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『殺人奇術師』

『殺人奇術師』


 自称怪異探偵である雛菊香ひなぎくかおるは、今のところただの友人であり、大学の同じ研究室に所属する財前優斗ざいぜんゆうととともに、山の中を歩いていた。


「久しぶりにデートできると思ったのに、こんな山奥まで、歩かないといけないなんて……」


「なにか言いましたか、優斗さん?」


「いや、なんでもないよ……」


 優斗は荒い呼吸のどさくさに紛れて、現状を憂う溜め息を吐いた。


 彼と香は、ハイキングコースにしては少々厳しい勾配をした山道をえっちらおっちら歩いていた。山の頂上に建てられた屋敷で開かれるマジックショーに、二人は招待されているからだ。


「はやくしないと日が暮れちゃいますよ。日没までに来るように言われてますし」


「それは分かってるけど、ちょっと急ぎ過ぎ、じゃない……?」


 香はスマホで時間を確認しながら、かろうじて隣についてきている優斗に言う。


 高校ではバスケットボール部に所属し、激しい運動もお手の物だった優斗だが、大学では運動系のサークルに入らなかったのが災いした。ここ一年半ですっかり鈍った体にこの山道はきつい。


「そうですか?普通のペースで歩いてきたと思うんですけど」


 対して、香はけろっとした顔をしている。


 下草が生えておらず、茶色い地面が剥き出しになっているだけのこの起伏の激しい道を、舗装された都会の道路と同じペースで進めるのは十分異常だよ。


 優斗は、香こそが怪異だろと思った。


「第一、荷物が多すぎるんですよ。なにをそんなに持ってきたんですか?」


「服はいくらあってもいいでしょ?中が暑かったときのために半袖のTシャツとか、着替えの予備とか……」


「そんなの要らないですよ。暑かったら長袖の袖をまくればいいですし、汚れたら洗濯機を借りて洗濯すればいいんです」


「袖をまくるのは嫌だよ。皺がつく。それに洗濯機を借りるのはちょっと、しのびないというか……」


「なに言ってるんですか……」


 香は『それでも男ですか?』と続けたかったが、昨今のジェンダーへの多様性を意識して口をつぐんだ。


 代わりに、上り坂の道を進むペースを上げる。


「ほら、さっさと行きますよ!」


「待って……」


 自称『怪異探偵』の女子となよなよした一般男子のコンビは、やっとこさ山の八合目に到着した。



 ※※※



 それから約二十分後。香と優斗は瀟洒なつくりの洋館の前に到着した。四階建ての館の屋根は夕日を受けて黒い輝きを放ち、白い壁面の上にはおしゃれに波打った模様のついた窓枠で区切られた窓が等間隔に並んでいる。


 香たちのいる場所から数百メートル先には、屋敷の入口だろう茶色の木製の扉がある。戸は固く閉ざされ、部外者の侵入を許さない雰囲気を醸し出している。


「ドタキャンしたと思われて閉められちゃってますよ。急ぎましょう!」


「うん……」


 二人は半ば小走りで残りの道を駆け抜け、扉の前までやってくる。


 息も絶え絶えで膝に手をついている優斗に代わり、香が戸を三回ノックした。


「すいませーん、予約していた雛菊と財前です!遅れてしまい申し訳ありません!」


「雛菊様と財前様ですね。少々お待ちください」


 香が声を張り上げて名乗ると、扉の向こうからくぐもった男性の声が返ってきた。


 低く、落ち着いた声だ。屋敷のオーナーである凄腕マジシャン、アルティメット羽生アルティメットはぶの執事だろうか。


 香は流れる汗をタオルで拭い去りながら、推測していく。


「お待たせしました。どうぞお入りくださいませ、雛菊様、財前様」


 扉がゆっくりと開き、タキシードに身を包んだ初老の男性が現れた。


「わたくし、当屋敷の管理を任されております、綾野と申します」


 香と優斗が中に入るのを確認すると、ステレオタイプな格好をした老執事は扉を閉め、軽く頭を下げて自己紹介をした。


「雛菊香と申します。ほら……」


「あ、財前優斗です。よろしくお願いします」


 二人も妙にかしこまり、頭を下げて名乗る。


「ショーの準備は整っております。お部屋にお運び致しますので、お荷物をお預かりします」


「よろしくお願いします」


 香はリュックの中から小さなトートバッグを取り出し、財布や化粧道具などを移してからリュックサックを綾野に渡す。


「僕はこれを」


 優斗は手にぶら下げていた大きめの旅行カバンを差し出した。


「確かにお預かり致しました。お食事の会場は左手の、あちらの入口からお入りください」


 綾野は丁寧な口調で説明し、正面の螺旋階段に向かっていった。


「行きましょう、優斗さん」


「ああ」


 香と優斗は、綾野が示した入口に向かう。


 エントランスホールは実際より広く感じる構造をしていた。二階をぶち破った吹き抜けになっていて天井は見上げるほど高く、床の大理石は塵一つなくピカピカだ。


 二人が入ってきた入口から見て右手と左手に観音開きのドアがあり、右手のドアは閉ざされている。


 左手のドアは開放されていて、脇にはこれまたステレオタイプなメイド服を着たメイドが控えている。


 歩きつつドアの向こう側を伺うと、いくつもの円形のテーブルとマジックを披露するためのステージが見えた。あそこがディナーショーの会場で間違いないだろう。


「ようこそお越しくださいました。雛菊香様と、財前優斗様ですね」


「はい。遅くなってしまいましたが……」


「構いませんよ。むしろ、お怪我や遭難などされていなくてよかったです」


「まあ、疲労困憊なんですけどね」 


「大変お疲れ様でした」


 メイド服姿のメイド、胸の名札によると辻あかりというらしい、はにっこりと微笑みながら言うと、右手の平を上にして脇の位置に掲げる。


「どうぞお入りください。お名前のプレートが席にございますので、そちらにご着席ください」


「ありがとうございます」


 香と優斗は頭を下げてお礼をし、会場に入った。


 マジックショーの会場は、外から見ていたよりも広かった。結婚式の披露宴やパーティを開けるほど広い室内のあちこちに、白いクロスの敷かれた円形のテーブルが立ち並んでいる。


 目を走らせて数えると、テーブルの数は全部で五つだ。 


 さらにテーブルの円周九十度ごと、つまり一つのテーブルに四席ある、に配置された木製のアンティークチェアはほとんどが埋まっている。


 というか、真ん中のテーブルの隣り合った二席以外全て埋まっている。それすなわち、香と優斗が最後に到着した招待客であることを表していた。


「なんかすいません……」


 五つあるテーブルの四つの席が全て埋まっているので、招待客の合計は二十人。世界的に有名なマジシャンであるアルティメット羽生に対する客数としては、いささか少なすぎるような。


 ディナーショーだから、人数が多いと料理の準備が大変なのかもしれない。


 それにしても、席を取るのに結構な値段がした。高級ディナー+一流マジシャンによるマジックショーの観覧と考えればやす……。いや、そう割り切っても高い。


 まあ、そもそも大学生を対象にしたイベントではないと言われればそれまでだが。


 優斗が誰にともなく謝っている横で、香は様々なことに思いを馳せていた。


「いいんですよ、カップルさん。まだ十九時にはなっていないから、遅刻じゃない」


 二人が席に着くと、香の正面、優斗の左隣に座っているスーツ姿の男性が話しかけてきた。


 歳はそこそこいっている。若く見積もっても四十代くらいか。ワックスで固められた頭髪は黒さを保っており、自身に満ちあふれたハンサムな顔やテーブルの上に組まれた手の甲に皺はほとんどない。


 着ているのは上等そうな黒のジャケットと水色のワイシャツで、いわゆるオフィスカジュアルに近い。プライベートなこの場においてフォーマルさを含む格好をしていることから、仕事とプライベートの境界が曖昧な職業に身を置いていると予想できる。ぱっと思いつくのだと、自営業またはフリーランスと呼ばれる働き方をする人間だ。


 顔の肌は少し浅黒く、日焼けするような趣味をしているのだと推測できる。手はほとんど焼けていないのを見るに、ゴルフだろうか。


 自営業かフリーランスで、ゴルフを嗜むような職種はある程度限定される。もちろん、この世に存在する全ての職業を把握しているわけではないが、香は彼を経営者か投資家だと踏んだ。


「お二人ともお若いわね。学生さん?」


 続いて話しかけてきたのは、香の右隣、優斗の正面に位置するマダムだった。


 露出の少ないラベンダー色のボタン付きブラウスに、同じ色で膝丈のタイトスカートを組み合わせたツーピースだ。きっと香が聞いたこともないブランドものなのだろう、着用者の上品さと高級感が一層際立っている。


 肌は白い。顔の化粧は薄く、残酷にも加齢による皺が浮き出てしまっているが、老いているという印象は全く受けない。むしろその逆で、爛々と輝きながら興味深そうに香と優斗を交互に見つめる両目から、少女のような好奇心旺盛さと若々しさを感じる。


 真珠のピアスもよく似合っている。白い髪は短く揃えられていて、そこからも清潔さと上品さが伝わってくる。


 刺激を求める貪欲な目と身なりから考えると、大企業の女社長もしくは社長夫人といったところだろうか。


 香はそう当たりをつけながら、受け答えする言葉を探す。


「大学二年生です。あと、私たちは付き合っていません」


「そうなんです、まだ……」


「まあ!でも、案外時間の問題じゃないかしら?」


「そうですね。初対面の僕が見ても、二人はお似合いだと思うよ」


「そ、そうですか……?」


 雑談は優斗に任せ、香は視線を手前に持ってくる。


 テーブルの上には名前の書かれたプレートと食事用ナプキン、皿やカトラリーが置かれており、端の方には色々な果物の詰まったバスケットがある。いわゆる、フルーツバスケットというやつだ。


 そして、バスケットの前には果物ナイフが横たえられている。光量の強い会場の照明に照らされ、銀の刃が怪しく光った。


「……そろそろ、十九時ですね」


「いよいよね。えっと……」


「雛菊香といいます。明和大学文学科の二年生です」


「香ちゃんね。私は秋野桜子。コスモス(秋桜)が好きな母がつけてくれた名前よ。よかったら覚えてね」


「いいお名前ですね。桜子さんはマジックがお好きなんですか?」


「もちろん好きだけど、彼の、アルティメット羽生の追っかけみたいなものね。私は彼が若い頃から見てたから」


「失礼かもしれませんが、世代というわけですね」


「そうそう。一緒に歳を取って、勝手に応援してるだけのファンよ」


 そう語る桜子の目は、心から好きなものを考えているときに生じる熱っぽさを帯びていた。本当に彼を応援しているのだろう。純粋な熱意が香にも伝わってくる。


 確かアルティメット羽生は十八歳でプロデビューして、今は五十四歳だったはず。となると、桜子の年齢は五十歳後半から六十歳前半くらいか。


 いや、もしかすると七十歳以上かもしれないが、外見からはとてもそうは見えない。


「もうすぐよ。いつも十九時きっかりにショーが始まるの」


「はい」


 香がそう答えた途端、ガタンッという大きな音とともに会場の照明が消灯した。


 真っ暗になる会場。すぐさま、優斗と男性の話し声を含めた周囲の喧騒が止む。


 数秒の間を置いてからスポットライトが点灯し、会場の奥にあるステージの上を照らし出す。


「レディースアーンド、ジェントルメーンッ!!」


 スポットライトが照らす先には、赤と白のストライプ柄のタキシードを着たダンディな中年男性が立っていた。彼こそが、世界で名を轟かせているマジシャン、アルティメット羽生だ。


「今夜はわたくし、アルティメット羽生のマジックディナーショーにお越し頂き、誠にありがとうございます!どうか心ゆくまで、わたくしのマジックと素敵な料理をお楽しみ頂ければと、思っております!」


 羽生はピンと背筋を伸ばし、香たちゲストに向かって大声を上げている。


「マイクは使わないんですね」


「羽生さんは仕事中一切機械を使わないし、近づこうともしないんだよ。自分のマジックにはタネもしかけもないことを証明するためにね」


「機械を使ったトリックだと疑われないようにしているってことですか?すごい真面目なんですね、アルティメット羽生さんって」


 口上が始まっているのにもかかわらず、優斗と男性は相変わらずくっちゃべっている。そんな男性陣に、香と桜子の女性陣は冷たい視線を送る。


「さて、この館までお越し頂いた皆さんは大変お腹が空いたでしょうが、もう少々お待ちください!ただいま当館のメイドよりウェルカムドリンクと、わたくしよりウェルカムマジックのおもてなしをさせて頂きますっ!」


 羽生がはきはきと言い放つと、照明が淡く点灯し、会場全体がかろうじて同卓の人の顔を判別できるくらいの明るさになる。


 それとほぼ同時に、出入り口からサービングカートを押しながらメイドの辻が入室してくる。


「グラスが皆さんの手に行き渡るまで少々かかりますので、わたくしからウェルカムマジックを提供させて頂きます!まずは景気づけに……、はいっ!」


 羽生は言いながらゆっくりと手を握り、最後のかけ声とともに手を開く。


 すると、なにも持っていなかった羽生の手の上に一羽の白いハトが現れた。 


 おおっ!と会場中から歓声が上がる。


「マジックといえば白いハト!平和の象徴として有名ですが、この白いハトはギンバトという種類で、私たちが普段街中で目にするハトとは別の種類なんです!人懐っこい性格で、血の通っていない機械のごとき正確さの手先を持つわたくしでも扱えるというわけです!」


 羽生のジョークに、ははははっ!と誰かが笑った。


 香は、粋なユーモアなど分からないので笑えなかった。


 メイドがサービングカートを入り口脇に停め、カートの上にあるいくつものグラスの乗った銀色のトレイを片手で持ち上げながら、招待客のテーブルに近づいてくる。


「普通のマジシャンならば、白く美しいギンバトを飛び立たせて次のマジックに移るところですが、私には彼、もしくは彼女にもう一仕事してもらいます!よーくご覧ください……!」


 羽生は客の注目を集めると、腕をしならせてハトを真上に放り投げた。


 速度が乗ってハトが白い残像に変わった一瞬の間にシルエットが膨らみ、重力に相殺されて空中で静止した頃には、全く別の生き物に変わっていた。


「おっとと」


 羽生はわざとらしく慌てながら、自由落下を始めた一羽の白いニワトリを両手で抱え込むようにキャッチした。


 おおー……!と、テーブルのあちこちから感嘆の声が上がる。


 メイドが出入り口に一番近いテーブルとその次に近いテーブルにグラスを給仕し終え、香たちのテーブルにやってくる。


「お一つ、お好きなものをお取りください」


 辻はそう言い、薄暗い中でもグラス全体が見えるよう、香の左の肩上辺りまでトレイを近づけてくる。


 香は会釈し、グラスを一つ取ろうとする。


 が、おかしい点に気づいた。


 これもなにかのマジック?香は思う。


 他のグラスは全て青色なのに、一番手前にあるグラスだけ紫色に見えるからだ。


 明かりが乏しくて、見え方が違うのか?いや、そうだとしても、一つだけ色が変わるなんておかしい。


「……」


 相手はあのアルティメット羽生だ。ウェルカムドリンクと称してなんらかのトリックをしかけてきてもおかしくない。


 意図は分からないものの訝しんだ香は、グラスを取らないのもよくないと思い、一番手前の紫のグラスを避け、その隣の青いグラスを取った。 


「皆さんにとっては、白い鳥といえばこちらですよね!そう、ニワトリです!ほらご挨拶して?」


 羽生が促すと、ニワトリはまるで言葉が通じているかのようにコケコッコー!とステレオタイプな鳴き声を上げた。


 わー!という感激の声と大きな拍手が飛ぶ。


 メイドが隣の優斗の席に近寄り、香にしたのと同じようにグラスを提供する。


「お一つ、お好きなものをお取りください」


「ありがとうございます。ドリンクも嬉しいですけど、いい加減お腹が空きました。早く料理が……」


「果物は、そちらの果物用ナイフを使ってお召し上がりください」


「ああ、はい」


 優斗は青いグラスを手に取った。辻は香の正面に座る男性の方へと近づく。


「実はこのニワトリ、この館の裏庭で飼っているんです!わたくしのマジックにはタネもしかけもございませんが、トリックは自給自足しているわけです!」


 再び、会場は陽気な笑いに包まれる。


「お一つ、お好きなものをお取りください」


「ああ、ご苦労さん」


 その喧騒の中、辻はメイドとしての役割を果たし、男性にグラスを提供する。


 男性は一瞬トレイの上に視線を這わせたものの、迷うことなく一番手前に置かれた紫のグラスを取った。


「……!」


 その様子を見ていた香は内心驚く。


 例えマジックだとしても受けて立つ、ということか。香は、男性を物怖じしない強気な性格だと読んだ。


「まだ終わりませんよ!彼女にはもう一仕事してもらいます!できるかな、エミ?……別れた奥さんの名前です」


 エミと呼ばれたニワトリに懇願するように話しかける羽生の姿に、会場から湿った苦笑が漏れる。


 香は羽生がバツイチであることは把握していたが、まさかマジックに使うニワトリにそんな名前をつけていることは知らなかったので、目を丸くした。


 意外と元奥さんに未練があるんでしょうか。いや、むしろそういうネタという可能性も……。自分の離婚した経歴すら笑いに変えるコメディアンもいますし。


 香はマジックショーそっちのけで、そんな他愛もないことを考えていた。


「んん~、冷たくておいしい。レモンの果汁が入ってるな、後味がサッパリだ」


 そして、すっかり食べることにフォーカスしている優斗はもらったグラスの中身を飲み始める。


「それはいいことを聞いた。僕も頂こうかな」


「エミ、エミ、いくよ!いち、にの、さんっ!!」 


 羽生の大仰なカウントがされると同時に、エミがするっと真っ白な卵を産み、香の正面の男性がグラスを傾けた。


 またまた、会場が歓声に包まれる。


「ありがとうございます!ですが皆さんの中には、私がエミをいじめて無理やり卵を産ませたとお思いになるかもしれません!もちろん、そんなことはございませんが、こうして卵が手元にあるといささか都合が悪いですね!不都合な証拠は、こうしてしまいましょう!」


 そう言い、羽生がエミの卵を右手で握りしめる。


 観衆からは卵の白が見えなくなる。


「……おいしい」


 紫色のグラスを置き、男性がすっきりとした表情を浮かべる。


「せーのっ、はいっ!」


「うっ!」


 が、それも一瞬だけだった。


 爽やかな顔つきから一転して、男性の顔が苦痛に歪む。震える両手を喉元に持っていき、飲み込んだものを拒絶するように掻き毟り始める。


 羽生が手のひらを開くと、そこには卵ではなく、白いハトがくるまっていた。


 明らかに常軌を逸した様子の男性の上半身がよろめき、椅子から滑り落ちながら床に倒れ込む。

 

「だ、大丈夫ですか!?」


 優斗が大声を出したことで、ゲストの注意がステージから香のテーブルに移った。


「え、なんですか?」


 今までの大音量からは想像もつかないほど弱々しく、羽生が素っ頓狂な声を上げると同時に、会場の照明がショーの開始前の明るさになる。


 白に少しのオレンジが混ざったような強く優しい明かりが、香や優斗、桜子や困惑する招待客たちの姿と、泡を吹いて倒れている男性の体を照らし出した。


「きゃああああああっ!!」

  

 各々が事態を理解するための数秒の沈黙の後、女性の誰かが黄色い悲鳴を上げた。

 

 それに触発され、香は混乱から目覚めた。急いで席を立って、男性の下に近づく。


「香ちゃん、広田さんは……?」


「皆さんは動かないで。呼吸を確認します」


 言いながら香は男性の体を仰向けにし、呼気を吸わないように泡を吹いている口に耳を近づけ、同時に胸の上下を見て呼吸を確認する。


「残念ながら、呼吸が確認できません。それに……」


 香は顔を少し持ち上げ、右手を扇子のように仰いで男性の呼気を嗅いでみる。


「男性の口から独特の、いわゆるアーモンド臭と呼ばれる臭いがします。青酸カリなどの毒物が使用された可能性があります」


「せ、青酸カリ!?」


 優斗が大げさに叫んだせいで、会場中に伝わってしまった。


 たちまち「毒!?」「グラスに毒があるのっ!?」などのどよめきがあちこちから噴出する。


 香は溜息を吐き、その勢いのまま大きく息を吸い込んだ。


「皆さん落ち着いてくださいっ!優斗さん!」


「は、はいっ!」


「すぐに救急車と、警察の手配を」


「はいっ!」


「辻さんは綾野さんに服毒事案が起きたことを報告して、この館にいるスタッフ全員をこの部屋に集めるように伝えてください。あと厨房に行って料理人の作業を中断させて、これ以上食材や調理器具に触らせないようにした上で、厨房には誰も入れないようにしてください」


「はい」


 香は優斗、辻の順にぴっ、ぴっと指を指しながら指示を出していく。


「香ちゃん、これってマジックじゃないのよね?演出じゃなくてこの人は本当に……」


 辻が会場を飛び出していき、優斗が慌ててスマホを顔の横に張り付ける様子を不安げに見つめながら、桜子が聞いてきた。


「ええ、桜子さん。その可能性は高いと思われます。つまり……」 


 香は真剣なまなざしで桜子の目を見ながら、ゆっくりとその言葉を紡いだ。


「これはマジックでも演出でもなく、服毒による殺人事件の可能性が高いです」


 遊びでも娯楽でも芝居でもなく、殺人。人間にとって最も恐ろしい現象が起きたことを、この場にいる全員が実感する。


 ぐにゃりと、会場の雰囲気が歪んだ。



 ※※※



「殺害されたのは、広田浩輔ひろたこうすけさん三十九歳。職業は投資家です」


「投資家か……。恨まれるような人だったのか?」


「業界では『無邪気な悪魔』と揶揄されるくらいの色物だったそうです。ふと興味の湧いた事業に数十億規模で投資した次の日には、興味が失せて援助を打ち切る、なんてことが日常茶飯事だったようで」


「『無邪気な悪魔』か。投資先からしたらたまったものじゃないな」


 平塚巡査からの報告を聞いた畠山巡査部長は、小さく溜め息をついた。


 被害者の亡くなり方からして殺人の疑いが強いとみられ、さらにここは山奥ではあるが一応東京都内であるため、警視庁から捜査一課の二人が派遣されたのだった。


「もう被害者の素性が分かってるんですね」


「その筋では有名人でしたから。……って、なんですかあなたは!」


「いや、平塚も答えるなよ」


 二人の会話にしれっと割り込む香に気づかず、捜査情報をうっかり漏らした部下に上司は呆れた。


「覚えていませんか?以前の水の事件でお会いしましたが」


「水の、あの事件?……あ」


 平塚は思い出した。口車に乗せられ、いいように扱われた過去の一場面を。


「よくもまあぬけぬけと……!」


「やめとけ、平塚。この人はお前の手に負えない」


 部外者を追い返すテンションになった平塚に、畠山は待ったをかける。


「彼女、雛菊香さんは被害者と同じテーブルを囲んでいた重要参考人で、毒殺の疑いが強いことにいち早く気づいて現場を保存してくれたんだ。ここはある程度事件の経緯を明かして、状況の擦り合わせをした方が賢明だ」


「私が言うのもなんですが、私もそう思います。隣に座っていた優斗さんよりも詳細に説明できる自信がありますもの」


 香がそう言うと、スタッフや招待客たちが待機している会場のテーブル席の方から大きなくしゃみの音が響いた。


「それに雛菊さんは一応、自称探偵だ。放置して勝手に動かれても困る」


「一応自称探偵って、めちゃくちゃ怪しいじゃないですか……」


 上司の説得にもかかわらず、平塚は納得がいっていないようだった。香を見る目が完全に不審者を見る目になっている。


「まあそう怪しまないでください。今回は、お二人のご迷惑になるようなことはしません」


「『今回は』ということは、やっぱり前回は迷惑をかけていたんですね?」


「あら」


 やってしまったとばかりに、大げさに口を押さえる香。


「……もういいです。怒る気も失せました」


「そういう振る舞いが胡散臭さを引き立てているんじゃないか?……まあいい、とっとと話を聞くとしよう」


 平塚の説得ができたところで、刑事二人と自称探偵一人の怪しげな捜査会議が始まった。


「まず、私が今夜のことを話す前に、被害者のバックボーンを教えてください。私がそれを聞いてから、情報を取捨選択してお二人に分かりやすく説明しますので」


「体よく情報を引き出しおって……」


 いきなりの香の自分勝手な提案に、畠山が苦い顔をする。


「いくら言ってもきりがないですね……。先ほど説明したとおり、広田さんは投資家です。彼の知人の一人に連絡が取れたので電話で話を聞いたのですが、彼は最近マジックの面白さに気づき、いくつかのショーを観覧したりマジシャンの育成機関に投資をする中で、プロマジシャンのアルティメット羽生さんのことを知ったようです」


「それで今夜、ディナーショーに参加したというわけですね」


「はい、ほぼその通りです」


「ほぼ、とは?」


「実は、被害者はアルティメット羽生さんの存在自体は認知していましたが、羽生さんが定期的にディナーショーを開催していることまでは知らなかったようなんです」


「でも、被害者は今夜ショーに出席して、何者かによって殺害されてしまいました」


「それが、少しきな臭いんです」


 平塚は興奮しすぎないよう、自制しながら話を続ける。


「知人によると、被害者はSNSをやっているんですが、そのSNSアカウントに直接、身元不明のアカウント、いわゆる捨て垢からメールが届いたそうです。メールには、羽生さんのディナーショーの申し込み画面のURLのみが添付されていたそうです。これはまだ裏を取れていませんが、被害者のスマホを調べれば分かると思います」


「捨て垢というのはよく分からんが、怪しいのか?」


「おおよそ、匿名の通報くらい怪しいものです」


「なるほど、それは怪しい」


「……続けます」


 インターネットに疎い畠山の扱い方の上手さに内心舌を巻きながら、平塚は口を動かす。 


「職業柄、被害者も敵の多さは自覚していましたが、マジックに熱中しているときにマジックショーの勧誘が来たので、渡りに船と思って飛び乗ってみたと、被害者は知人に明かしていました」


「それは確かに……、彼ならそうすると思います」


「どういう意味だ?」


「後でまとめて説明します」


 刑事たちにとっては含みのある言い方になったが、香は被害者が紫のグラスを躊躇なく取った光景を思い出していた。


「まとめると、広田さんはマジックに夢中だった折、怪しいメールがきっかけでディナーショーに出席したということになります」


「決めつけはよくないが、まあメールを送った人物が毒を盛ったんだろうな。絶好の舞台を用意して、被害者を殺害した」


「俺もそう思います。ですが……」


 香のまとめに畠山が同調し、平塚も乗りかけた。


 が、既に館のスタッフに聞き込みを終えていた彼は言葉を濁す。


「毒を盛られた経緯がおかしいのですね?」


「はい。雛菊さんのおかげで提供されたグラスと、料理を作っていた厨房は誰の手も加えられていない状態で保存されていました。ですので、証拠の隠滅はないとして聞いてほしいのですが……」


「話してくれ、平塚。雛菊さんはどうせ聞かないと協力してくれない」


「分かりました」


 平塚は溜め息をこぼして、高まっている気持ちをリセットする。


「まず、被害者は青酸系の毒物によって中毒死していました。解剖はまだですが、おそらく紫のグラスに入った青酸カリ入りの水を飲んだことが直接の死因かと思われます」


「やはり、紫のグラスに入っていたのですね」


「はい。紫のグラスに残っていた水から青酸系の毒物が検出されたことも、これを裏づけています」


「そうですね。お二人が来るまで私が常に被害者の近くで見張っていたので、犯人による隠滅や捏造はないと思います」


 香は納得したという表情を作る。


「そして、青いグラスからは毒物が検出されませんでした。レモンを少し絞っただけの、ただの水だそうです」


「それも合ってます。連れの優斗さんが飲んだとき、さっぱりしたそうですから」


「となると犯人は、紫のグラスにだけ毒を仕込んだということか。というか、なんで毒入りのグラスだけ紫色なんだ?他のグラスと同じように青色じゃ駄目だったのか?」


「それに関しては理由が判明しています。ウエイトレスの辻あかりさんが青いグラスと紫のグラスをウェルカムドリンクの給仕に用いたのですが、そうするように指示があったと言うんです」


「指示?誰からどんな指示があったんですか?」


「業務用に使っている辻さんのメールアドレスに、アルティメット羽生さんを騙るアカウントからメールで、『招待客二十人に対して、十九の青いグラスと一つの紫のグラスを用意しているから、レモン水を作ってそれらのグラスで提供すること』を命じられたそうです」


「騙るアカウントということは、羽生さんがそう指示したわけじゃなかったんですね?」


「はい。羽生さんもスタッフのトップである綾野さんも、そんな指示はしていませんでした。なのでこれもおそらく犯人による罠だったのですが、辻さんはそのことを知らず、実際に厨房に十九の青いグラスと一つの紫のグラスがあったので、それらで給仕したと証言しています」


「辻さんが指示されたのは、それだけだったんですか?」


「いや、他にもありました。『マジックの展開上必要だから、指定したグラスを絶対に使うこと』と、あとこれが一番不自然なんですが、『招待客に水を給仕するとき、招待客から見て最も手前になるように紫のグラスを置くこと』もありました」


「指定したグラスを使わせたのなら、紫のグラスにだけあらかじめ毒が塗られていたんでしょうね」


「俺たちもそう睨んでます」


「でも二つ目の、招待客から見て最も手前になるように……?確実に被害者に紫のグラスを取ってほしくてそう指示したのでしょうか?」


「だと思いますが、いくら手前にあるからといって、いくつもある青いグラスの中に一つだけ紫のグラスがあるんですよ?普通なら警戒して青いグラスを取ると思うのですが……」


「羽生さんの口上も、ドリンクになにかある感じを醸し出していましたからね。紫のグラスを取ればマジックの標的にされるかもしれないと思って、気が引けるのは分かります」


 ただ……。香は続ける。


「被害者の豪胆な性格を犯人が知っていて、そこにつけ入ったとしたら」


「被害者なら色が違くても、いや色が違うからこそ率先して紫のグラスを取るということか?」


「確かにそう考えると、毒入りのグラスだけ紫色だった理由に説明がつきますね。他の招待客は警戒して取らないので、残った紫のグラスを被害者に選ばせる。無差別に見せかけた計画的な殺人ということになります」


「事実、広田さんがグラスを選んだのは十一番目。私を含めた前の十人は紫色のグラスを取りませんでした」


「なるほど。だいぶつかめてきたな」


 畠山は思案の残る顔を少しほころばせながら言った。


「ガイシャをショーに誘った人物=辻さんに指示した人物=グラスを用意した人物=殺人犯とすると、正体が絞れてくる。まず、ガイシャがマジックに興味を持っていたことを知っていた人物」


「それは本人がマジック好きをSNSで発信していたので、誰でも知り得ます」


 香は素早く言い、自らのスマホの画面を二人に見せる。


 画面には広田浩輔のアカウントが表示されており、『今はマジックに熱中しています』と、そっけない文章が投稿されていた。


「じゃ、じゃあ次は辻さんの連絡先を知っている人物だな」


「それなら、この館のスタッフ全員があり得ますね。もしかしたら招待客の中にもいるかもしれませんが」


「これからやる取り調べではっきりさせればいいですね。もうこんな時間ですが……」


 平塚はちらりと、右手首に巻かれた腕時計で時間を確認する。時刻は二十一時ちょうどを示していた。


「最後に、今夜使われたグラスを用意した人物だな。厨房にはカメラはあったか?」


「ありました。グラスが収められた棚も映っていて、二十四時間稼働しているタイプなのですが、支配人の綾野さんによると直近の一週間分しか録画を保存していないらしいです」


「犯人がそのことを知っていたとしたら、一週間より前にグラスを用意した可能性が高いですね」


「となるとやはり、スタッフが怪しいか。さっきやった所持品検査では毒物はおろか、誰も怪しいものは持っていなかったからな。前もって毒を仕込んでおいて、当日は潔白でいるつもりなんだろう」


「一応映像を確認してもらっていますが、望み薄だと思います」


 三人は渋い顔をして黙り込んだ。


 臨場した捜査員を総動員し、招待客、スタッフ、アルティメット羽生らに行った所持品検査が空振りに終わったことも、捜査の雲行きの悪さを助長していた。


 たっぷり数分の沈黙が流れた後、ふと畠山が香に目配せをしてくる。


「なんですか」


「俺たちが話すことは話した。今度は、雛菊さんに説明してもらう番だ」


「ディナーショーが始まってから被害者が亡くなるまでの経緯を、よろしくお願いします」


「……はい、分かりました」


 刑事二人にすごまれ、香は渋々取り調べに応じた。


「私がアルティメット羽生さんのマジックショーに応募したのは、彼のマジックを生で見てみたいと思ったからです。ですので連れの優斗さんと一緒に応募して、当選したので今夜ここに来ました」


「ああ、その辺りは疑ってないから大丈夫だぞ」


「一応、私も参考人ですから。はっきりさせておかないと」


「そうか」


 畠山はすっかり、雛菊を信頼しているようだ。


 無条件で被疑者から除外するほど、以前の水の事件で活躍したのか?平塚はこっそり訝しんだ。


「それと、応募に当たってウェブサイト上でアンケートへの回答を求められました。趣味や特技、好きな場所や有名人、血液型やアレルギーがあるかなどの一般的なものから、表示された虹が何色に見えるかやお金と愛のどちらを取るか、正解のない課題にどう立ち向かっていくかなど、回答者の感覚や心理、信念を問う設問もありました」


「招待客の基本的情報を集めていたということか。運営側の犯人なら、被害者のアンケート結果を確認できるよな?」


「綾野さんに言って、被害者のものを取り寄せます」


 畠山と平塚が頷き合いながら、やるべきことを擦り合わせる。


「あとは今日の夕方まで、特筆すべきことはないですね。今日は優斗さんと待ち合わせてから、電車で最寄り駅までやってきて、登山をしてここまで来ました。それから……」


 香は羽生の館にやってきてから広田が亡くなるまでのことを、なるべく詳細に二人の刑事に説明した。


「会場が薄暗かったとはいえ、ガイシャはほとんど迷わずに紫のグラスを取ったわけか。まんまと犯人の思惑通りいったと」


「ですが畠山さん、犯人はなぜ被害者が紫のグラスを取ると確信できていたのでしょう?勝ち気で豪快な性格だったからというのではあまりにも、不確実ではないですか?」


「だな、俺もそこが分からん。ガイシャが逆張りして青いグラスを選んだら、犯人の作戦は水の泡だ。下手すりゃ、違う誰かが毒を飲んでいただろうしな」


 畠山は苦々しく言いながら、香を見た。


 さっきもこんな流れがあったような?


「なんですか」


「探偵としての、雛菊さんの意見はどうだ。誰が犯人だと思う?」


「そんなの分かりませんよ」


「分からない?探偵なのに?」


 あまりの即答に、思わず平塚が茶々を入れる。


「メールを送ったりグラスを用意するのは館のスタッフであれば誰でもできますし、今の段階では特定できないですよ。警察が毒の入手ルートやメールの履歴などを調べれば、いずれ犯人が明らかになるでしょう。私が口出しせずとも、時間が経てば確実に解決できるはずです」


「なんだ、そういうことですか」


 香の煙に巻く主張に平塚は騙せたが、畠山は一筋縄ではいかないようだった。


 香の発した言葉を吟味するように頭の中に流し込み、自分なりに理解した畠山の顔はなお難色を示していた。


「本当にそうか?探偵さんの目から見て、怪しい人はいなかったのか?スタッフ、招待客、もしくはアルティメット羽生さんの中で」


「ええ、いませんでした」


「……そうか」


「それでは、私は話すことは話したので、部屋に戻って寝てもいいですか?」


「ああ、いい」


 香は嘘をつき、刑事たちから足早に離れた。


 香は隠していた。事件が起きてから警察が来るまでの間、今夜のディナーショーに関わることを洗いざらい思い返し、気づいたことがあることを。



 ※※※



 数時間後。草木も眠る丑三つ時。


 夜の闇の中を、音を立てずに移動する一つの影があった。


 影は一階の廊下を壁沿いに伝っていき、エントランスホールへとたどり着く。


 もう少しだ。影がほくそ笑み、玄関の方を見やる。


 あの大きな扉を開いて外に出られれば、私は自由だ。あの日から止まっていた、私の人生がやっとリスタートする。


 ゆっくりとドアに近づく。警備の人間がいないが、なにも警察の方針は全部把握しているわけじゃない。犯人が館にいるという確証がないのか、逃亡する可能性を考慮して夜警を置くということはしていないようだ。


 甘いな。流石はあの男を野放しにしてきた警察だ。


 私がこうして鉄槌を下すまで、あの男はのうのうと生きてきた。気まぐれに多くの人間を不幸にし、苦しめてきたあの悪魔は、素知らぬ顔をして日々を過ごしていたのだ。


 許せない。許せなかったから、殺した。


 後悔はしていない。むしろ清々しい気分で今を迎えている。


 扉の前に着いた。右手をノブに伸ばす。


 もう少しだ……!


「色覚異常、ですね?」


 後ろから発せられた香の一言に、影がびくりと震える。


「アンケートの設問で、画面に表示されている虹の色を問うものがありました。あれは、回答者が色覚異常かを見極めるためのものですよね?」


「な、なんのことだか……」


「先ほど綾野さんに聞いてきました。応募した人が必ず答えなければならないあのアンケートを管理、集計していたのはあなただったんですね」


「それはそうだけど、それがなに?」


「あなたなら、設問の内容は自由自在ですよね。それに、アンケートに未回答だったと綾野さんに報告することで、応募者の当落を操ることもできたでしょう。設問には年齢やアレルギーの有無など、ディナーショーの出席に欠かせない情報を問うものもありましたし、未回答はまず当選されない」


「だからなにを……」


「そうしてあなたは応募者を篩にかけ、色覚異常の広田さんと、色覚異常ではない他十九人を招待客として当選させた」


「……」


 香がなぜここにいるのか、なにを話しているかなどという疑問は愚問でしかなかった。


 気づいている。後ろの小娘は、事件の全て知っている。


 影がゆっくりと振り返った。


「色覚異常の傾向がある人にとって、青と紫は非常に区別がしづらいそうです。ましてやマジックのために薄暗かった会場ではなおのこと。色覚異常の広田さんは青と紫の区別がつかないまま、一番手前にあった毒入りのグラスを取ったんです。あなたの思惑通りに」


 香にあなたと言われた犯人、メイドの辻あかりは不気味だとばかりに身を捩らせた。


「……思惑って、なんのことですか?私にはさっぱり」


「このトリックが上手くいかないことを加味して、あなたは『二の矢』を用意していた。無論『一の矢』が上手くいった場合に、警察が調べてもその存在が怪しまれないような別の手段を」


 辻は微動だにせず、沈黙していた。


 香が、目の前の探偵がどこまで推理し、なにを結論として語るのかについて早く知りたいという、訳知り顔のままで沈黙していた。


「『一の矢』が相手の色覚異常に依存する成功確率の高くない手段でしたから、『二の矢』はきっと、もっとずさんなものだったんでしょう。例えばそっと背後に近づいて、サービングカートに忍ばせていた予備の果物ナイフで喉を掻き切るつもりだった、とか」


「……」


「沈黙は肯定と受け取ります。口答えしても肯定と受け取ります」


「……それじゃあ、逃げ場がないじゃない」


 香の暴言に近い追及の仕方に、辻の口調がぶっきらぼうになる。


「でも、逃げるつもりはなかったんでしょう?『二の矢』を放つときは背水の陣、つまりは殺人犯として捕まることも厭わないつもりだった。刑務所送りにされても構わないほど、あなたは広田さんを殺したかった。憎んでいたんです」


「その根拠は?あなたは私のなにを知っているの?」


「それを調べるのは警察の仕事です。私は、あなたが殺人犯の可能性が最も高いと言っているんです」


 香は頭の中から沸き立ってきた興奮を鎮めながら、唇を舐める。


「ウエイトレスのあなたならば、水の給仕用に確実に青と紫のグラスを用いることができる。自作したメールを自分のアドレスに送れば、それらのグラスを使うことを自分とは別の黒幕による指示だと思わせることができる」


「……」


「それに、実際に水を給仕するあなたならば、毒入りの紫色のグラスが他の人の手に渡らないようにある程度コントロールできます。あのメールには紫色のグラスをトレイ上の招待客から見て一番手前側に置いて給仕すること、そしてそれはマジックの演出のために必要だと書いてありました」


「そ、そうよ。私はその指示に従っただけ」


「ですが、あなたはおっちょこちょいな私の連れ、優斗さんがよく確かめもせず紫色のグラスを取りそうになったとき、不自然に話を切り出して妨害した」


 『ありがとうございます。ドリンクも嬉しいですけど、いい加減お腹が空きました。早く料理が……』


 『果物は、そちらの果物用ナイフを使ってお召し上がりください』


 香は、彼女がそう言いながらグラスの並んだトレイを持ち上げたシーンを回想していた。


 あのとき、グラスを求める手が空を切った優斗は、改めて彼女の方を向いて青いグラスを手に取った。


「まともな考えをしたウエイトレスなら、ゲストの談笑を遮ることはしません。あなたは全く無関係な人が犠牲になることに焦って、ちょっと無茶をした」


「それが、あなたの目に留まっていたのね。大した慧眼だわ……」


「ありがとうございます」


 生憎、香に皮肉は通用しなかった。


「あなたのウエイトレスという立場は、ターゲット以外が紫色のグラスを取りそうになるのを強引に阻止するという点においても、まさにぴったりというわけです。あなたは自らウエイトレスという役を演じることで、青と紫のグラスを確実に用い、被害者以外が紫のグラスを選ぶのを避けさせ、毒殺の成功率を高めたんです」


「……」


「さっきも言いましたが、ウエイトレスであればもし毒殺が失敗したとき、相手に逡巡の余地を与える前に『二の矢』を遂行できます。グラスは人数分しかありませんから、毒殺が失敗する=他のゲストが毒殺されるということになります。そうなると、毒殺が発生した時点で現場は混乱し、狙われる心当たりのある広田さんが警戒する恐れがあります」


「……」


「ターゲットの殺害が失敗しないように、あなたは『二の矢』は絶対に成功させなくてはならなかった。だから多少怪しまれることを覚悟の上で、ウエイトレスというポジションに身を置いたんです」


 勢いづいた香の推理は止まらない。


 肯定も否定もしない辻の態度が、ますます香の舌に油を注いでいる。


「一連の犯行は全てのスタッフに可能ですが、成功の確率を高められるのはあなたしかいないんです。アンケートのことを考えればなおさらです」


「……さっきからなにを言っているのやら。あなた少しおかしいんじゃないの?」


「自首してください、辻さん。きっと警察はあなたと広田さんの関係を突き止めることはできるでしょうが、あなたの犯行だと証明することはできないでしょう。だからといって、殺人は許されることではないですから」


「自首なんかしない!」


 辻が唐突に叫んだ。静寂の黒に黄色い声が響き渡る。


「あんな男、死んで当然でしょ!あいつはでたらめな投資で何人も、いや何百、何千人の人間を不幸にしてきたの!そんなやつを殺して私が罰を受けるなんてばからしい!」


「人数で測れるものではないですよ」


 香は澄まし顔で言った。


「え……?」


「相手が悪魔と呼ばれる存在であれなんであれ、あなたは一人の人間を不幸にしました。一体そこになんの違いがあるのでしょう?一人不幸にした殺人犯と数千人不幸にした投資家。私には、どちらも悪魔に見えるのですが」


「違う……」


「違くありません!」


 今度は香が激昂した。


「ここで逃げたら、いよいよあなたは広田さんと同じになりますよ。人を不幸にしておきながらのうのうと生きる、悪魔に成り下がりますよ」


「……」


 辻の顔が苦悩に歪む。良心の呵責、悪魔と同じにはなりたくないというプライド、自由への渇望、それと全て明らかにして楽になりたい気持ちがないまぜになり、整った顔に苦悶の表情を浮かばせる。


「私は、悪魔じゃない……!」


「そうですよね。私もそう思います」


「でも、捕まるのもイヤ……!」


 そう言い、懐からナイフを取り出して香に突きつける辻。


「なにをするつもりですか?」


「見逃して?」


「駄目です。罪は償われるべきです」


「じゃあ、あなたを殺して逃げる」


「できますか?本当は優しい性格の、あなたにできますか?」


「……」


 香と辻の視線が交錯する。


 辻は、香の叱るような窘めるような、熱く冷めた眼差しに圧倒される。


「……できない」


 やがて辻はナイフの刃先をゆっくりと、自分の方へと向ける。


「父の仇は取れた。悔いはない……」


「捕まるくらいなら死を選ぶんですか?つくづく幼稚ですね」


「幼稚?」


「自分の思い通りにならないから諦めるなんて、まさに子どものすることでしょう。ご両親の教育がうまくいってなかったんですね」


「父と母を悪く言わないで!」


「言われても仕方ないでしょう!」


 なおも駄々をこねる辻に、香の一喝が入る。


「生きられるのに死を選ぶ、罪を償えるのに逃げるなんて、あなたを育ててくれたご両親の顔に泥を塗る行為だとなぜ気づかないのですか!」


「……」


「罪を償って精一杯生きるのが、あなたにできる最善の行動です」


「……」


「どうしますか?悪魔になりますか、子どもになりますか?それとも、辻あかりという一人の人間であることに踏み留まりますか?」


「わ、私は……」


 辻の胸中に両親の顔が浮かぶ。


 絵本を読んでくれた母の声とぬくもり。少ない休みでテーマパークに連れていってくれた父の笑い声と大きな図体。


 ああ、懐かしいな。思い出したのはいつぶりだろう。


 ふっと、暗闇に涙が光った。


 ナイフが手から滑り落ち、カランと音を立てて床の上に落ちた。


「私は、父と母の子。辻あかり……」


 続けて、辻の体が崩れ落ちる。


 両手で顔を覆い、流れる涙をせき止めようとする。


 けれどもどうしようもなく漏れる嗚咽が、エントランスホール中に響き渡った。



 ※※※



 翌朝。辻あかりは刑事に罪の告白をし、自首が受け入れられた。


「しかし、メイドさんが犯人だったなんて……」


 事件が一件落着し、警察から解放されて山を下って帰る最中に聞かされた優斗は、なぜか落ち込んでいた。


「一歩間違えていたら、優斗さんが亡くなっていたかもしれなかったんですよ。気をつけてください」


「気をつけろって、なにをどう気をつければいいのさ」


「普段から注意力がなさすぎるんです。この前も……」


「まあまあ、いいじゃないの香ちゃん」


 お説教が始まることを察して、桜子が話に入ってきた。


 帰る方向は皆同じなので、昨夜招待された招待客たちは緩くグループを作って下山している最中だ。


「羽生さんは悪くなかったんだし、今後もショーが見られそうでよかったわ」


「そうですね。今回の費用は返金されるようなので、もう一度応募してみます」


「えっ、またここに来るつもり!?」


「なにを言っているんですか優斗さん。当たり前でしょう。ろくにマジックが見られず、おいしい料理も食べられなかったんですから」


「もう毒はいやだよ……」


「優斗さんが嫌でしたら、桜子さんと行きます」


「あら、ご指名が入っちゃったわね」


 大真面目な顔で残酷な提案をする香と、冗談めかした様子でふざける桜子。


 優斗は、とても二人にはかなわないと悟った。


「……僕も行くよ。行かせてください」


 まさに、毒を食らわば皿まで。


 とほほという擬音が似合いそうな優斗を置いて、香と桜子は帰る足を速めるのだった。

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