第25話:桃色の霧と、芸術家の苦悩
俺はログハウスの執務室で、山積みの書類と睨めっこをしていた。
「……終わらないな」
俺はペンを回しながら独り言を漏らした。
村が発展するのはいいことだが、それに比例して事務作業が爆発的に増えている。在庫管理、シフト調整、コボルト商会との取引記録。
『レン兄ちゃん! 休憩にしよ! 差し入れ持ってきたで!』
ドスドスという足音と共に、ゴウダが部屋に入ってきた。
手にはお盆を持ち、そこには冷えた果実水と、セレーネが焼いたドクロ型のクッキーが乗っている。
「ありがとう、ゴウダはん。助かるよ。……ん? なんか甘い匂いがしないか?」
『おっ、分かるか? さっきから外の空気がえらい甘ったるいんや。なんかこう、熟れた果実みたいな……』
ゴウダが鼻をヒクヒクさせ、窓の方へ近づいた。
『なんやろな、この匂い。嗅いでると、なんか……身体がポカポカしてくるわ』
「ポカポカ? 風邪か?」
『いや、ちゃうねん。こう、胸の奥がキュンとするような……。あぁ、嫁さんの顔が見たなってきたわ』
「は?」
俺は書類から顔を上げた。
ゴウダの顔が赤い。それも、怒っている赤さではなく、だらしなく緩んだ赤さだ。
『なぁ、レン兄ちゃん。愛って、素晴らしいと思わんか?』
「……ゴウダはん? 急にどうした? 頭でも打ったか?」
『打ってへんわ。ただ、世界が輝いて見えるんや。あぁ……嫁さんに会いたい。今すぐ抱きしめて、愛してるって叫びたい……』
ゴウダが窓枠に手を突き、遠い目をしながらウットリと呟いた。
「おい、しっかりしろ! 目が据わってるぞ!」
『ええやんか兄ちゃん……。愛こそすべてや……。LOVE&PEACEや……』
ダメだ、思考能力が低下している。
俺は窓の外を見た。
村の入り口の方から、不自然なほど濃い、桃色の霧が流れてきているのが見えた。
「霧……? まさか、毒か?」
『毒やない……これは愛の吐息や……』
「寝言を言ってる場合か! 行くぞ!」
俺はゴウダの腕を引き、外へと飛び出した。
◇
外の状況は、さらにカオスだった。
広場にいた屈強なオークたちが、次々とその場に崩れ落ち、桃色の霧の中で悶えていたのだ。
『あぁん……! ハニー、どこや……!』
『母ちゃん……好きやで……! いつもありがとうな……!』
『俺の筋肉……なんて美しいんや……! 抱いてやりたい……!』
阿鼻叫喚、ではない。桃色吐息の地獄絵図だ。
男たちが一様に骨抜きにされ、愛を叫び、あるいは地面とキスをしている。
一方で、女性陣――オークの奥さんたちや、遊びに来ていたダークエルフたちは、比較的正気を保っているようだったが、困惑の色を隠せないでいた。
『ちょっとあんた! しっかりしなさいよ! 昼間っから何寝言言うてんの!』
奥さんオークが旦那を往復ビンタしているが、旦那は『殴ってくれるんか……愛やな……』と逆に喜んでいる始末だ。
重度の精神汚染だ。
「レン!」
霧の中から、黒い影が飛び出してきた。セレーネだ。
彼女は袖で口元を覆い、厳しい表情で俺の元へ駆け寄ってきた。
「無事か? 大気が歪み、因果律が狂い始めているぞ! これは『桃色の煉獄』……! 愚かなる雄の理性を溶解し、獣の本能を解き放つ禁断の呪法だ!」
(意訳:無事!? この霧ヤバイわよ! 男の人をおかしくさせる魔法だわ!)
「やっぱりか。……でも、なんで俺には効かないんだ?」
「貴様には『万象を解する魔眼(翻訳スキル)』が宿っているのだろう? 精神を侵食する言霊は、認知という名の鍵穴を書き換えることで魂に触れる。だが貴様のスキルは、無意識の領域で『誘惑の囁き』をノイズとして断罪しているのかもしれんな」
(意訳:あんた翻訳スキル持ってるでしょ? あれが変な誘惑をシャットアウトしてるんじゃない?)
なるほど。俺の脳内フィルターは、魅了魔法すらも「翻訳不要な雑音」として処理しているらしい。
地味だが、こういう時には最強の防御スキルだ。
「しかし、セレーネは平気なのか?」
「ククク……愚問だな。深淵の闇を纏うこの身に、このような浅はかなる桃色の幻影など通用せん。……それに、この瘴気はメスに獣欲を持つ者のみを標的とするよう、術式が編まれているようだ」
(意訳:私は平気よ。こんな子供だましの魔法効かないわ。それにこれ、男の人にしか効かないみたいだし)
「男限定か……。タチが悪いな」
その時、上空から甘ったるい声が降ってきた。
「あぁん……。相変わらず、男というのは単純で可愛い生き物ね……」
俺とセレーネが空を見上げる。
霧が渦を巻き、その中心から豪華な輿が現れた。
黒い翼を生やしたインキュバスたちが担ぐ、天蓋付きのベッドのような輿だ。
そこには、一人の女性が横たわっていた。
艶やかな紫色の長髪。背中にはコウモリのような翼。腰から伸びる尻尾の先はハート型。
そして、布面積の極端に少ない、ボンテージ風のドレス。
サキュバスだ。それも、ただのサキュバスではない。
「……あれは、魔王軍四天王の一角。『色欲』のカーミラか」
彼女が輿から降り立つと、その一挙手一投足に合わせて甘い香りが爆発的に広がる。
彼女は流し目で広場の男たちを見回し、妖艶に唇を舐めた。
「アァン……。相変わらず、男というのは単純な生き物ね……。私の吐息ひとつで、こんなにも乱れてしまうなんて……」
その声は、ハスキーで甘ったるく、聞く者の鼓膜を直接撫で回すような響きを持っていた。
ゴウダが『うぉぉぉ! 女王様ァァァ!』と叫んで拝み始めた。
完全に場の空気を支配している。
カーミラは、まだ正気を保っている俺を見つけると、興味深そうに目を細めた。
そして、宙を滑るようにして俺の目の前まで降りてきた。
甘い香りが鼻を突く。顔が近い。とんでもない美人だ。
「貴方がこの村に住むという人間ね? 私のフェロモンを浴びて立っていられるなんて……。いい男じゃない……」
彼女の指先が、俺の頬をなぞる。
冷たくて、柔らかい指だ。
「ねえ……私の身体が、疼いて仕方がないの……。貴方のその熱いモノを、私の中に注ぎ込んでくれないかしら……? もう、限界なの……!」
セクシーすぎる誘い文句。
周囲のオークたちが『レン! 代われ! そこを代わってくれぇぇ!』と嫉妬の悲鳴を上げる。
セレーネが短剣を構え、俺の前に割って入った。
「貴様……! その穢れた指先で、我が契約者に触れるでない! 魂が腐り落ちるぞ!」
(意訳:ちょっと! レンに触らないでよ! 汚い!)
だが。
俺の冷や汗の原因は、彼女の色香ではなかった。
俺のスキル【万国理解】が受信している「彼女の心の声」があまりにも切実すぎて、恐怖すら感じていたからだ。
俺の脳内に響き渡っていたのは、こんな絶叫だった。
『――違う! これじゃない! こんな「それっぽい絵」じゃダメなのよぉぉ!』
『――なんで!? なんで関節が上手く描けないの!? 人間の男の「筋肉の質感」と「鎧の下の構造」が分からないと、最高のエモさが表現できないじゃないのよぉぉ!』
『――想像だけで描くのはもう限界! 私は究極のリアリティを求めているの! 神は細部に宿るのよ! それなのに資料が何もないなんてぇぇぇ!』
『――誰か! 誰か人間のサンプルを! 立体モデルを私にくださぁぁぁい!!』
……。
俺は真顔になった。
目の前の美女は「私の中に注ぎ込んで」と囁いているが、その真意は「資料をくれ」だ。
「もう限界なの」は、性欲ではなく、自分の画力不足に対する芸術的な限界だ。
このサキュバス女王……もしかして、スランプ中のクリエイターか?
俺は一歩も引かずに、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
そして、小声で、彼女にだけ聞こえるように囁いた。
「カーミラ様。……人間の骨格が、うまく描けないんですね?」




