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力加減の下手くそな夫が、力加減を学ぶために卵を割ったり黄身を掬ったりしているらしい。なんで?

作者:

なんで?


「もうっ!なんで貴方ってそんなに力加減が下手くそなのっ!!!」


 草木も眠る、秋の静かな夜。

 目を瞑れば風のさざめきすら聞こえそうな夜一ーに、ルイーズの叫びはそれはそれは大きく響き渡った。


「何度も!何度も!言ってるじゃない!貴方の触り方は力が強くて痛いって!」


 体を隠すように布団にくるまり、ルイーズは更に叫んだ。


「ご、ごめんよ、でもルイーズを見てるとつい力んじゃって」


 慌てたように言い訳するのは、ルイーズの夫であるクリストフだ。

 元騎士団所属。金髪に碧眼、童顔気味のクリストフは、しかし顔に似合わず筋肉隆々の男、それがクリストフだった。

 家督である男爵家を継ぐため、結婚を機に騎士団を退職。婚約者であった、紫の髪に、きりりと気の強そうな金の瞳を持つ3歳年上のルイーズとめでたく結婚したのだが一ー、


「どうして手加減できないのよ!」


 いかんせん、夜の夫婦生活がうまくいってなかった。


「努力はしてるんだよ!でも、君の胸とか見てるとどうしても興奮しちゃって……!」

「そ!れ!は!前にも聞いたわ!」

「うっ……ごめん……」


 原因は他でもないクリストフにあった。

 婚約者がいるから、と女性との交流を極力避けてきたクリストフは、いかんせん女耐性がなかったのだ。

 そのため、初めて見るルイーズの裸体にそれはそれは興奮し、初夜はクリストフが失神して終わった。

 では日を改めて、と、臨んだものの、今度は失神こそしなかったものの、力加減を見誤り、目一杯の筋力をもってルイーズに触れてしまった。


『痛い!』


 ルイーズとて処女ではあったが、処女でも異変に気付くぐらい、クリストフの力は強かったのだ。


『ご、ごめん。このぐらいならどう?』


 と、クリストフなりに力加減をしてみるも、結果は同じだった。

 クリストフは筋肉隆々。いかに剣を強く握り、いかに地を早く蹴り、いかに倒されずいれるか、と研鑽を磨いた体は、力の抜き方までは学んでいなかったのだ。


 結局その夜も失敗に終わった。  

 で、翌日の夜。

 早く跡継ぎが必要なため、2人は事に及ぶためにベッドに鎮座していた。


 今日こそは優しく触るぞ、と気合いを入れるクリストフ。

 昨夜は強く言いすぎたかもしれない……と反省するルイーズ。

 それぞれの思惑が渦巻くなか、2人は事に及び始めた。


『……いったぁ…………』


 だが。

 結果、その晩も、2人の情事は失敗に終わった。


 やっぱりクリストフの力は強かった。ルイーズもルイーズで、昨夜の反省を生かし、『もうすこし優しくが良いわ……』なんて優しく可愛く伝える努力はしたが、やっぱり痛かった。どうしても痛かった。なんだったら可愛く言ったせいで、クリストフの力が強くなり、更に痛くなったぐらいだ。

 体がひしゃげるんじゃないかというぐらい強く体を揉まれたあたりで、


『痛い!』


 と思わずルイーズは叫んでしまったのだ。

 それからも何度か夫婦生活チャレンジは行われていたが、やっぱり全部失敗に終わっていた。

 

 そんなわけで、今夜も何回目かの失敗した夜。

 ぷりぷり怒るルイーズと、肩を落とすクリストフ。

 これが、2人にとっての、『夫婦の夜』になりつつあった。





「はぁぁぁぁぁ………………」


 翌日のこと。

 政務をひと段落させたクリストフは、庭の隅っこの方で、盛大なため息を吐いていた。


「なんでこんなに力加減できないかなぁ……」


 自身の手を閉じたり握ったりしながらクリストフは嘆く。

 どうしたら優しく、力加減をしながら、ルイーズに触ることができるのだろう。僕なりに努力してるんだけどなぁ……と、肩を落としていると、


「なんだなんだ。ため息なんか吐いちまってよぉ」


 と、かごいっぱいの玉ねぎを抱えた男が、クリストフに声をかけた。


「……ティジャン!」


 はっ、と顔を上げたクリストフは、玉ねぎ男一ーティジャンの顔を見るなり顔を綻ばせた。


「おいおい昼間っからそんなため息ついてどうしたんだ。仕事は終わったのか?」


 ティジャンと呼ばれたこの男。

 実は元騎士団所属。クリストフと同期。騎士団所属だったくせに、剣技より、飯を炊く技術に長けていた男。

 騎士団時代はもっぱら炊事担当だったティジャンは、騎士より料理だ!クリストフよりずっと早くに騎士団を退団。料理人として腕を磨き、なんやかんやあって、クリストフの家の料理長になっていた。


「仕事は終わったよ。そうじゃなくってさぁ……」

「あぁ、奥様と上手くいってないって?」


 他の使用人がいるところならいざ知らず、2人きりのときは、こうして軽口を叩く程度には仲が良かった。

 クリストフは念の為あたりをきょろきょろ見渡して、そうなんだよぉ、と言葉を続けた。


「俺なりに努力してるんだけど全然上手くいかなくて。どうしたら…………………いや待てなんでお前が知ってるんだ」


 膝を抱えて俯いていたクリストフがばっと顔を上げた。

 なんでって、ねぇ?と言わんばかりにティジャンは首を傾げる。


「いやだって、夜、明日の仕込みとかしてたら、奥様の、痛い! って叫び、厨房まで聞こえることあるし」

「……えっ……」

「そうじゃなくても侍女長が悩んでたぜ?うちの使用人なら皆知ってることだ」

「えぇ……」


 思ってもなかった真実に、クリストフは更に肩を落とす。


「騎士団時代にはなんでもそつなくこなしてたお前さんらしくもない。なにやってんのか知らねぇが、あんなに痛いだなんだ叫ぶのにはワケがあんだろ?あれか?奥様は痛みに敏感な方なのか?それともお前に加虐趣味でもあったとか?」

「違う!そうではなくて……、……ルイーズを見ると興奮してしまって、加減ができなくなってしまうんだ」


 足元の雑草をぶちぶち千切りながらクリストフは言う。


「自分では制御してるつもりなんだがまだまだらしく……。……つい触る時に力んでしまうというか……」


 クリストフ的には雑草は軽く葉っぱだけ千切ったつもりだったか、哀れな雑草はなんと根っこから抜けてしまった。

 その様子を見ていたティジャンは、あぁ……と、納得したように小さく呟いた。


「……なぁティジャン。なにか良い方法はないか?」

「良い方法っつってもなぁ」

「お前ならなにか知ってるんじゃないのか?」

「なんだよ突然。そもそもなんでそう思ったワケよ」

「だってお前の作る料理は、繊細で、美しくて、ルイーズも褒めていたぐらいだ。あんなに繊細な仕事ができるお前なら、力の匙加減の方法も知ってるんじゃないかと思って」


 クリストフの言うように、ティジャンの作る料理は、それは繊細で美しいものだった。

 まず野菜の飾り切りの技術がずば抜けていた。だからクリストフとルイーズの食卓は、他人から見れば『パーティーですか?』と聞かれそうなぐらい、美しいものだった。

 それに加えて、包丁のメンテナンスの腕、包丁捌き自体も超一流。

 ティジャンの切った野菜は断面が美しく、繊維をいたずらに傷つけないため、野菜のエグ味や臭みがでなかった。『ティジャンが切った生野菜食べたら、ほかの人間が切った生野菜は食えねぇよな』と騎士団時代から言われていたほどだ。


「うーーーん、料理と女性を同じように扱って良いのか俺にはわからんが……」

「頼むよティジャン!本当に八方塞がりなんだ!」

「あーー……うーーーーん、……うーーん……?……まぁそこまで言うなら、一回厨房に来てみるか?」

「良いのか!?」

「お前の期待するものがあるかは知らんけどさ。ちょうど夕食の準備してるとこだし、仕事終わったんなら来いよ」


 というわけで2人は厨房に向かったのだった。





 意気揚々と厨房に足を踏み入れたクリストフは、しかしすぐに失敗した、と思った。


「なんで旦那様が!?」

「えっ、あれ、旦那様っ、……あっ!?おい!誰かオーブンの火ぃ弱めろ!」

「わっ、旦那様だっ、……あ゛!?誰だこの玉ねぎ切ったやつ!アッシュっつったろ!テメェのこれはコンカッセだボケ!」

「うおおお旦那様!こんなところに一体なぜ、っ、て、っんだこれ!トマト輪切りにしたやつ!断面崩れてんぞ!テメェの包丁ぐらいテメェでメンテしとけや!」

「おい!肉に火ぃ入れすぎだ!奥様の好みと外れてんぞ!」

「魚!捌いたやつ!でてこい!身が!ねぇぞ!骨と身ぃ切り離すの下手か!?!こんな雑な仕事だと魚の臭みが出て良くねぇって料理長が散々言ってるだろうがよ!」


 戦場だ、と思った。

 最初こそクリストフの登場に色めきたったが、それも一瞬で終わった。夕食に間に合わせるために、厨房は戦場と化していた。

 今日はなにやら人手が足りないらしく、ティジャンもすぐに厨房の仕事に戻ってしまった。怒号の飛び交う厨房で一人残されたクリストフは、仕方なく隅っこに逃げることにした。


「あ……」


 と、厨房の隅っこでは、若手らしい男が、もくもくと卵の黄身と白身を分けていた。クリストフの姿に一礼して、もくもくと卵を黄身と白身に分けている。

 怒号とは一線引いたその環境に、クリストフは安堵のため息をついた。その間にも卵は黄身と白身に分けられていく。


「……ねぇ、君。……その、……その分け方ってさ、面倒じゃない?」


 だからだろう。うっかり口が滑ってしまったのは。

 クリストフに突然話しかけられた若手の手がぴたりと止まる。若手の両手には、それぞれ、半分に破られた卵のカラ。黄身と白身を何度もカラとカラに往復させ、黄身と白身に分けていたのだ。


「一斉に割って、黄身だけ掬った方が早くないか?」

「……ええと……」

「せっかくだ。卵を一個くれないか」

「どうぞ……」


 屋敷のボスに言われてしまえば、若手は逆らうことはできない。

 卵を受け取ったクリストフは、意気揚々と卵を作業台に打ちつけた。


「……あの……」

「卵の割り方ぐらいしってるさ。ほらこうして、ぽん、」

 

 と。言いながら小さいボウルに卵を割り入れて一ークリストフは絶句した。

 卵の殻を割る時に中身まで傷つけていたらしい。ボウルに割り入れた卵は、既に黄身が割れていたのだ。


「……い、今は油断していただけだ。もう一個卵をくれないか」

「……構いませんが……」


 卵を貰って再度挑戦。

 今度は上手くいった。ボウルの中では、つるんとした黄身が誇らしげに輝いている。


「ほら見てみろ!俺はやればできるんだ!」


 ふふん、と鼻を鳴らしながら、クリストフは若手に見せつけた。はぁ、と若手はどこか気の抜けた返事をする。


「よーし。あとはこれを掬うだけなんだが……」


 クリストフが白身の中に人差し指と中指を入れる。

 2本の指でうまいこと掬うぞ……と、黄身を触って一ー


「あっ!?」


 卵の黄身は呆気なく割れてしまった。

 

「いやいやいや、もう一回、もう一回すればきっとできる……」


 更に卵を貰い、もう一度卵を作業台にぶつける。

 するとどうだろう、力んでしまったせいか、ぐちゃり、と卵は割られることなく、クリストフの手の中で潰れてしまった。


「あ゛っ」

「……」

「ね、ねぇ、君、卵をもう一個、」

「ちょい待て。なにしてんのお前」


 へこへこ若手に頭を下げていたクリストフの頭上から、ティジャンの声が降ってくる。

 思わずクリストフが上を見上げれば、呆れたような顔のティジャンがそこに立っていた。


「ティ、ティジャン!違うんだこれは、卵が、」

「卵が?」

「アッ、えっと、一斉に割って指で掬って分けた方がが良いと思って実践しようとしていたんだが、」


 厨房の怒号に当てられたのか、ティジャンは少し苛立った様子で卵とクリストフを交互に見る。


「なるほど?で、どうだった?」

「……ええと……卵を分けるのは、存外難しいんだな……」

「それだけじゃねぇだろ。そもそも上手く割れてねぇじゃねーか」


 ほらよ、とティジャンが、クリストフの割った卵の入ったボウルを顎でしゃくった。

 なんで?そっちは黄身は割れてたけど殻は綺麗に割れてたはず、とクリストフがボウルを覗く。


「ちっせぇ殻の欠片が沢山入ってる。こんな卵は使えねぇ」

「あっ……」

「いや心配すんな。まかないに回すだけだから廃棄はしねぇが……。……それにしてもなんだお前、本当に力を加減すんのが下手くそなのかもな」

「うっ……そういう君はどうなんだよ!」

「俺か?」


 卵を一個手に取ったティジャンは、新しいボウルに、こともなげに卵を割り入れた。それもなんと片手で。


「ほらよ」

「ま、待ってくれ!たまたま成功しただけかもしれないだろ!」

「あぁ?」


 と、言うが早いか、ティジャンはあっという間に片手で卵を5個ほど割ってしまった。時間としては、クリストフが卵一個割るのにかかる時間と同じぐらい。

 あまりに華麗な手捌きに、クリストフは言葉を失う。ボウルの中を覗いてみれば、殻の欠片もなく、黄身も割れることなく、白身の海を泳いでいた。


「ひぇっ」

「んなの朝飯前だろ」

「そ、そうなのか?」

「間違えて入った卵の殻のカケラを拾うのにどれだけ手間がかかると思ってんだ。アホな失敗に構ってる時間は……」

「料理長ー!メインの味見お願いして良いですかっ!?!」

「あー、はいはい。ちょっと待っとけよ」


 部下に呼ばれ、踵を返したティジャンの背中を、クリストフは見守ることしかできなかった。

 ちらりと横を見れば、なおも若手はもくもくと卵を分け続けている。分けられた白身の中には一片の殻もなく、黄身の方はひとつたりとも割れていなかった。





「そういえばさっき、今日、旦那様が突然厨房にいらしたんです、って使用人から報告が上がってきたわよ」

 

 ルイーズに聞かれ、ティジャンは体を硬くした。

 勢いあまって、フォークで切っていたシフォンケーキがぶにゅりと不恰好に潰れてしまう。


「私が把握する限りだけど……この前器具のメンテナンスを入れたばかりだし、食材の発注量だって問題ないはずだわ。味も申し分ないから、その分、他の屋敷の料理人よりずっと高い賃金も出してる。料理人たちからの不満もないはずよ。だから貴方が厨房に顔を出す理由が見当たらなくって」


 薔薇の形に切られた苺を食べながら、不思議そうにルイーズが言う。今二人は、夕食を終え、デザートのシフォンケーキを食べているところだった。


「ええと……庭で休憩してたら、たまたまティジャンと会って……なんか、会話の流れで厨房を見に行くことになったんだ」

「あらそうだったの?」


 クリストフとティジャンの仲については、ルイーズも知るところだった。

 理由を聞いたルイーズは、友達同士で話したいことでもあったの?と、クリストフに尋ねてきた。


「ま、まぁ、そんなところだよ。時間が時間だったから歩きながら話しててね。そしたら厨房までついて行っちゃって、それで……」

「そういうことだったのね」

「そうなんだよ……」


 とても本当のことを言えるはずもなく、クリストフはそれきり黙ってシフォンケーキを食べることにした。

 シフォンケーキは、不純物のひとつもない、フワフワなめらかなシフォンケーキだった。





 翌日。

 昼食を終えたクリストフは、また厨房に顔を出していた。


「わぁっ!?旦那様!?」

「どうしたんですか!?まさか昼食の味がお気に召さなかった……!?」


 昼食提供という仕事を終えたシェフ達は、どこか気の抜けた様子で、厨房の端の方でまかないを食べていた。ぼんやりしているその様子は、昨日の怒鳴り声をあげながら怒涛の勢いで料理を作る様子とは上手く結び付かなかった。


「あぁいや、違うんだ。今日の昼食もとても美味しかった。そうじゃなくてティジャンに用があって……」

「料理長ですか?」


 一人のシェフがティジャンを呼びに行く。

 少し間があって、ヘロヘロのティジャンがクリストフの前に現れた。


「ティジャン!休憩中すまないな。少し外で話したいことがあって……」

「そりゃ構わんけど」


 がしがしと腰の位置に巻いたエプロンで乱暴に手を拭ったティジャンは、クリストフに言われるまま、厨房を後にした。






 食材の搬入口まで足を進め、クリストフは改めてティジャンに向き直った。

 今日の納品は終わっているはずだし、ここでなら誰にも会話を盗み聞きされる心配もないだろう。


「ティジャン!頼む!俺に卵を割らせてくれないか!」

「……はぁ?」

「俺は昨日思ったんだ!卵のカケラを入れずに卵を綺麗に割り、卵の黄身を掬うことに、力加減を制御する鍵があるのではないかと!」

「あー……まぁ確かに、己の力加減の感じがよくわかりはするが……あんなもん慣れとコツでしかないからなぁ……」

「そういうこと言わずに!頼むよ!君の言う通り、卵だったら力を入れすぎたとかそうじゃないとか一目でわかるし、力をセーブできない俺にはぴったりだと思ったんだよ!」

「うーーん……。しかしな、お前的には力加減の練習かもしれんが、卵は卵、食材だ。いたずらに割って、それで廃棄です、は通用しねぇぞ?」

「もちろんそれも考えている!俺の割った卵は、俺の食事の材料として使ってほしい!俺自身が割るんだ、カラ入りだろうと問題はない!」

「……まぁそこまで言うのなら仕方ねぇか。もとよりここのボスはお前だしな。ボスの言うことには従うほかない」


 納得のいかない様子ではあったが、ティジャンは提案を肯定してくれた。

 そうして、クリストフの卵割り修行は始まったのだ。





 それからというもの、政務の合間を縫って、クリストフは割卵に精を出した。


 卵にヒビを入れるための叩く力加減。

 ヒビに親指を割り入れ、卵を綺麗に出す力加減。

 もし上手くいったら、黄身を割らずに掬う力加減。


 そのどれもが、これまでのクリストフでは考えたこともない繊細な作業だった。

 しかし聞いてみれば、厨房にいる人間は、当たり前に卵を割り、カラを混入させず、黄身を潰すこともないらしい。

 そういえば、卵料理は結構でてくるが、カラが入っていたことはなかった。……自分の割った、カラ入り卵で焼き上げたキッシュを食べながら、ガリリと殻を噛み潰しながらクリストフは気が付いた。


 騎士かつ男爵の自分とは畑違いの業務とはいえ、ティジャン達は本当に繊細な仕事をしていたんだな。

 クリストフは尊敬の眼差しで厨房で働く人たちを見つめていた。




「おー、今日は上手く割れてんなぁ」


 その日もせっせと卵を割っていたクリストフの元に、ティジャンが顔を覗かせた。


「そうなんだ今日はなんだか上手くいっていて……」


 卵を割り始めて2週間、クリストフの割卵の腕は確実に上がっていた。

 少し誇らしげにティジャンに卵の入ったボウルを見せる。今日は卵を5個ほど割ったところだった。


「この2週間で割った卵は100個に及ぶからな。腕も上がるというものだ」

「100個ぉ?あぁ、そんなもんだったか。んなの場所によっては一回の食事で割る個数だぜ?」

「えっ」

「まぁそれは置いといて。そんな旦那様に、新しい卵を持ってきたんだよ」


 ほら、とティジャンが卵を渡してきた。

 パッと見たは普通の卵と変わらない。なにが違うのかよくわからないが、いつものように卵を作業台に打ち付けて一ー、


「あれっ!?」


 ここ最近は、卵のひび入れで失敗したことはなかった。だというのに、今、ティジャンに渡された卵は、あっけなく崩れてしまったのだ。


「あれ!?なんで?どうしてっ!」

「それ、ちょっと古い卵なんだよ。屋敷のボスに出す卵は、朝産みの採れたて新鮮なやつでね。お前さんが今まで割ってたのも、新鮮なやつだったんだが……」

「……古い卵は扱いが更に難しいのか?」

「まぁな。殻の内側にあるうすーい膜が、新鮮なやつより薄くてもろくなってんだよ。ほれ、黄身も見てみろ。お前が今まで見てたやつより柔らかくて脆いぞ」


 どうにか割り入れた卵を見ると、ティジャンの言う通り、白身はちょっと水っぽくて、黄身もだるんとしている。


「まさか卵にこんな一面があったとは……」

「古いだけで食べるのに問題はないからな。せっかくだし明日からは古いやつにしてみるか?奥様には新鮮な卵を使う……が、お前さんは古い卵を使った料理でも構わないか?」

「!、あぁ!もちろんだ!頼む!そうしてくれ!」


 というわけで、クリストフの割卵修行はまだまだ続くらしかった。





 なんとなく気まずくて、ルイーズとの夫婦生活はご無沙汰になっていた。

 まぁご無沙汰もなにも、まだ初体験すらまだの、童貞と処女同士なんだけど……、と思いつつ、クリストフはそろりそろりとベッドに横になった。


 隣ではルイーズが難しそうな顔をして本を読んでいる。クリストフが横になってしばらくして、ぱたん、と本を閉じる音がした。


「最近、厨房に入り浸りらしいわね」


 うとうとし始めていたクリストフは、ん、あぁ、と生返事をしてしまう。


「旦那様が厨房入りされてから、卵の消費が多いです、って家令から報告が上がってるわ」

「……ちょっとやらなきゃいけないことがあってさ」

「なあにそれ?なにを企んでいるの?」


 まさか、『力加減を知るために卵を割っている』とは言えまい。言い訳を探すためクリストフが黙り込むと、ルイーズがムッとした表情を浮かべた。


「私には言えないことなの?」

「その、ええと、」

「まさか厨房の人間と浮気でも?」

「それは違う!断じて違う!」

「じゃあなんなのよ。どうして貴方が厨房に行く必要があるの?」

「うっ……」


 ずいずいずいっと迫られては上手い言い訳もできない。

 もとよりクリストフはルイーズにゾッコンなのだ。ゾッコン故に力加減を見誤ったし、ゾッコン故に妙な努力に励んでいる。それぐらいには、ルイーズのことが好きだったのだ。


「おっ、……俺は、力加減ができない男だろう?」

「?、えぇ、まぁ、正直言ってしまえばそうね」

「だ、だから……その……卵を割ることで力加減を学んでいると言うか……」

「……はぁ?」

「た!頼む!怒らないでくれルイーズ!ようやく力加減を学べる機会ができたんだ!そしたら君にも優しく触れられるだろしっ……だから許してくれないかっ……!」


 もう最後は土下座しながら言った。

 ルイーズはといえば、訳がわからない、と言った様子でクリストフを眺めている。


「卵?卵で力加減が学べるの?」

「ま、学べるはずなんだ!思いの外卵は繊細で!いやカラは硬いんだが中身は柔らかくって壊れやすくって……!」

「あぁもうわかったわよ。そこまで言うのなら、私も明日、厨房に見に行くわ」

「えっ」

「だって卵割ってるだけなんでしょう?見られてなにが困るの?」

「な、なにも困りはしないが……」

「じゃあ大丈夫ね」


 そういうわけで、妙な約束ができてしまった。

 えっ、本当に?と困惑するクリストフをよそに、ルイーズはすぐに寝息を立ててしまった。





「おおおおお奥様!?奥様まで!?なんでっ!?どうして!?!」


 約束通り、厨房に現れたルイーズを前に、料理人達は慌てふためいた。

 もしかして昼食がお口に合いませんでしたか、それとも異物混入!?と慌てる料理人をどうにか宥め、すでに卵を破り始めていたクリストフの前に、ルイーズが仁王立ちで立ち塞がる。


「本当に卵を割ってるのね」

「……ほんとに来たんだ」

「私に二言はないわよ」

「……君の性格ならそうだね……」


 そうしてルイーズは、クリストフが卵を割る様子を、ただじっと見つめていた。5個ほど割ったところで、さすがにきまずいなぁ……とクリストフが思っていると、助け舟がクリストフの元にやってきた。


「やぁやぁ奥様。どうです?旦那様の割卵の手腕は」


 陽気に声をかけたのはティジャンだ。

 ルイーズがティジャンの方を向き、意識が自分から逸れたことにティジャンはほっとする。


「どうもなにも……私は卵を割ったことがないから良し悪しはわからないわ」

「では失礼ながら、一応ここの料理長である私から解説しましょう。旦那様の割卵の技術、確実に向上してます」

「一ー本当かっ!?」


 しかし、ルイーズが答えるより早く、クリストフが前のめりに反応した。


「最初の頃に比べれば、ですけど」


 ルイーズがいるからか、ティジャンはいつもよりかしこまった口調だ。


「へぇ?料理長のあなたがそう言うのであれば、きっとそうなのでしょうね」

「俺は嘘は言いませんよ。……そうだ、せっかく奥様もいるんだし、割卵のとっときの裏技を披露しましょうか」

「裏技!?!なぜそれを早く言わない!」


 またしても食いついたのはクリストフだ。えぇ……、と少し引きながら、ルイーズはクリストフを見ている。


「な〜んてことはない裏技でね、それは」

「それは?」

「それは?」

「相手のことを慮りながら割ることです」

「…………はぁ?」


 これにはさすがにクリストフもルイーズも同時に首を傾げた。


「相手を慮る?どういうことだ?我々が相手をしているのは卵じゃないか」

「まぁまぁ。少しは話を聞いてくれませんか。良いですか、厨房業務ってのは、旦那様や奥様が思ってる以上に慌ただしいものなんです」


 クリストフには覚えがある。

 初めて厨房に足を踏み入れたあの日。騎士団顔負けの怒号が飛び交うあの厨房の様子は、まだ記憶に新しい。


「卵を割る。これひとつとっても、卵を割るのが遅れりゃ次の仕事が滞る。……そうだな、たとえばその日作るのがシフォンケーキとしましょう。卵を割るのが遅れると、シフォンケーキの生地作りも遅れる。生地作りが遅れれば、オーブンを使う時間も遅れる。その日オーブンを使うのがシフォンケーキだけなら良いですが、他にオーブンを使う料理があったなら……?もしシフォンケーキが焼くのが遅くなって、旦那様や奥様の食事の時間がずれこんだら……?」

「そ、それは困る。色々予定が詰まっているからな」

「でしょう?だから俺たちの仕事ってのは、やってる作業は個々であっても、全ての作業が繋がりあって作用してるんです。だから卵ひとつ割るにしても、後々のことを見据えてやってかなきゃならない。だから、相手のことを考え、配慮しながらやってく必要があるんです」

「……なるほど……」

「だからねぇ、烏滸がましいことを言うんですけど、やっぱりまず、旦那様は奥様のことを慮ることから始めるべきだと思うんですよねぇ」

「……うっ」

「それに、俺ぁやっぱり、卵と女性の体は違うと思うし」

「うっ」

「悪いことは言いません。せっかく奥様もいるんだから言わせてもらいますが……卵を割るよりもね、ちゃんと二人でお話しした方が良いですよ」

「ううっ」

「ねぇ奥様知ってます?こいつ、奥様と上手くいってない、ってめちゃくちゃ落ち込んでたんですよ」


 突然話題を振られたルイーズが、目を丸くする。


「もうそれはすっごい落ち込みようで。だから卵割るとかトンチキなことまで言い出したんですよ」

「ティジャン!!それは言わなくても良いだろう!」

「いやだってねぇ。卵割って夫婦生活上手くいくなら誰も苦労してませんよ。ね、奥様。料理長兼旦那様の友達の俺に免じて、ちょっと旦那様とお話ししてくれませんか」


 考え込むようにルイーズは黙り、それからクリストフとティジャンの様子を交互に見つめた。そうして盛大なため息をついて、わかったわよ、と漏らしたのだった。





 というわけで、二人は話し合うこととなった。

 さすがにティジャンの前ではできないだろう、と、夜、二人きりのベッドの上で膝を突き合わせている。


「えっと」

「まどろっこしいのは嫌だから言うけれど、私の不満は、あなたの力加減が強いこと、それだけよ」

「……百も承知です」

「何回も聞いたけれど、どうしてあんなに力加減できないの?」

「うっ……君の裸を見たら興奮するからで……」


 と、そこまで話したところで、クリストフははっとする。

 興奮する、のは、あくまでクリストフの都合にしか過ぎないのだ。

 ティジャンが言っていた、相手を慮る、その言葉がぐるりと脳裏を巡る。

 興奮するのは俺だけの都合。俺は、俺は、ルイーズのことを真に考えていれなかったのでは?


「ル、ルイーズ」

「なによ」

「お、俺、頑張る、から。だから今夜、その、試してみないか……?」


 豆鉄砲でも喰らったような顔をルイーズが浮かべた。


「……まさか本気で、卵割ってどうこうできるようになったと思ってるの?」

「違う!そうじゃなくて……興奮する、のは、俺だけの都合だと思ったんだ。……俺に触られるルイーズは、俺が興奮してるとかは、その、関係ないだろ?なのにそれを押し付けて言い訳してたな、って思って……」

「……」

「だからルイーズ、頼む、上手くいかないかもしれないけどっ……」


 クリストフは本日2度目の土下座をお見舞いしながら、ベッドにごりごりと頭を擦り付けた。


「今夜、また、子作りに挑戦させてくれないだろうか……!」

「……」

「頼むっ……このままではいけないとは俺も思っているんだ……!だから……!」

「……仕方ないわね」


 はあ、とため息と共に許しを得たクリストフは思わず顔を上げて、

 

「あっ」

「……あ?」

「……ルイーズ、顔が真っ赤、」

「そんなこと言わないで良いの!!!今日痛かったら絶対許さないんだからね!!!!」


 というわけて何日かぶりの夫婦生活だったわけだが一ー卵とティジャンの教えをめいいっぱい生かし、ようやく、クリストフとルイーズは本当の夫婦になれたのだった。





 その後。

 上手くことが運んだ二人は、ティジャンを筆頭に、厨房で働く料理人達に臨時ボーナスを与えた。

 料理人たちはおおいに湧き、更に料理の腕を高め、「クリストフ男爵家のご飯は侯爵家ばりに美味しいらしい」と貴族間でも噂になってるとかないとか。


 更にその後、クリストフとルイーズは、貴族界でも有名な、押しも押されぬ子沢山なおしどり夫婦と名を馳せることになった。

 その裏にある、仕事のできる料理長と、割られに割られた卵達のおかげだという話は、当人達だけの秘密だ。

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