第3話:常闇の姫君と、禁断の紫キノコ
雨が上がり、朝の光が差し込む「魔の樹海」は、昨夜の不気味さとは打って変わって、生命力に溢れていた。
木漏れ日が、濡れた苔の緑を宝石のように輝かせ、巨大なシダ植物の葉先から雫がキラキラと滴り落ちる。
俺は隣を歩く巨躯を見上げた。
ハイ・オークのゴウダ。
身長2メートル超、岩のような緑色の筋肉、口から天を突く二本の牙。
見た目は完全に「村を襲う魔物の群れのボス」そのものだが、今の彼はスーパーの袋詰め放題セールに向かうオカンみたいなウキウキした顔をしている。
『おっ、見ろやレン兄ちゃん! あそこ見てみ! 宝の山や!』
ゴウダが太い指で指し示したのは、大木の根元だ。
そこには、毒々しい紫色のキノコがびっしりと群生していた。
傘の部分には不気味な赤い斑点があり、そこから緑色の粘液がドロリと垂れている。
俺は思わず後ずさった。
「うわっ……なんだあれ。凶悪すぎる色だろ。絶対に触っちゃいけないやつだ」
『アホ言いな。あれこそ『シビレタケ』や。市場で買うたらええ値段する高級品やで』
ゴウダは嬉々として駆け寄ると、腰からナイフを取り出した。
「シビレタケ? 名前からしてヤバイだろ。冒険者ギルドのマニュアルだと『接触厳禁』のドクロマークが付いてた気がするぞ」
『人間はなんでも大げさやなぁ。確かに生で食うたら舌が麻痺して三日は喋れんようになるけどな、しっかり火を通せば、毒気が飛んで絶品のスパイスになるんや』
ゴウダは慈しむような手つきで、ドロドロしたキノコを切り取り、麻袋へ放り込んでいく。
『レン兄ちゃんも手伝ってくれ! 袋いっぱいに詰め込むで! あ、手袋せな手が痺れて箸持てんようなるから気ぃつけや』
「箸が持てなくなるスパイスって、刺激が強すぎないか……?」
俺はおっかなびっくり、ゴウダから借りた厚手の革手袋をして収穫を手伝った。
近づいてみると、確かにスパイシーな、鼻をくすぐるような独特の香りがする。唐辛子と山椒を混ぜて、さらに森の香りを足したような匂いだ。
勇者アレックスたちは「毒だ」「穢れだ」と言って見向きもしなかったが、知識さえあれば、ここは宝の山なのかもしれない。
偏見を捨てれば、世界はこんなにも豊かで、美味しい可能性に満ちているんだな。
そんな哲学的な感慨に浸りながら、黙々とキノコを摘んでいた、その時だった。
ヒュンッ!
風を切る鋭い音が鼓膜を震わせ、俺の目の前の地面に、一本の漆黒の矢が深々と突き刺さった。
矢羽にはカラスのような黒い羽根が使われており、矢尻からは紫色の煙が立ち上っている。
「うおっ!? て、敵襲か!?」
俺は尻餅をつきそうになった。あと数センチずれていたら、俺の手は地面に縫い付けられていただろう。
ゴウダが瞬時に反応し、背負っていた棍棒を構えて俺の前に立つ。
先ほどまでの「キノコ採りのオッチャン」の顔は消え、歴戦の戦士の顔になっている。全身から放たれる殺気が、周囲の空気をビリビリと震わせた。
『誰や! ワシらのシマで挨拶なしに矢ァ撃ち込んでくる奴は! 出てこんかい!』
ゴウダが一喝すると、前方の木々がざわめき、三つの人影が音もなく舞い降りた。
スタッ。スタッ。スタッ。
着地音すらほとんどしない。
そこに立っていたのは、褐色の肌に銀色の長髪を持つ、美しいダークエルフの少女たちだった。
だが、その出で立ちは異様だった。
真ん中に立つリーダー格の少女は、黒いボンテージ風の衣装に身を包み、無意味に多いベルト、革のチョーカー、眼帯、そして片腕には包帯がグルグル巻きにされている。背中には漆黒のマントを羽織り、手には禍々《まがまが》しい装飾の杖を持っていた。
その両脇に控える二人もまた、顔の半分を覆う包帯や、鎖がついた首輪、巨大な鎌など、独特な装備で身を固めている。
三人は着地と同時に、ビシッ! と戦隊ヒーローのような決めポーズを取った。
真ん中の少女は顔を伏せ、右側は天を仰ぎ、左側は背を向ける。
練習したわけではないだろう。彼女たちにとって、これが「最も自然でカッコいい立ち方」であり、呼吸をするようにポーズが決まるのだ。
真ん中の眼帯少女が、バサァッ! とマントを翻し、右目を覆った指の隙間から俺たちを睨みつけた。
「ククク……。愚かなる緑の肉塊と、迷い子の人間よ……。よくぞ我が庭園『常闇の揺り籠』に、土足で踏み入ったものだな……」
少女の声は低く、威厳に満ちていた。
一切の照れがない。彼女は大真面目だ。
その言葉の端々から、強大な魔力が漏れ出している。ただ者ではない。
ゴウダがごくりと唾を飲み込む音が聞こえた。
『……ダークエルフか? えらい殺気やぞ。それにあの魔力……タダモンやない。『常闇の揺り籠』って、ここはお前らの聖域なんか? 知らんと入ってもうたわ』
少女はゴウダの問いには答えず、杖の先を俺たちが収穫したキノコの山に向けた。
「我が名はセレーネ! 偉大なる『常闇の氏族』の長が娘にして、次期統率者……そして、古の盟約に従い世界を監視する『黄昏の断罪者』なり!」
彼女は高らかに名乗りを上げた。
族長の娘。つまり、この森のエルフたちを束ねる姫君だ。
彼女は続けた。
「貴様らが強奪せしその『魂を蝕む紫の果実』は、我が禁断の魔術の触媒なり! それを持ち去ることは、即ち世界を混沌の炎に包むトリガーを引くことと同義と知れ!」
右側の少女(包帯で口元を隠している)が、短剣を構えて続く。
「姫様の御言葉は絶対……。我ら『深淵の三連星』の領域を侵す者には、永劫の闇を与えるのみ……。覚悟はいいか、愚者どもよ」
左側の少女(鎖鎌を持っている)も、冷酷な笑みを浮かべて言った。
「逃げ場はないよ……。キミたちの魂、私の鎖で『魂縛』してあげる……ククク。悲鳴を上げる暇もないかもね」
ゴウダの顔色が、緑色から青ざめた土気色へと変わっていく。
『ひぃっ! なんやて!? 族長の娘か!? しかも『深淵の三連星』やて!? ヤバイ奴らや! レン兄ちゃん、これアカンやつや! キノコ返そう! 呪われるわ!』
ゴウダは完全にビビっている。
無理もない。彼女たちの迫真の態度と魔力、そして難解な言葉遣いは、言葉の通じない相手からすれば「死の宣告」にしか聞こえないだろう。
だが。
俺のユニークスキル【万国理解】は、その威圧的な言葉の裏側にある「真意」――すなわち、彼女たちの深層心理と魂の叫びを、残酷なほど正確に翻訳して俺の脳内に流し込んでいた。
その音声は、先ほどの荘厳な宣言とは似ても似つかないものだった。
俺の耳に届いた翻訳音声は、こうだ。
『――ちょっと! あんたたち! ここ、あたしの秘密のキノコスポットなんだけど! 勝手に採らないでよ! そのシビレタケ、今夜のシチューに入れて食べるの楽しみにしてたんだから! 横取りしたらマジで許さないわよ!』
『――そうよそうよ! セレーネちゃんが昨日から「明日はシビレタケ食べるんだ」って楽しみにしてたんだから! 早く返してよ、お腹すいたのよ!』
『――あたしたち、朝から何も食べてないんだからね! そのキノコがないと昼ご飯抜きになっちゃうじゃん! いじわるしないでよ! お腹と背中がくっつくぅ!』
……。
俺は天を仰いだ。重力が倍になったような脱力感が俺を襲う。
世界を包む混沌とか、魂縛とか、全部ただの「空腹を訴える女子の悲鳴」じゃないか。
どうやらこのダークエルフたち、全員が素でこういう思考回路らしい。カッコつけている自覚すらない、ナチュラル・ボーン・中二病だ。
彼女たちにとって「キノコ」は「禁断の果実」であり、「シチュー」は「闇の晩餐」なのだ。
セレーネはさらに言葉を続けた。右腕の包帯を押さえ、苦悶の表情を浮かべてうずくまる。
「くっ……! 右腕の『黒龍の呪い』が疼く……! 貴様らがその果実を置いて立ち去らぬならば、我はこの忌まわしき封印を解き、この森ごと貴様らを虚無の彼方へ葬り去らねばならぬ……!」
右側の少女も頭を押さえる。
「くっ……私の『邪眼』も共鳴している……! これ以上は抑えきれない……! 世界が……割れる……!」
ゴウダが悲鳴を上げる。
『黒龍!? 邪眼!? ドラゴン召喚する気か!? アカン、逃げようレン兄ちゃん! ワシらじゃ勝てん! 村ごと焼かれる!』
俺の脳内翻訳:
『――あーもう! 昨日転んで擦りむいたところが痛い! 包帯キツく巻きすぎたかな? 早くキノコ置いてどっか行ってよ! じゃないと、あたし本気で泣くわよ! 泥団子投げつけるくらいのことはするわよ!』
『――あたしは昨日夜更かしして小説読んでたから頭痛いの! 早く帰って寝たい! 眩しいの嫌!』
……ドラゴン=擦り傷。邪眼=寝不足。
彼女たちは「痛いから帰りたい」「腹減ったから飯よこせ」と言っているだけなのだが、本人たちの脳内変換機能が強すぎて、出力される言葉がすべて世紀末になっているのだ。
このままでは、パニックになったゴウダが先制攻撃を仕掛けてしまうかもしれない。そうなれば、彼女たちも引くに引けなくなって、本当に攻撃魔法(泥団子魔法かもしれないが、威力はあるだろう)を撃ってくる可能性がある。
「誤解」による不幸な衝突。これこそが、人間と魔物の戦争の縮図だ。
言葉が通じないから、恐怖が生まれ、恐怖が暴力を呼ぶ。
俺は一歩前に出た。
ここが翻訳者としての腕の見せ所だ。相手が素でやっているなら、こちらも全力でその世界観に乗っかるのがマナーであり、唯一の解決策だ。
「待ってください、ゴウダはん。彼女たちは戦いたいわけじゃない」
『えっ? でも世界を滅ぼすとか言うとるで? 殺気もすごいで?』
「あれは……まあ、一種の『高貴な儀式』みたいなもんだ。族長の娘さんらしいしな。俺に任せてくれ」
俺は震える足を隠し、セレーネたちに向かって恭しく一礼した。
まるで王宮の舞踏会で貴婦人を誘うかのように、優雅に。
「お初にお目にかかります、『常闇の氏族』の姫君、そして『黄昏の断罪者』セレーネ様。並びに『深淵の三連星』の皆様。我々は決して、貴女様の神聖なる『庭園(秘密基地)』を荒らすつもりはありませんでした」
俺が流暢なエルフ語――それも彼女たちが好む古風で詩的な言い回し――で語りかけると、三人の動きがピタリと止まった。
眼帯の下の瞳が、驚愕に見開かれる。
「ほ、ほう……? 貴様、人間か? 我が『深淵の言語』を理解するというのか?」
「はい。風の噂に聞いておりました。深淵の理を解する高貴なる一族がいると。……貴女様方が求めておられるのは、その『紫の果実』……そして、それを用いて行う『闇の晩餐』の儀式ですね?」
俺の言葉に、セレーネたちはお互いの顔を見あった。
『――う、嘘っ!? 通じた!? あたしのカッコイイ言い回しを理解してくれた!? しかもシチューのことまでバレてる!? この人間、何者!?』
『――やだ、あたしたちのセンス、人間に理解できるの!? 嬉しい! いつもパパには「何言ってるか分からん」って言われるのに!』
『――でも「三連星」って呼ばれた! ちょっと嬉しいかも!』
心の声が動揺しまくっている。
セレーネは咳払いをし、慌ててマントを整え、クールなポーズを取り直した。
「フッ……。まさか下等な人間風情に、我が思考を読まれるとはな。……よかろう。貴様のその洞察力と、深淵への理解に免じて、話を聞いてやらんでもない」
よし、対話のテーブルについた。
ここからは交渉だ。彼女たちの胃袋を掴み、かつそのプライドを満たす提案をする必要がある。
俺はゴウダが持っている麻袋を示した。
「我々も、この『果実』の秘められた力と価値を知る者です。もしよろしければ……折半しませんか? 貴女方の分も十分にあります」
「せ、折半だと……? 我らに施しを与えるつもりか?」
セレーネが眉をひそめる。
「いいえ、共闘です。それに、我らが誇る戦士ゴウダは、この果実の『真の力の引き出し方(美味しい調理法)』を熟知しています。ただ煮込むだけでは得られない、極上の『刺激』と『混沌の旨味』をご提供できますよ」
セレーネの喉が、ゴクリと鳴った。
取り巻きの二人も、「混沌の旨味……」「スパイス……」と呟きながら涎を啜っている。
やはり食欲には勝てないらしい。
「……ふん。貴様らがそこまで言うなら、王族の慈悲をもって許可しよう。その『真の力』とやら、我が舌で厳正に査定してやる。もし不味ければ、即座に貴様らを処刑し、その魂を魔界の最下層へ送るがな!」
「ありがとうございます。では、早速『儀式』の準備に取り掛かりましょう」
俺はゴウダに目配せをした。
ゴウダはまだ半信半疑だが、俺の自信ありげな態度を見て、棍棒を下ろした。
『レン兄ちゃんが言うなら信じるけど……ほんまに大丈夫なんか? 族長の娘さんやぞ? 粗相したら戦争やで?』
「大丈夫だ。彼女たちはただ、腹が減っているだけだから」
俺は道具袋から携帯用の鍋と調理器具を取り出した。




