第2話:干し肉の恩返しと、腰痛持ちの戦士
冷たい雨が止んだ後の森は、むせ返るような濃密な草いきれに満ちていた。
雫を湛えた巨大なシダ植物が月明かりを弾き、どこか幻想的でありながらも、生命の息吹と、死の静寂が混在する空間を漂わせている。
そんな森の一角で、パチパチと薪が爆ぜる音が響いていた。
俺は、揺らめく焚き火の炎を見つめながら、自身の置かれた状況の非現実感に眩暈を覚えていた。
数時間前まで、俺はこの世の終わりごとき絶望の中にいた。勇者パーティを追放され、魔の樹海で一人、死を待つだけの身だった。
だが、現実は違った。俺の隣には、冒険者ならば誰もが恐怖するであろう巨大な魔物が、胡座をかいて座っているのだ。
ハイ・オークのゴウダ。身長2メートルを超える巨漢で、岩のように隆起した筋肉を誇る。
しかし、今の彼はとても静かだった。俺があげた安物の干し肉を、まるで宝石でも扱うかのように両手で持ち、少しずつ、大切そうに齧っているのである。
「んぐ、んぐ。……あー、たまらんわぁ」
ゴウダが深い吐息と共に漏らした言葉は、俺のスキル【万国理解】によって、相変わらずコテコテの関西弁として脳内に再生された。
獣の唸り声が、人情味あふれるオッチャンの声に聞こえる。この奇妙な感覚にも、少しずつ慣れてきた気がする。
『噛めば噛むほど味が染み出してきよる。この塩気、この硬さ。これこそ『仕事終わりの一杯』のアテに最高やないか。兄ちゃん、ほんまにええのんか? こんな上等なモンもろて』
ゴウダの瞳が、焚き火の照り返しを受けて潤んでいるように見える。
俺は少し苦笑しながら、肩をすくめた。
勇者パーティのアレックスたちにとっては「犬の餌にもならない」と言われた干し肉だ。それをここまで喜んでくれるなんて。
「いいですよ、そんなの。俺一人じゃどうせ食べきれないし、それに……ゴウダはんには命を助けてもらいましたから」
『ゴウダはんて! ガハハ! 自分、ほんまにおもろい奴やな! 人間にしておくには勿体ないわ!』
ゴウダは豪快に笑い、俺の背中をバンと叩こうとした――その時だった。
グキッ。
鈍く、そして嫌な音がゴウダの背中あたりから響いた。
一瞬にしてゴウダの動きが止まる。
先ほどまでの笑顔が凍りつき、脂汗が緑色の額にじわりと浮かんだ。
『あ……あだっ……!』
ゴウダが苦悶の表情を浮かべ、そのまま固まってしまった。
「ご、ゴウダはん!? 大丈夫ですか!?」
『あ、あたたたた……! 笑いすぎて腰にきたわ……! ギックリやないけど、古傷が……!』
ゴウダは巨大な手で、腰のあたりをさすり始めた。その動きはぎこちなく、明らかに慢性の痛みを抱えているようだった。
「腰痛ですか?」
『せやねん。職業病みたいなもんや。ワシらオークは基本、重いモン担ぐやろ? 棍棒とか、獲物とか。それにこの森、湿気が多いから雨の日は古傷が疼くんよ……』
魔物が腰痛に悩んでいる現実に、俺は少し吹き出しそうになった。
だが、これはチャンスかもしれない。
俺は荷袋をごそごそと探った。
勇者パーティにいた頃、前衛職である戦士ガイルのケアをするために常備していた「あるもの」が、まだ残っているはずだ。
ガイルは力任せに剣を振るうタイプで、よく腰や肩を痛めていた。俺の役割は、戦闘に参加できない代わりに、裏方として万全の体調管理をすることだった。
「ゴウダはん、これ、使ってみてください」
俺が差し出したのは、湿布薬だ。
薬草を煮詰めて布に塗り広げたもので、人間界ではポピュラーな鎮痛アイテムである。見た目は地味だが、俺が薬草学の知識を総動員して改良した、特製強力湿布だ。
『なんやこれ? ぺらぺらの布か? これで腰が治るんか?』
「患部に貼ると、痛みが和らぐんです。人間界の薬ですけど、オークにも効くはずです。ちょっと背中貸してください」
俺はゴウダの背中に回り込んだ。
岩のように硬い筋肉だが、腰のあたりは確かに張っている。触診すると、筋肉が凝り固まって悲鳴を上げているのが分かった。
俺は手慣れた手つきで、腰椎のあたりに湿布をピタリと貼り付けた。
湿布の冷たさと、体温で温まっていく薬効成分が、皮膚を通して浸透していく。
『ひゃっ! 冷たっ! ……お? おおお?』
ゴウダが目を丸くする。
薬効成分が浸透し始めたのだろう。彼の表情が、驚きから恍惚へと変わっていく。
『なんやこれ……ジンジンくる! スースーして、熱いような冷たいような……! 痛みが、引いていくがな! うっそやろ!』
「効いたみたいですね。よかった。しばらくは動かない方がいいですよ」
『兄ちゃん……いや、レン兄ちゃん! 自分、魔法使いか!? いや、ゴッドハンドか!?』
ゴウダが涙目で振り返り、俺の両手をガシッと握りしめた。握力が強すぎて指が砕けそうだ。
「痛い! 手が! 手加減して!」
『おお、すまんすまん! つい嬉しくてな!』
ゴウダは鼻水をすすりながら、真剣な顔つきで俺を見つめた。
『こんな即効性のある薬、見たことないで! ワシ、もう一生この腰痛と付き合うていくんやと諦めとったのに……! おおきにな、ほんまにおおきにな!』
どうやら魔物たちの世界には、傷を治す回復魔法はあっても、「湿布」のような生活密着型の医療品は普及していないらしい。
俺にとっては当たり前の知識一つで、彼らのQOL(生活の質)は劇的に改善できるのだ。
これだ。俺が生き残るための武器は。
翻訳スキルで意思を通わせ、こちらの知識や技術を提供して彼らの生活を助ける。そうすれば、彼らは俺を「敵」ではなく「益ある隣人」として受け入れてくれるはずだ。
『決めたで。レン兄ちゃん、今日から自分はワシの「兄弟分』」や! いや、ワシのことは「弟分」や思うて、何でも言うてくれ!』
「いや、弟分って……ゴウダはんの方が明らかに年上だしデカいじゃないですか」
『関係あらへん! 腰の痛みを治してくれる奴が、一番エライんや! あと飯くれる奴もエライ!』
こうして俺は、オークの義兄弟(兄)の座を、強制的に獲得することになった。
その時だった。
周囲の茂みがガサガサと揺れ、複数の殺気が俺たちを取り囲んだ。
暗闇から光る、無数の黄色い瞳。
シャドー・ウルフだ。影に紛れて獲物を狩る、森の厄介者。
その数は10匹以上。群れだ。
俺は身構えた。シャドー・ウルフの群れは非常に連携が取れている。戦士ガイルがいても苦戦する数だ。ましてや、俺一人では……。
シャドー・ウルフの一匹が、低い唸り声を上げて前に出てくる。
リーダー格のようだ。
「グルルルルゥ……」
その唸り声が、俺の脳内で変換される。
『オイコラ、そこで美味そうなモン食ってる奴らいんじゃねぇか?』
……ん?
続けて、取り巻きのシャドー・ウルフたちも吠える。
「ワンッ! バウッ!」
『へへっ、兄貴。あそこの細っこい人間、柔らかそうで旨そうっすよ』
『あっちのデカイのは硬そうだけど、人間ならイケますぜ』
『持ち物全部置いていけば、命だけは見逃してやらんでもねぇぞ? あぁン?』
……俺の【翻訳】スキルのせいで、凶暴な魔獣のはずが、完全に「繁華街の路地裏でたむろしているチンピラ」にしか聞こえない。
恐怖心が麻痺しつつある自分を感じながら、俺はゴウダを見た。
ゴウダは立ち上がった。腰の痛みが消えたせいか、その動きはスムーズで、覇気に満ちている。
彼は足元の丸太(棍棒)を軽々と担ぎ上げ、ドスの利いた声を腹の底から張り上げた。
「グルァァァァァァッ!!」
翻訳:『おどれら、誰のシマでイキっとんじゃコラァ!!』
ゴウダの一喝で、空気がビリビリと震えた。
シャドー・ウルフたちがビクリと身を縮める。
『あ、あれ? その声……もしかしてゴウダの旦那っすか?』
『せや! 今、ワシの大事な『兄貴』と飯食うてるとこなんじゃ! 散らかしたら承知せんどワレェ!』
ゴウダが丸太を一振りすると、風圧だけで木々の枝が吹き飛んだ。
その圧倒的なパワーを見せつけられ、シャドー・ウルフたちは一瞬で戦意を喪失した。尻尾を巻いて後ずさりする。
『ヒィッ! す、すんませんでしたァ! 人違いでしたァ!』
『ゴウダさんの兄貴分でしたか! 知らねぇとはいえ失礼しましたッ!』
『撤収ッ! 撤収ーッ!』
『マジ勘弁! 見回りの時間なんで失礼しまーす!』
脱兎のごとく逃げ出していくシャドー・ウルフたち。
その背中は、完全にチンピラが親分に怒られて逃げる図そのものだった。
ゴウダは「フン」と鼻を鳴らし、丸太を下ろした。
『まったく、最近の若いもんは礼儀なっとらんな。……大丈夫か、兄ちゃん?』
「あ、ああ。ありがとう、助かったよ」
俺は安堵の息をつくと同時に、確信した。
この魔境でも生きていけるかもしれない。
俺のスキルは、戦闘力を補って余りある「コミュニケーション力」という最強の盾なのだ。
『さあ、夜も明けてきた。村まで少し歩かんとかんから、まずは朝飯や』
こうして、俺とゴウダの奇妙な関係が始まった。
評価や感想をいただけると喜びます!




