第五六話 逢瀬ですわ!
月明かりだけが照らす大広間、二人きりの空間。
一世一代の大舞台に立つ心構えのセバスだったが、相対するオディールはその真意を読みあぐねているようだった。
「踊る、って。貴方にしては随分単純なからかいをするのね?」
「いえ、私は本気です」
胸に手を当て、紅潮している頬を隠しもせずにセバスが言う。
そんな彼だったが、オディールが困惑しているのも無理はない、と内心で半ば諦めていた。
ここまで彼が主に頼み込んだことと言えば、公的な場での立ち振る舞いを意識せよ、程度のものしかない。
個人的な欲望をぶつけるのは初めてだった。
「そ、そう……」
退く様子のなさそうなセバスに、オディールが一層困惑を強める。
上記のような事情があることから、彼女はこの頼みに何か裏があると踏んでいた。
別の目的を達成するための手段として、自分と執事がともに手を取り合って踊る必要があるのだと。
顔を上気させているのも、自分との踊りが嫌で仕方がない、と考えれば、彼女の中では納得がいく。
「──ま、いいですわ。断る理由もないですし」
「! ほ、本当ですか」
「えぇ。私が嘘を言ったことがありまして?」
自然と二人の間に笑みが零れる。
セバスは自分の頼みを聞いてもらえたことで、オディールはそんなセバスの様子が微笑ましくて、つい口角を上げてしまう。
「さ、私の手を取って? 貴方に舞踏の何たるかを教えて差し上げますわ」
「は、はい」
珍しく、オディールの前でセバスが緊張し、手に汗を握る。
目にもとまらぬ速さで小さな布地を取り出し、汗を拭きとって再び仕舞った彼が、革靴を鳴らして踵の高い靴に歩み寄った。
ゆっくりと、しかし確かにセバスがオディールの手を握った。
「ちょっと、強いですわよ。もっと優しく、淑女に触れる際は陶器に触れるような」
「分かってます、ちょっと黙っててください」
「酷くありませんこと!?」
緊張でいっぱいいっぱいになっているセバスが、声こそ荒げないものの鋭い口調でオディールを刺した。
普段通りの鳴き声を放つオディールは、自分の手の柔らかさがセバスの理性を揺らがせていることには気付いていない。
何時にも増して理不尽な罵倒を喰らった、とだけ彼女の印象には残っている。
「……」
「……」
「……何か言ってください」
「何なんですの~!?」
ぎこちなく身体を動かすセバスに合わせて、オディールが踊る。
息を合わせるという点において、この二人を上回る組は帝国内に存在しない。
教えると言った手前見本のような舞踏を見せつけてやろうと思ったオディールだが、セバスは舞踏の基本である『相手の呼吸を読む』ことは完璧にこなしてくる。
そんな事情もあり、何方から何を言いだすこともなく、しばらく互いの体温に身を任せていた。
「──何時ぶりですか? こんなに穏やかな夜は」
「随分昔ですわね……ルーフェの屋敷に居た時も、中々お父様──いえ、クソ親父は許してくれませんでしたし」
オディールは、懐かしむような憎らしいような絶妙な顔で言う。
屋敷には、彼女にとってのいい記憶も苦い記憶も多すぎて、どの感情を前面に出していいものか制御できなかった。
よくわかる、と思いセバスが苦笑を零す。
「気持ちは分かりますが。口が悪いですよ、お嬢様」
「仕方ないでしょう? あんのクソ親父、今思い出すだけでもムカついてきますわ」
表情にまで怒気が浮かんできたオディール。
一方で、足運びは決して乱さない。
彼女の中で、父親よりも目の前の青年が占める割合の方が圧倒的に大きかったからだ。
「ま、それはそれとして。貴方は変わらないですわね」
「そうでしょうか。お嬢様ほどではないにせよ、私も変化を自覚しておりますが」
「本当ですか~?」
互いに互いの本心をぶつけ合い曝け出し合っているが、オディールの疑念も尤もだった。
セバスは執事として己を殺すことに長け過ぎていて、想い人の前でも基本は平静を保っていられる。
鉄仮面のようなその自制心のせいかおかげか、オディールに彼の真意は伝わらないまま。
「ところで。改めて言いますが、私はお嬢様に生涯付いて行く所存です」
「頼りにしてますわ。私にとっても、並び立つのは貴方以外ありえませんもの」
その『並ぶ』という単語の意味するところを詳しく聞きたいセバスだが、それがいくら何でも無粋だという事くらい彼にも分かる。
意図したところの半分しか伝わっていないもどかしさにやきもきする彼だったが、この関係性を居心地よく思っているのもまた事実。
しかし、事件の後のヘルツの発言が彼の頭に残響していた。
『彼女の横で見ているだけだったなら──わたしが貰っちゃうかもね?』
同性をも虜にするオディールの魅力を、このまま放っておいてもよいのだろうか。
身分違いなのは重々承知しているのだが、誰かの所有物になるオディールなど彼は見たくもない。
ならば、一生誰かのモノにならないように、自分が楔を打っておけば──
と、思考に埋没しかけた彼の耳に、空を飛ぶ鳥のような、涼やかで晴れやかな声が届いた。
「どうかして?」
青い月の明かりが、横合いから綺麗な金色の御髪を照らす。
彼の目には、暗い大広間の中、彼女の姿だけが切り取られたかのように鮮明に映る。
何年も踏ん張っていたものの、辛うじて保たれていた理性の糸が切れるには、それで十分すぎた。
「……」
「ぇ──」
二人の唇が重なる。
手のひらから伝わっていた体温が、顔からも伝わる。
顔から火が出ている青年は、自分の無礼を心中で詫びながらも、自分から離そうとしなかった。
令嬢はといえば、情報の処理に難儀しているのか、理解した上で拒む理由が見当たらないからか、されるがままになっている。
「──」
時間にして僅か一分にも満たない、しかし本人たちにとって永遠にも近かった接吻が終わりを告げる。
と、セバスが自分のやらかしに気付き、脳内で何から話したものか決めあぐねているうちに、唇が離れた瞬間俯いたオディールが口を開く。
「……今のは……?」
当然の疑問である。
セバスは、訪れ得る二つの場合を想像し冷や汗をかいていた。
一つは、これまで築いてきた信頼関係によって難を逃れ、何事もなかったかのように主従の関係に戻れる場合。
もう一つは逆に、これまでそういった素振りを見せてこなかったのに、唐突に口づけをしてきた相手への不信感が募って、切り捨てられてしまう場合。
可能性は低いと思いつつも、後者の結末を辿らないよう、燕尾服の青年は慎重に言葉を選ぶ。
「……い。嫌でしたか」
しまった、何を言っているんだ、とセバスは自分で自分を責める。
主が問うているのは行動を引き起こした理由・原因であり、彼の方から質問で返していいはずがない。
ただ、幸運なことにオディールもまた正常な判断力を失っていた。
「いえ、そういうわけでは」
繋いでいた手を離して顔の横で振るオディールだが、口に出してすぐに、自分は何を言っているんだと混乱状態に陥った。
結果、大広間の中心で、二人は頬を赤く染めたまま硬直してしまう。
セバスはこれ以上距離を詰めてはならないと本能的に理解しており。
オディールの脳内は描写が難しいほど、乱れに乱れている。
「──」
「……」
月の光に照らされる中、オディールがおもむろに右手を耳の横まで持ち上げる。
セバスといえどもこの時ばかりは主の意向を汲み取れず、鏡写しになるように左手を挙げた。
が、オディールはその動きを求めていたわけではなく。
「──ッ」
「ぶえっ」
セバスの左頬と、オディールの右手の間に乾いた音が鳴る。
がらんどうの大広間にその音が良く響き、不意の一撃を喰らったセバスの体幹が大きく崩される。
訳が分からず手を挙げてしまい目の焦点が合っていないオディールは、頬を紅潮させてその場から大広間の戸へと歩き出した。
日々鍛錬を積んだセバスだが、慮外の一撃で脳を揺らされてしまってはまともに立っていることも難しい。
「お、お嬢、ょう、様」
「──頭を冷やします! もう遅いですわ、貴方も寝なさい!」
ぴしゃりと言い放ち、オディールは大広間から出ていった。
ばくばく五月蠅い胸の鼓動が耳を占め、自分の靴が大理石との間に発生させる足音すら聞こえない。
寝床に向かうオディールの姿が窓に映る。
(何だったんですの、今の……)
冷静になろうとしてなり切れず、ただただ足を動かすだけ。
最終的に彼女が寝台に潜り込んだのは、屋敷を二周近く歩き回った後だった。
甘い、というかむず痒い!




