3. 活字中毒ボーイ
風綿絹人は活字中毒である。
朝から晩まで日がな一日、純文学でも哲学書でも、はては調味料のラベルでさえも読み耽っている。貴重な睡眠時間を小説に捧げているため、授業中はもちろんぐっすり快眠である。
そんな彼の成績といったらそりゃもうお察しの通り、国語以外は壊滅的なわけで。
親からのお小言を回避するためにも国語の授業だけはちゃんと聞いて成績を維持していたが、今日という今日はそれも無理そうだ。
梔倉天の演技がかった動きが、目に焼き付いて離れない。アニメのキャラぶって行動しているのは痛すぎるが、間近で見た彼女はそんなことどうでも良くなるくらい綺麗だった。傾国の美姫とはああいう人のことをいうんだな…と、朝一番の漢文の授業で彼は完全に放心状態だった。
『梔倉さんって、やっぱ厨二病拗らせまくった痛い子なのか??いやでも文学作品好きなオタクだったら仲良くなれるかも……にしても近くで見ても美人だったな…』
「だから~!!ここで返り点を打つわけよ!」
教室中に響く大声が、絹人の思案と鼓膜をぶち抜いた。声の主は、国語教師の陽向アオイである。
陽向アオイ。彼女はそのバカでかい声量とは裏腹に、どこからそんな声が出るんだと思うほど非常に小柄である。しかもまだ20代らしく、小柄で若い彼女は当初生徒に舐められがちであった。しかし経験が浅いとは思えない的確な指導と、彼女がかなり偏差値の高い国立大学の院卒であるという噂が周り、いつのまにか皆に好意的に受け入れられるようになっていた。(進学校の生徒とは多かれ少なかれ権威主義的なところがあるので、後者の理由が大きいことは否めないが。)
成績も運動も目立つところがない絹人は、なんとなく教師という生き物全体に苦手意識があるのだが、そんな彼でも陽向のことは嫌いではなかった。学年トップの梔倉や一軍運動部どもと態度を変えることなく、冴えない生徒にも平等に接する陽向は、生徒に負けず劣らず権威主義者ぞろいの呂色高校教師陣の中では少し異質だった。
陽向先生の授業なんだから、集中しないと。…しかしやっぱり今日は無理だ。いくら集中しようとしても梔倉ショックがでかすぎる。陽向からの視線を感じてはいたが、絹人はただノートの片隅に小さな丸を書き込んで思案にふけることしかできなかった。
今日の授業は結局ずっとこんな調子だった。複素数も5W1Hもアウストラロピテクスも、右から左に抜けていく。気づけばいつの間にかホームルームの時間になっていた。今日はもう早く帰って寝よう。教室の時計を見ながら、絹人がそう思っていた時だった。
「えーっと…他教科からの連絡事項はっと。」
クラス担任の真川が、めんどくさそうに手元のファイルを確認する。
「国語科の陽向先生からだ。風綿?風綿、いるか?」
典型的なえこひいき教師である数学科の真川は、クラスを受け持って1カ月にもなるのにまだ絹人の顔を覚えていないらしく、あたりをきょろきょろと見まわした。しかし当の本人は梔倉のことを考えるのに夢中で、全く気づかない。
「絹人く~ん、呼ばれてるよ?」
隣の席の女子、九重トキワからシャーペンでつつかれてようやく、彼は自分が呼ばれていることに気が付いた。
「は、はい」
「放課後に職員室の陽向先生のところまで行くように」
「えっ…?」
明らかに不思議そうな顔をしている絹人にかまうことなく、必要事項を伝えた真川はさっさとホームルームを終え、帰って行ってしまった。
呼び出されるようなことをした覚えはない。強いて言えば今日ぼーっとしていたことくらいだが、陽向はそれくらいで怒るようなタイプではないと思っていたけど…
国語の評価まで下げられたら、両親、特に母親の激怒は目に見えている。下手したらお小遣いを減らされるかもしれない。そんなことをされたら、新刊の小説が買えなくなってしまう。
最悪の想像をして落ち込んでいる絹人に、小さな影がぴょこぴょこと近寄ってきた。
「ねえ~絹人くん、アオイちゃんに呼びだされるなんてさあ、何したの?」
揶揄うような明るい声。先ほど絹人をつついて教えてくれた、隣の席の九重トキワである。
教師である陽向をちゃん付けで呼んでいることからわかるとおり、トキワはいわゆる一軍の人間だ。だが彼女は絹人の幼馴染でもあり、そのよしみからかカーストを気にせず何かと話しかけてくる。何度席替えをしてもなぜか彼女の近くになってしまうので、不思議な縁もあるものである。
絹人も背が高い方ではないが、その彼を見上げて話すトキワの身長は、大体140センチ前後といったところか。栗色のショートカットでこぼれるように大きな瞳の彼女と話すとき、絹人はいつもゴールデンハムスターみたいだな、と思っていた。
「いやあ、僕もなんでかわからなくて」
「何それ!まあ絹人くんまじめだもんね、怒られることはないんじゃない?」
「そうだといいけど…とにかくいってみるよ」
「は~い、いってらっしゃい!」
花が咲いたようなトキワの笑顔に見送られ、絹人は足早に教室を出た。




