第13話:村の衛生危機と、切実なトイレ革命
オークの村における生活水準向上計画、通称「レンの改革」は、これまでのところ順調そのものだった。
食料事情は、スライムたちとの友好的な交渉によって得られた「岩塩」と「ミネラルエキス」、そして俺が指導した調理法のおかげで劇的に改善された。今や広場からは、泥臭いスープの匂いではなく、スパイスと出汁の効いた食欲をそそる香りが漂っている。
住環境においても、俺がリフォームしたログハウスを筆頭に、少しずつだが修繕技術が共有され、隙間風に震える家は減りつつあった。
さらには、裏山で発見した温泉のおかげで、村人たちは清潔さと癒やしを手に入れた。
食と住、そして癒やし。
それらが満たされ、村はかつてない繁栄の時を迎えている――かに見えた。
だが、文明のレベルが上がれば上がるほど、これまで見過ごされてきた「原始的な部分」が、強烈な違和感となって浮き彫りになるのが世の常だ。
ある晴れた日の午後。
俺はログハウスの縁側で、森で採れたハーブを使ったお茶を飲みながら、束の間の休息を楽しんでいた。
平和だ。鳥のさえずりが聞こえる。
……しかし、その平和な空気を引き裂くように、風に乗って「ある異臭」が漂ってきた。
「……うっ」
俺は思わず鼻を押さえた。
それは、生ゴミの腐敗臭とも、獣の体臭とも違う。もっと根源的で、生理的な嫌悪感を催すアンモニアの刺激臭だ。
風向きが変わると、その匂いはさらに強烈になった。
優雅なティータイムが一瞬にして崩壊する。
『レン兄ちゃん……。ちょっと、ええか?』
ドスドスと足音を立ててやってきたのは、義兄弟のゴウダだった。
いつもの快活な様子とは打って変わり、今日の彼はひどく歯切れが悪い。太い眉を八の字に下げ、巨大な指をもじもじとさせている。
その巨体が小さく見えるほど、彼は萎縮していた。
「どうした、ゴウダはん。また誰かが腰を痛めたのか? それとも新しい食材でも見つけたか?」
『いや、その……もっとデリケートな話なんや』
ゴウダは周囲をキョロキョロと確認し、誰もいないことを確かめてから、俺の耳元(といっても位置が高いので頭上だが)で声を潜めた。
『実はな……最近、嫁さんらの機嫌が悪いんや』
「機嫌が? ご飯は美味しくなったし、温泉で肌もツヤツヤになったはずだろ? 何か不満があるのか?」
『せや。そこが問題なんや。生活がようなればなるほど、今まで我慢できてたことが、我慢できんようになるらしい』
ゴウダは顔を赤くして、核心を口にするのをためらっている。
俺はカップを置いて、彼に向き直った。
「ゴウダはん、はっきり言ってくれ。夫婦円満は村の平和の基盤だぞ」
『……トイレや』
ゴウダが蚊の鳴くような声(それでも太いが)で言った。
「トイレ?」
『せや……。あのな、嫁が言うんや。『美味しいもん食べて、綺麗なお風呂入って、なんで出す時だけ野良犬みたいなん?』って』
俺は「あー……」と納得の声を上げた。
この村のトイレ事情は、お世辞にも良いとは言えなかった。というより、最悪の部類だ。
家の横に掘られた巨大な穴。そこに板を二枚渡しただけの、いわゆる「野外ボットン便所」が主流だ。囲いもなければ屋根もない。雨が降ればずぶ濡れだし、風が吹けば全てが晒される。
これまでは「排泄なんてその辺でしとけばええ」「どうせ獣みたいなもんやし」という野性的な感覚だった彼らだが、食生活が向上し、温泉で清潔さを知ってしまった今、その不潔さと臭い、そして羞恥心が耐えられなくなったのだ。
『あと、『お尻が寒くて痔になりそう』とも言うとる。特に夜な、お尻出して風に吹かれるのが惨めらしいんや』
「切実すぎるな……」
衛生面でも大問題だ。ハエがたかり、疫病の原因にもなりかねない。
そこへ、不機嫌そうな足音と共に、ダークエルフのセレーネが現れた。
彼女は鼻を純白のハンカチで覆い、軽蔑の眼差しをトイレがある方向へ向けていた。
「……汚らわしい。この村の大気には、深淵の瘴気(悪臭)が満ちている。これでは我が魔眼の封印が緩み、世界を浄化の炎で焼き尽くしてしまうかもしれん……!」
(意訳:ちょっと臭すぎない!? 信じられない! 私たち高貴なエルフに、あんな不潔な場所で用を足せって言うの!? 絶対無理! 我慢の限界よ!)
彼女たちダークエルフも、最近は村に入り浸っている。彼女たちは特に嗅覚が鋭く、美意識も高い。この環境は地獄だろう。
セレーネが俺に詰め寄る。
「レンよ。貴様は「深淵の理」を知る者。ならば理解できるはずだ。高貴なる魂は、汚泥の中に咲く蓮華の如くあれど、汚泥そのものに塗れることを良しとはせぬ! 我が尻が……いや、我が魂が拒絶しているのだ!」
(意訳:レン、あんたなら分かるでしょ! 私たちエルフは綺麗好きなの! あんな汚いトイレ使いたくないのよ! お尻が汚れるじゃない!)
『セレーネ様たちもカンカンや。レン兄ちゃん、なんとかならんか?』
ゴウダが泣きそうな顔で俺を見る。
セレーネも涙目だ。
俺はカップを置き、立ち上がった。
衛生環境の改善は、文明化への第一歩だ。ここで手を打たなければ、村の発展は頭打ちになる。
それに、俺自身もあのトイレを使うたびに、現代人の魂が削られる思いをしていたのだ。
「分かった。任せろ、ゴウダはん。……俺たちの手で『トイレ革命』を起こすぞ」
『か、革命!? 武器を持って戦うんか!? 汚物と!?』
「いや、武器じゃない。知恵と技術で戦うんだ。目指すは『完全個室・水洗式トイレ』だ」
俺の宣言に、ゴウダがポカンと口を開けた。
『す、水洗式……? なんやそれ、水で流すんか?』
「裏山から引いた温泉の水路を使えば、水流は確保できる。最大の問題は『便器』だ」
木製では腐るし、不衛生だ。石を削り出すには時間がかかりすぎる。陶器を焼く窯もない。
滑らかで、水漏れせず、汚れがつきにくい素材。そして、座り心地の良い形状。
そんな都合の良いものが、この魔の樹海にあるだろうか。
俺は記憶の引き出しを開けた。
勇者パーティ時代、荷物持ちとして各地の植生や魔物の生態を叩き込んだ知識。
……あった。
森の南側、湿地帯に生息する「ある植物」の特徴が、脳裏に浮かんだ。
「ゴウダはん、今すぐ森へ行くぞ。材料調達だ」
『えっ、また森か!? 今度は何を採りに行くんや? まさか、また危ない魔物か?』
「『ウツボカズラモドキ』だ」
◇
俺とゴウダ、そして「護衛兼、高貴なる監視役」としてついてきたセレーネは、村の南に広がる湿地帯へと足を踏み入れた。
足元はぬかるみ、湿気がまとわりつく不快な場所だ。
だが、ここには俺たちが求める「究極の便器」の素材があるはずだ。
「フン……。わざわざこのような泥濘に足を踏み入れるとは。貴様の求道心には恐れ入るな。だが、我がブーツは泥を嫌うのだが?」
(意訳:靴が汚れるから嫌なんだけど! 本当にここにトイレの材料なんてあるの? 早く帰りたい!)
セレーネがスカートの裾を持ち上げながら文句を言う。
「もう着きましたよ。ほら、あそこを見てください」
俺が指差した先、巨大なシダ植物の陰に、異様な光景が広がっていた。
高さ1メートル、直径は50センチほどもある巨大な袋状の植物が、群生していたのだ。
ウツボカズラモドキ。
通常のウツボカズラとは桁違いのサイズを持つ、魔界特有の食虫植物だ。
その袋(捕虫葉)は硬質な繊維でできており、表面は蝋を塗ったようにツルツルしている。縁の部分は丸みを帯びていて、座り心地も良さそうだ。
『うわぁ……デカイなぁ。あの中に入ったら、ワシらでも溶かされそうや』
ゴウダが警戒して棍棒を構える。
植物たちは、俺たちの気配に気づくと、蓋の部分をパクパクと動かし始めた。
『――腹減ったわぁ。最近、虫が少なくてかなわん』
『――あー、しんど。身体が重くてかなわんわ。誰かこの重荷、取ってくれへんかな』
『――おい、そこの緑のデカイの。お前、力ありそうやな。ちょっと手ぇ貸してくれや』
俺のスキル【万国理解】が翻訳したのは、殺意に満ちた言葉ではなく、気怠げなオッサンたちのボヤキだった。
どうやら彼らも、この過酷な自然界で生き残るのに必死らしい。
「ゴウダはん、攻撃はなしだ。彼らと交渉する」
『こ、交渉? 植物と? 食われへんか?』
「大丈夫だ。彼らは今、食事よりも『身体のメンテナンス』を求めている」
俺は一歩前に出て、一番大きな袋を持つ株に声をかけた。
「こんにちは。立派な袋をお持ちですね」
植物全体がザワリと揺れた。
『――ん? なんや人間。ワシらの言葉が分かるんか?』
「ええ、分かります。……失礼ですが、その一番下の袋、少し枯れかけていませんか? 重そうに見えますが」
ウツボカズラモドキは、成長するにつれて新しい袋を上に出し、古い袋は下のほうに残る。だが、古い袋は消化液が溜まって重くなり、株全体の負担になっていることが多いのだ。
ボス格の株が、葉を震わせた。
『――よう分かったな兄ちゃん。せやねん、この古いやつ、消化液が腐って酸っぱなっとるし、重くて腰に来るんよ。切り落としたいけど、自分じゃ切れへんし、虫も寄り付かんから困っとったんや』
『――ワシもや! この右下のやつ、もう穴開きそうで邪魔やねん! 誰か切ってくれ!』
あちこちから「切ってくれ」「断捨離したい」「身軽になりたい」という声が上がる。
予想通りだ。彼らにとって、古い捕虫袋はただの粗大ゴミなのだ。
需要と供給が一致した瞬間だった。
「分かりました。私たちが剪定して差し上げましょう。邪魔な袋を切り落とし、身体を軽くしてあげます。……その代わり、切り落とした袋は譲っていただけますか?」
『――マジで!? 兄ちゃん、神か! ええでええで! なんぼでも持っていき! なんなら新しいのも一個オマケするわ!』
交渉成立。
俺はゴウダに目配せをした。
「ゴウダはん、出番だ。彼らの指定する『重い袋』を、丁寧に切り取ってくれ。傷つけないようにな」
『了解や! 散髪みたいなもんやな!』
ゴウダはナイフを取り出し、器用に古い袋を切り離していく。
ザクッ、ザクッ。
切り離されるたびに、植物たちから歓喜の声が上がる。
『――あぁ~……軽ぅ……! 肩の荷が下りたわぁ!』
『――スッキリした! これでまた新しい袋ができそうや!』
ゴウダが汗を拭いながら笑う。
『なんやこれ、植物相手に感謝されると悪い気せえへんな。美容師になった気分や』
セレーネは呆れたように見ていたが、切り取られた袋の質感を触って、目を丸くした。
「……ほう。この質感……硬質でありながら弾力があり、表面は滑らか。まるで上質な革と陶器の中間のようだ。これなら……高貴なる尻を預けるに足るかもしれん」
(意訳:結構いい触り心地じゃない! これならトイレに座っても冷たくないし痛くないわね! 合格よ!)
「でしょう? 天然のフィット感です」
俺たちは、大量の「天然便器(ウツボカズラの袋)」を手に入れることに成功した。




