚き火の前に立つと、腕まくりをした。
まずは現状の惨状を確認する。大鍋の中は、泥と灰汁と小石で地獄の様相だ。
俺は近くにいた小太りのオーク――村の料理番を手招きした。
「そこのあんた、ちょっと手伝ってくれ。新しい鍋と水を用意してくれ」
『へ、へい! 任しとき!』
俺は新しい鍋を用意し、そこにスープの上澄みだけを慎重に移した。底に沈殿している泥や砂利は捨てる。
それを見ていた料理番が声を上げた。
『ああっ! 兄ちゃん、何しとるんや! そこが一番栄養ある「泥エキス」やのに! 小石も捨ててもうた!』
「泥に栄養はない。小石も人間には不要だ。あるのはジャリジャリ感だけだ」
俺はバッサリと言い放ち、次に具材を一度すべて取り出した。
煮崩れた根菜と、臭みの強い肉。
俺は道具袋から取り出した「カオリ草(消臭効果のあるハーブ)」を入れた湯で、具材を洗い始めた。
表面のぬめりと泥を落とし、こびりついた灰汁を洗い流す。
『うわぁ……肉洗うてもうた。味が抜けるんちゃうか?』
「抜けるのは臭みだけだ。見てろ」
洗った具材を、上澄みのスープに戻す。
そして火にかける。
「ここからが本番だ」
俺は道具袋の奥底を探った。
勇者パーティから追放される時に持っていた、なけなしの私物。
小さな皮袋に入った「岩塩」の欠片と、森で採取して乾燥させておいた「シビレタケ」だ。
グツグツと煮立つ鍋。
立ち上る湯気からは、まだ獣臭さが残っている。
「まずは臭み消しだ」
俺はカオリ草の束を刻み、鍋に放り込んだ。
爽やかな香りが広がり、獣臭を包み込んでいく。
ゴウダが鼻をヒクつかせる。
『お? なんや、森の匂いがしてきたぞ』
次に、シビレタケを細かく砕いて入れる。
「これで味にパンチが出る」
そして最後。
俺は岩塩の塊をナイフで削り、パラパラと鍋に投入した。
塩分濃度の調整。これが味の輪郭を決める。
スープに溶け込む白い結晶を見つめながら、俺はお玉で味見をした。
……まだ薄い。もう少しだ。
俺はさらに塩を削り入れる。
『兄ちゃん、そんな白い粉入れて大丈夫か? 毒やないか?』
「これは塩だ。料理の命だ」
味が決まった瞬間、俺は火から鍋を下ろした。
全体を大きくかき混ぜ、味を馴染ませる。
フワァァァ……。
鍋から立ち上る湯気が、風に乗って広場へと流れていく。
その香りは、先ほどの泥臭さとは似ても似つかないものだった。
肉の濃厚な脂の甘み、根菜の土の香りが良い意味で残り、ハーブとスパイスが全体をキリッと引き締めている。
暴力的なまでに食欲を刺激する香りだ。
オークたちが一斉に鼻をヒクヒクさせ始めた。
『ん? なんやこの匂い……』
『めちゃくちゃええ匂いするぞ! さっきのと全然ちゃう!』
『レン! お前、鍋に何入れたんや!? ヤバイ薬か!?』
俺は小皿に少し取って、もう一度味見をした。
……うん、いける。泥臭さは消え、素材の味が生き返っている。シビレタケのピリ辛さがアクセントになって、次の一口を誘う。
これなら、人間の街の食堂に出しても恥ずかしくない。
俺は自信を持って、椀によそい、ゴウダに差し出した。
「食べてみてくれ。これが俺流『特製・大地のスープ改』だ」
ゴウダは椀を受け取り、琥珀色に澄んだスープを不思議そうに覗き込んだ。
『泥が入ってへん……。こんな透明なスープ、味がするんか? 水みたいやぞ』
彼は半信半疑で、恐る恐る一口啜った。
――カッ。
ゴウダの動きが、彫像のように止まった。
充血していた目が、限界まで見開かれる。
『……!?』
彼は無言で二口、三口とスープを流し込む。スプーンの速度が上がっていく。
具材を噛み締め、スープを飲み干し、最後の一滴まで舐め取る勢いだ。
そして、空になった椀を天に突き上げ、夜空に向かって絶叫した。
『う、美味ァァァァァァァァいッ!!』
その声は、村中に響き渡るほど大きく、魂の震えが乗っていた。
『なんやこれ!? 味が! 味が爆発しとる! 口の中で肉と野菜が相撲取っとるでぇぇ! 旨味の塊や! 今までワシらが食うてたんは、ただの泥水やったんか!』
ゴウダの絶叫を聞いて、他のオークたちが我慢できずに押し寄せた。
『えっ、そんなにか!? ゴウダだけズルいぞ!』
『ワシにも食わせろ! その匂いだけで飯三杯いけるわ!』
『並べ並べ! 喧嘩すな!』
俺は次々と椀によそって渡していく。
食べた者たちは皆、一様に目を見開き、感動の声を上げた。
『うめぇぇぇ! なんやこのピリッとするのは! 体が熱なるわ!』
『野菜が甘い! 肉が柔らかい! これが同じ材料なんか!? 魔法や、錬金術や!』
中には、美味しさのあまり涙を流して地面を叩く者もいる。
たかがスープ一杯でここまで喜ばれるとは。彼らの食生活がいかに過酷だったかが分かる。
先ほどの料理番のオークが、俺の手を両手で握りしめてきた。
『レン殿! いや、師匠! 教えてください! どうやったらこんな味になるんですか!? ワシ、毎日これ作ってたのに、全然違うもんになっとる!』
「あー、コツは下処理だよ。野菜の皮を剥いて、肉は一度湯通しして血抜きをすること。あと、灰汁はこまめに取ることだ」
『皮を剥く……? 血抜き……? そんな手間をかけるんですか?』
「ああ。手間をかければ、食材は必ず応えてくれる。泥や血は味の邪魔をするだけだからな」
『そ、そうやったんか……! 泥こそ栄養やと信じとったわ! 目からウロコや!』
料理番が感涙にむせぶ中、大鍋のスープはあっという間に空になった。
「おかわり!」「もっと作ってくれ!」の大合唱が起きる。
「分かった分かった。すぐに次を作るよ。材料はあるからな」
俺は笑顔で応え、次の調理にかかろうとして――動きを止めた。
道具袋の中に手を入れる。
指先が空を切る。
「……あ」
俺は顔面から血の気が引くのを感じた。
皮袋の中が、空っぽだ。
さっきのスープで、調子に乗って岩塩をすべて使い切ってしまったのだ。
『どうしたんや、レン兄ちゃん? はよ次作ってくれや! 口の中がもっと欲しがっとるんや!』
ゴウダが涎を垂らしながら急かしてくる。
俺は冷や汗を流しながら、彼らの方を向いた。
「ご、ゴウダはん……。非常に言いにくいんだが……」
『なんや? 野菜が切れたか? 肉ならなんぼでも狩ってくるで!』
「いや、違う。……『塩』だ」
俺は空になった皮袋を逆さまにして見せた。パラパラと数粒の粉が落ちるだけだ。
「この味の決め手である『塩』が、今ので切れてしまった」
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