4. 君との道は万里の長城
絹人が職員室のドアを開けると、ちょうど陽向がおやつのチョコを食べているところだった。
「おー風綿!チョコ食うか?」
とりあえず怒ってはいないみたいだ。お小遣い減額の危機を回避し、絹人はほっと胸を撫で下ろす。陽向がデスクの引き出しを開けると、そこには多種多様なお菓子がぎっしり詰まっている。
「あ、はい、いただきます…」
陽向はニヤリと笑うと、乱雑な引き出しをかき回し、上等そうな金色の包装紙のチョコをがさっと掴んで絹人に手渡す。
こんなに食べてよく太らないなと思いつつ、差し出されたチョコを口に放り込むと、ほろ苦い甘さが広がった。
「ところで風綿あ、今日なんかぼけっとしてたよなあ?」
唐突である。
ぎく、と身体を固めた絹人を見て、陽向はからからと笑った。
「怒ってるわけじゃないからそんなに身構えんなよ。お前国語の成績いいけどさ、まあ気ぃ抜かず頑張れよな。それはそうと、今日の放課後って暇かな?」
「暇ですけど」
帰宅部の絹人に放課後の用事なんてあるわけがない。怒られなかったことに安堵しつつ、彼は訝しげに次の言葉を待った。
「国語の成績上位者集めてさ、トップ校向けの講座やろうと思うんだけどどうかな。ほんの思いつきだから、そんなに人呼んでないけど」
「はぁ」めんどくさいな、と思ったのがそのまま顔に出た。
「休日課題免除だよ」
「行きます!」
全く現金なやつだ、と笑いながら、陽向はチョコを口に放り込んだ。
「じゃあさ、隣のクラスの梔倉って子も呼んできてくれない?」
「し、梔倉っ!?」
「今日残るように言ったんだけどさ、場所伝え忘れたんだよね。頼むわ」
確かにこれまでずっと梔倉とお近づきになることを熱望していたが、さすがに今日は心の準備が出来ていない!絹人は動揺を隠せず、ひたすらアワアワしてしまった。
「何、知り合い?」
「いや、そういうわけでは」
「まあ、あいつ目立つもんなあ…」
明らかに様子のおかしい絹人を見て、陽向は訳知りげにニヤついた。
「まあ、がんばんな!2B教室に集合ね!」
背中をばん、と叩かれ、その勢いのまま陽向のいる2年1組の教室前まで来てしまった。これだから教師というのは嫌なんだ。生徒の繊細な感情にはお構いなしで熱血を押し付けてくる!いったいなんて話しかければいいんだろう。やあ梔倉さん、さっき図書館で会った風綿です。…ってこんなキザな話し方キモいかな!?こんにちはって話しかけるべき?ああもう、女の子に話しかける時の第一声なんてわからない!
絹人がプチパニック状態に陥っていると、教室のドアがガラリと開いた。
窓から吹き込む風に乗った、爽やかな甘い香りが鼻腔をくすぐる。梅雨の時に咲く、雨で濡れた白い花の香り。自分でも気持ち悪いことに、誰がドアを開けたのか、絹人は香りでわかった。
「うわっ、梔倉さん!あの、陽向先生が2Bに来いって」
「あなたは確か…いつも図書館で見てくる人よね」
自業自得とはいえ、ストーカーとして認知されていることに改めて面食らってしまった絹人は、より一層パニックに陥った。
「エッアッ……そうです、僕が風綿絹人です」
「先生が一体何の用かしら。あなた、ご存じ?」
彼女が斜め30度に頭を傾けると、豊かな黒髪がたわんで光る。その芝居がかった動作は、絹人の緊張を幾らか和らげた。この人は中二病、ただの超美人な痛い子なんだ、別に緊張することはない……
「成績優秀者を集めて、国語の特別講座をやるらしいんです。休日課題も免除になるらしいです」
ふぅ、とため息をついた梔倉は後ろ手でドアを閉めた。
「講座、ねえ。私にはそんなもの、必要ないんだけど。まあ、課題が免除になるなら参加してあげてもいいわ。ちょっとお手洗い行ってくるから、待っててくれない?」
「は、はい!」
これはもしかして、一緒に教室までいこうっていうお誘いか!?素敵な予感に胸が激しく脈打つ。普段眠気覚ましにしか使わないフリスクを大量に口に放り込んでむせている時、タイミング悪く彼女が帰ってきた。
「大丈夫?」
「ゴホッ……いやゲホッ……気に、気にしないで……」
涙目で咳き込んでいる絹人を一瞥すると、彼女は唇を片端だけ歪め、無言で歩き出した。うう、これは引かれてしまったか……出だしから失敗してしまった絹人は、とぼとぼと彼女の後をついていくしかなかった。しばし無言が続き、2人の間を運動部の掛け声だけが通り抜けていく。
普段遠巻きに眺めていた時には気付かなかったが、完璧に整った造形の彼女が放つ威圧感は相当なもので、なるほどこれは男が寄り付けないのも納得である。夢に見た「2人きりで歩く」というシチュエーションなのに、仮面のように無表情を崩さない彼女と歩くのはとんでもない居心地の悪さで、もう帰りたくて仕方がない。緊張のあまり思わず何度も唾を飲み込んでしまい、その音が聞こえやしないかと絹人がヒヤヒヤしている時だった。
「絶望記」
突然、梔倉が呟いた。
「え?」
「新米蝶々絶望記。風綿さんも好きなの?」
「あっ、はい!」
「そうなんだ。ふふふ…なんで敬語なの?私たち同級生じゃない」
「そ、そうだね…うん」
梔倉がまた唇を歪めた。もしかしてこれは笑顔なんじゃないか?と、察しの悪い絹人もようやく気づく。
「私以外でこの本読んでる人、初めて会ったかも。面白いわよね」
「僕も!だから梔倉さんが読んでるの見た時すごいびっくりしたよ」
「最後本当に新米だったっていうのがいいわよね。不条理なものって好きよ」
「あれは笑ったなあ…ガチのお米なんかい!って」
最初の居心地の悪さが嘘のように、一度弾んだ会話はぽんぽんと跳ねていく。梔倉さんって無表情に見えるけど、よく見ると唇の端が歪んだり眉毛が上がったり、細かいところが動いてるんだ、と絹人は気づいた。
「梔倉さんって他にはどんな本が好きなの?」
「私、基本的にホラーか児童文学しか読まないの」
「極端な2択だね!?」
「ホラーも児童文学も……恋愛ってノイズが無いのが好きなの。余計なことでごちゃごちゃしないで、どんどん話がすすむから」
「へ、へえ。恋愛ものは嫌いなの?」
「嫌いというよりは、よく理解できないだけ。風綿さんは恋愛のこと、わかるの?」
「うぐっ!!!そ、それはご想像にお任せします」
体を硬直させた絹人を見て、梔倉は喉の奥でククッと笑った。からかわれたのだと気づいた絹人は、少しにやけてしまった。夢想していた憧れのミューズとは違い、梔倉は意外にもよく喋るし、結構俗っぽい。抱いていた幻想よりも、現実の彼女の方がずっと魅力的だ。ああ、2B教室までの道が万里の長城くらいあったらいいのに、と絹人は願った。




