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第1話:追放された俺と、関西弁のハイ・オーク

新作です。よろしくお願いします。

 冷たい雨が、俺の頬を濡らしていた。

 人類領と魔族領の境界に位置する宿場町『オーガの牙』の裏路地。

 華やかな大通りから一本外れた、生ゴミと馬糞の臭いが漂う薄暗い場所で、俺は泥水の中に尻餅をついていた。


「……レン、お前は今日でクビだ」


 宿の勝手口の軒先で、勇者アレックスが髪をかき上げながら告げた。その黄金の髪は、雨に濡れることなく、魔道具の傘によって守られている。

 俺は耳を疑った。


「クビって……アレックス、正気か? 明日は魔族領への遠征だぞ。魔王軍の暗号通信を見つけたら、誰が読むんだよ」

「はっ、心配無用だ。これを見ろ」


 アレックスが得意げに取り出したのは、片眼鏡のような魔道具だった。レンズが怪しげに光っている。


「これは王都の道具屋で大金をはたいて買った『賢者のモノクル』だ。これを通せば、あらゆる文字が自動的に翻訳されて表示される。つまりだ、レン。お前のスキル【翻訳】は、もう用済みなんだよ」


 俺は絶句した。

 『賢者のモノクル』。確かに便利な道具だが、あれは単語を直訳するだけの代物だ。文脈やニュアンス、あるいは古い方言までは読み取れない。


「……『賢者のモノクル』だと? 笑わせるな。俺は知っているぞ。ある遺跡で『ここより先、永遠の安息の地(=墓場)』と書かれた石碑を、『ここより先、休憩所セーフティゾーン』と直訳され、安心して野営したパーティがゾンビの群れに食い殺された話を」


「ふん、それは使い手の未熟さだろう。俺様なら問題ない」


 アレックスは聞く耳を持たず、鼻で笑った。


「それにだ、レン」


 横から割り込んできたのは、戦士ガイルだ。身の丈ほどの大剣を背負っているが、その刃はボロボロだ。


「お前、最近荷物持ちとしてもトロくなってきてねぇか? 昨日の野営じゃ、俺の剣の手入れが終わるのが遅かったしよ」

「それはガイルが敵を力任せに、硬い部分も関係なくぶっ叩くからだろ! 毎晩、俺が最適な角度で研ぎ直して、油を差してるのを知らないのか?」

「あぁ? 何をごちゃごちゃと……。要するに、お前のスキルは地味なんだよ。戦闘の役にも立たねぇ」


 聖女マリアも、汚い物を見るような目で俺を見下ろした。


「そうですわ、レン。私たちは『選ばれし者』。あなたのような、古代語をちまちま解読するだけの通訳を連れていると、格が下がりますの。それに、私の法衣の洗濯も最近雑じゃありませんこと? この前、袖口に小さなシミが残っていましたわよ」


「あのな……そのシミは、マリアが昼飯にこぼしたワインだろ。魔法薬を使って三回洗い直しても落ちなかったんだよ。それに、俺は洗濯係じゃない。翻訳家だ」


「口答えなさらないで! ああ、やっぱり育ちの悪い平民はこれだから嫌ですわ。生理的に無理ですの」


 彼女が着ている純白の法衣を、毎日手洗いしていたのが誰だと思っているんだ。


 ……ダメだ。こいつら、何も分かっていない。

 前世のブラック企業で培った社畜精神と【翻訳】スキルを駆使して、この我儘わがままな勇者パーティを陰から支えてきたつもりだったが、彼らにとって俺は仲間ではなく、ただの「便利な道具」でしかなかったのだ。


「分配金を一人分減らせば、その分俺たちの装備を強化できる。これは合理的判断だ。……じゃあな、レン」


 アレックスが冷酷に告げた。

 手切れ金として投げつけられたのは、銀貨が数枚だけ。

 彼らは背を向け、温かい宿の中へと戻っていった。一度も振り返ることなく。


「……くそっ。二度目の人生も、結局これかよ」


 ずぶ濡れのローブが重い。寒さが骨の髄まで染みてくる。

 銀貨数枚では、すぐに路銀が尽きてしまう。

 このまま街で野垂れ死ぬか、それとも――。


 俺の視線は、街の外れに広がる鬱蒼とした森へと向いた。

 『魔の樹海』。その奥深くにはSランクの魔物もいると言われている危険地帯だ。

 だが、冒険者ギルドの情報だと、あの森を少し入ると、高値で売れる薬草『月光草』が群生しているはずだ。

 危険は承知の上だ。だが、座して死を待つよりはマシだ。


(死ねない……。こんなところで、終わってたまるか!)


 ふつふつと、腹の底から怒りが湧いてきた。

 俺を見下したあいつらに、いつか吠え面をかかせてやる。

 俺がいなきゃ何もできないってことを、思い知らせてやるんだ。


(生き残るんだ。俺は……俺の人生を、これからは俺自身のために生き抜いてやる!)


 俺は泥を払い、決意を固めて『魔の樹海』へと足を踏み入れた。



 数時間後。

 森の中は、昼間だというのに夜のように暗かった。雨は木々の葉を叩き、足元は底なし沼のようにぬかるんでいる。

 月光草が見つからないまま、どんどん森の奥へと進んでいた。


 ――ズゥゥゥゥゥゥン……。


 地面が揺れた。

 腹の底に響くような重低音とともに、前方の巨大なシダの茂みが弾け飛んだ。

 バキバキと木々が折れる音が響き渡る。


「グルゥゥゥゥゥゥアアアアアアアッ!!」


 現れたのは、身長は優に2メートルを超える巨躯。岩のように隆起した筋肉は深緑色の皮膚に覆われ、口からは鋭利な牙が二本、天を突くように伸びている。

 オークだ。

 しかも、ただのオークではない。皮膚の色が濃く、体格が一回り大きい上位種、ハイ・オークだ。

 その手には、大人の胴回りほどもある巨大な丸太――いや、粗削りな棍棒が握られている。

 あんなもので殴られれば、俺の貧弱な体など完熟トマトのように弾け飛び、ミンチになって終わりだ。


(終わった……)


 生存本能が警鐘を鳴らすが、足がすくんで動かない。恐怖で膝が笑っている。

 先ほどまでの怒りはどこへやら、圧倒的な暴力の前に、俺はただの無力な人間に戻ってしまった。

 オークの充血した瞳が、俺を捉えた。

 口元からドロリとしたよだれが垂れ落ち、雨水と混じって地面を汚す。

 殺される。食われる。


(嫌だ……なんで俺がこんな目に遭わなきゃいけないんだ。俺はただ、生きたかっただけなのに。このスキルだって、もっと役立てる道があったかもしれないのに!)


 俺の唯一の武器は【翻訳】だ。

 だが、魔物はは殺戮の本能のみで動く怪物だと、教会で教わった。

 言葉が通じなければ、交渉もできない。理解もできない。


(いや、違う! 俺の【翻訳】スキルは、文字を読むためだけの能力じゃない。もっと……もっと根源的な、心を通わせるための力のはずだ!)


 恐怖の中で、俺の魂が悲鳴を上げた。

 俺は生きたい。俺の言葉を、誰かに届けたい。

 その瞬間、脳内で何かが弾ける音がした。

 ガラスが割れるような、あるいは錆びついた鎖がちぎれるような、澄んだ音。


『熟練度が一定値に達しました。感情の奔流を確認。生存本能による限界突破。ユニークスキル【翻訳】が覚醒します』

『【翻訳】が【万国理解】に進化しました。対象範囲拡大:全言語、全種族、全意思、深層心理、ニュアンス補正』


 無機質なアナウンスが頭の中に響く。

 直後、世界が変わった。

 ノイズ交じりだった世界の音が、クリアに調整されていく感覚。

 雨音の一つ一つ、風のささやき、そして目の前の怪物の息遣いまでが、情報として脳に流れ込んでくる。


 目の前のハイ・オークが、大きく口を開く。

 俺の耳には、ただの咆哮として届くはずだったその音が、突然、意味のある「言葉」として脳に変換されて響いたのだ。


『――あー、ほんましんど。なんや人間か。悪いけど兄ちゃん、ワシ今シマの見回りで疲れ切っとんねん。襲ってくる気がないんやったら、さっさと出てってくれへんか?』

「……は?」


 俺は思わず、間の抜けた声を出していた。

 いま、なんて言った?

 死を覚悟していた俺の思考が、急ブレーキをかけて横転したような感覚に陥る。

 恐怖と混乱が入り混じり、俺は呆然と目の前の怪物を凝視した。


 オークは俺が動かないのを見て、面倒くさそうに巨大な首を傾げながら再び唸り声を上げる。

 その唸り声は「グルルル……」という獣の声だ。

 だが、俺の脳内には、妙に人間臭い、親しみやすい声色で翻訳されて響く。


『あのなぁ、ワシらオークも暇やないねん。朝から晩までシマを歩き回って、もう足パンパンやねん。これ以上仕事増やすなや。噛み付く元気もないわ』


 ……間違いない。

 こいつ、喋っている。

 しかも、なぜかコテコテの関西弁で。

 あの恐ろしい「グルゥゥゥアア!」という咆哮が、俺の脳内フィルターを通すと、新世界(大阪)の路地裏で管を巻いているヒョウ柄の服を着たオッチャンのボヤキに変換されているのだ。

 その口調には、殺意よりも、仕事終わりのサラリーマンのような疲労感が漂っている。


 これは幻聴か?

 いや、スキルの進化だと言っていた。これが【万国理解】の力なのか?

 俺は乾いた唇を開いた。

 これが最後の賭けになるかもしれない。もし言葉が通じるなら、殺されずに済むどころか、この状況を打開できるかもしれない。


「あ、あの……もしかして、見回りでお疲れなんですか?」


 オークの動きがピタリと止まった。

 巨大な豚のような顔が、驚愕に見開かれる。充血していた目が、まん丸になった。

 数秒の沈黙。雨音だけが響く。

 そして、森を震わす大声が響いた。


『……おぉ? 自分、ワシの言葉が分かるんか!?』

「は、はい。なんとなく、ですけど……。足がパンパンだとか、噛み付く元気もないとか、聞こえました」

『うっそやん! マジか! 人間でワシらの言葉分かる奴なんか初めて見たわ! いやー、世間は狭いなぁ! びっくりしたわ!』


 オークは棍棒を地面にドサリと放り投げると、親しげに一歩近づいてきた。

 俺は反射的に身構えたが、彼に攻撃の意思がないことは、その表情の変化で分かった。


『せやねん! 聞いてくれや兄ちゃん! 人間は問答無用で襲ってくるし、勝手にゴミ捨ててったり、焚き火の不始末したりで、自警団の仕事が増えてかなわんのよ! こっちは嫁もおるし、定時で帰りたいのになぁ』

「自警団……? 定時……?」


 魔物が自警団? それに定時退勤を希望している?

 俺の中の常識がガラガラと崩れ去っていく。

 アレックスたちは「魔物は生まれながらの邪悪だ」「見つけ次第殺せ」と言っていたが、目の前のオークは、どう見ても中間管理職の悲哀を背負ったオッサンだ。

 いや、見た目は完全にホラー映画の殺人鬼だが、中身が庶民的すぎる。


『まあ、そういうわけやから、悪さしにきたんちゃうなら見逃したるわ。はよ帰り。ここら辺は夜になると危ないで』


 オークはシッシッと手を振って、俺を追い払おうとした。

 優しい。

 言葉が通じない時は「獲物を見つけた猛獣」に見えたが、言葉が分かれば「迷子に注意を促す親切なおじさん」だ。

 だが、俺には帰る場所がない。


「待ってください! あの、俺、行く当てがなくて……」

『あぁん? 家出か? 難儀やなぁ』

「それに……見回りで疲れているなら、これ、どうですか?」


 俺は懐から、アレックスたちから投げつけられた「手切れ金」代わりの干し肉を取り出した。

 泥水に濡れて少し湿っているし、安物の硬い肉だ。人間なら文句を言うレベルの代物だ。

 だが、肉体労働で疲れた体には、塩分とタンパク質が必要なはずだ。


「安物の干し肉ですけど、塩気はあります。疲れた時は、こういうのを齧ると少しはマシになるかと」


 オークは怪訝そうに干し肉を見たが、俺が差し出すと、太い指でそれをつまみ上げた。

 そして、匂いを嗅ぎ、パクリと口に入れた。

 モグモグと咀嚼そしゃくする。


『……ん? おぉ……!』


 オークの目が輝いた。


『しょっぺぇ! けど、染みるわぁ! 汗かいた体には、この塩気がたまらんのよ! あー、生き返ったわぁ……!』


 一瞬で干し肉を平らげたオークは、満足げに大きなため息をついた。

 そして、改めて俺の方に向き直り、その巨体を屈めて視線を合わせてきた。

 その瞳には、先ほどの面倒くさそうな色はなく、代わりに興味と、仲間を見るような温かい色が宿っていた。


『兄ちゃん、おおきにな。腹減ってたわけちゃうけど、なんか元気出たわ。……自分、人間にしては気が利くなぁ』

「ええ、まあ。ずっとそういう役回りだったんで」

『ふーん……。そんで? 行く当てがない言うたな。こんな森の中で一人で何があったんや? 装備もボロボロやし、泥だらけやないか』


 その問いかけに、俺は少しだけ苦笑した。

 まさか、魔物に身の上相談をすることになるとは思わなかった。

 だが、人間よりも彼の方が、よほど話を聞いてくれそうな気がした。


 俺は、勇者パーティを追放されたこと、役立たずだと罵られたこと、すべてを失ってここに捨てられたことを、短く話した。

 オークは腕組みをして、時折『ほうほう』『アホちゃうかそいつら』と相槌を打ちながら聞いてくれた。


『なるほどなぁ。言葉が分かるっちゅうのは最強の武器やのに、それを捨てるなんざ、その勇者って奴は経営者失格やな。そんなブラックな職場、辞めて正解や』


 経営者失格。

 オークの口からそんなビジネス用語が出るとは思わなかったが、その言葉は、冷え切っていた俺の胸の奥に、じんわりと温かいものを灯した。

 誰にも認められなかった俺の能力を、このオークは肯定してくれたのだ。


『兄ちゃん、名前は?』

「……レン。レン・アークライトだ」

『レンか。ワシはゴウダや。よし、レンちゃん。行くあてがないんやったら、とりあえずウチに来い』

「えっ? ウチって……オークの集落に?」

『せや。こんな夜中に放り出すわけにもいかんし、干し肉の礼もせなあかん。それに、レンちゃんのその翻訳スキル、ウチらにとっても喉から手が出るほど欲しい人材や』


 ゴウダはニカっと笑うと、太い親指を立てた。


『ウチの村長、胃が弱くていつもトラブルに悩んどるんや。話の通じる人間がおるって分かれば、きっと喜ぶで。悪いようにはせん。ワシが保証したる』


 雨はいつの間にか小降りになっていた。

 雲の切れ間から差し込む月明かりが、ゴウダの厳つい顔を照らしている。

 不思議と、恐怖はなかった。

 勇者たちと一緒にいた時よりも、今、この瞬間の方が、心が穏やかであることに俺は気づいた。


 人間だから正しいわけじゃない。魔物だから悪なわけじゃない。

 ただ、言葉が通じなかっただけなのだ。

 そして今、俺にはその壁を越える力がある。


(そうか。俺の【翻訳】は、ただ文字を読むためだけの地味なスキルじゃなかったんだ。魔物とだって心を通じ合える、最強の武器だったんだ)


 俺は、ゴウダに向かって力強く頷いた。


「ああ、頼むよ、ゴウダさん。……いや、ゴウダはん」

『ガハハ! その呼び方、ええなぁ! 気に入ったわ! ほな、行くで兄弟!』


 俺はゴウダの後ろについて歩き出した。

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