21. 初デート狂乱記
その日は目覚ましが鳴るより早く目覚めた。いつも2度寝、3度寝を繰り返す絹人が今朝のようにスッキリ目が覚めることは非常にまれである。
起きてすぐスマホを手に取り、チャットアプリを立ち上げる。トーク画面の一番上には、スタンプのみの梔倉の返事。
1階に降りて顔を洗う。少しでもコンディションを整えるために、母親の化粧水を勝手につけてみた。鼻にツンと来る柑橘系の香りに、絹人は思わず顔をしかめる。
リビングのドアを開けると、朝食を用意していた母親が驚いた顔で絹人を見た。「あんたが休みの日に早起きだなんて、今日は雨が降るのかしら」というからかいを聞き流しつつトーストにかじりつく彼の頭の中は、デートのプランであふれてごちゃごちゃだ。歯を磨いて身支度を整え、重い鞄を持って地下鉄に乗りこむ。映画館最寄駅までの道中ずっと、彼の思考はフル回転していた。
「上洲山端、上洲山端……」
駅に到着したアナウンスで、ぱっと思考が中断された。急いで電車を降り、待ち合わせ場所の改札に向かう。待ち合わせは11時、今は10時45分だ。あと15分がとても長く感じて、絹人は改札前で所在なさげに佇んだ。スマホの暗い画面に顔を映し、寝癖がないか何度もチェックする。そうこうしているうちにもうすぐ11時だ。
地下鉄の到着を知らせるアナウンスが鳴り響き、人の群れがわっと改札に向かってきた。絹人は段々と速まる鼓動を感じながら、改札を凝視する。こんなに人が多いから、はぐれてしまったらどうしよう?
しかしそれは杞憂だった。我先にと改札に詰め寄る騒がしい群衆の中、彼女はゆったりとした足取りで現れた。薄い色のダボッとしたデニムに、ラベンダー色のチェックカーディガン。シンプルな格好が彼女の長い手足に映えている。
「お待たせ」
「こここんにちは!全然待ってないから、大丈夫!」
初めて見る私服の梔倉。その破壊力はすさまじく、絹人はすっかり舞い上がってしまった。映画館までカッコよくエスコートしようと思っていたが、頭が真っ白になってしまい何番出口から出るかも思い出せない。あたふたしていると、梔倉がサッと歩き始めた。
うわー、出だしで躓いてしまった。絹人は後ろで頭を抱える。映画は11時30分からだし、焦ることなんてなかったのに。大体先に2人分のチケットをささっと買えてたらカッコよかったけど、クレジットカード決済しかできなかったんだよな…
ぶつぶつ考えている絹人の前を、梔倉は颯爽と歩いていく。すれ違う人達は皆、彼女の美しさに目を奪われてざわついている。そんなことを気にも留めない素振りで飄々と歩く梔倉は、堂々と映画館の反対に進んでいた。
「梔倉さん、多分映画館、あっちかも」
「そうなの?適当に歩いてたわ。道知ってるなら先導してくれないと困るじゃない」
この人、道を知らずにあんなにカッコよく歩いてたのか。絹人は少し呆れつつ、気を取り直して彼女を映画館まで案内した。駅から少し離れた通りにあるそこはいつもマイナーな映画を上映しており、休日なのに観客が自分しかいない時もあって採算が取れているのか心配なほどだ。絹人が指し示した赤茶けたレンガ造りの建物を見て、梔倉が感嘆の声を上げた。
「前を通るたびに、可愛い建物があるなって思ってたの。ここ映画館だったのね」
「一応看板あるんだけどね、ほら」
絹人が指さしたそれは、何やら文字が書かれた板のようである。すっかり錆びた看板にレンガから伸びた蔦が絡みつき、もはや何が書いてあるかすら読めない。梔倉は唇を軽く歪めた。
重いドアを開け、映画館のロビーに入る。絹人は電光石火の速さでチケットを2人分買った。ミッション、コンプリート。
期待していた映画自体は案の定、お世辞にも褒められた出来ではなかった。CGはとんでもなく安っぽいのに、何故か効果音だけが妙にリアルでアンバランスだ。血と吐瀉物で染まる汚い画面を観て、向こうのセレクトとはいえデートには最悪すぎるチョイスだったな、と絹人は頭を抱えた。
彼女の反応が怖くてチラリと横に目をやると、意外にも食い入るように観入っていた。汚い画面の光が美しい顔にかかり、円いおでこ、眉間から鼻先にかけてのなだらかなライン、ふっくらした唇を際立たせる。絹人はふと、今後の人生で自分が書く詩は全部彼女に捧げるだろうなと確信に似た予感を感じた。手を伸ばせば触れる位置に梔倉さんがいる。どうしてB級映画って上映時間が短いんだろう。これがインド映画だったら良かったのに。映画が終わった後もこの距離を離れがたく、エンドロールまで座って観て、梔倉が席を立つまでじっとしていた。
「いやー、映画すごかったね」
「次作、カピバラオブザ・デッドだって。絶対見たいわ」 珍しく興奮した様子の梔倉は、手をブンブンと振って嬉しそうだ。
「カピバラゾンビって想像つかないよね。……ゾンビかぁ。前までは映画の中のものだと思ってたけど、現実に見ちゃったよね」
「そうね。映画よりもっとすごかったわ」
そうだ。自分たちは、この世界に存在する本物のゾンビと戦ったのだ。映画の血糊とはレベルが違う、本物の血に塗れて。絹人はごくりと唾を飲み込んだ。
それにしても、さっきから周りの視線が痛い。嫌でも注目を集める彼女の隣を自分みたいな平凡チビが歩いているせいか、好奇の視線がバシバシに突き刺さる。被害妄想かもしれないが、彼は居心地の悪さで身を縮めた。
「あのさ、どっかでご飯食べない??ゾンビについて頭整理したくてさ」視線を逃れたくて提案すると、梔倉がぶっきらぼうに頷いた。
「どこがいいかな?何か食べたいものとかある?」
「私にとって食事は栄養摂取のための行為。そこに好悪はないわ」
長い髪をかきあげながら遠い目をして答える梔倉を、絹人は生暖かい目で見る。出た、厨二病。この前エリナケウスで出されたスコーンをむさぼり食ってたくせに……そうだ!!絹人は名案を閃いた。
「この先にパン屋さんがあるんだけど、そこスコーンが有名らしいよ!どうかな」
スコーンと聞いてピクリと反応した梔倉は、「まあ、いいんじゃないかしら」ともったいぶって答えた。
映画館から少し歩いたところにある公園。そこに目当ての店がある。ドライフラワーで飾られた可愛らしい店の前には、もう昼下がりだというのにまだ列が並んでいた。ガラスから店内を覗き込みながら、梔倉は興味深そうに呟いた。
「可愛い。風綿さん、よくこんな店知ってたわね」
「親がパン好きでさ、時々買ってくるんだよ」
「おすすめはあるかしら」
「やっぱり明太フランスかな」
明太、いいわね。梔倉はそう呟くと、また熱心にガラスを見つめ始めた。こんなに凝視するなんてよほど気に入ってくれたんだな。連れてきてよかった。……いや、これガラスに映った自分を見てるだけか。
案外回転が速く、列の割にはすぐ店に入ることができた。だがイートインは満杯で座れないようで、結局テイクアウトか、そう思いながら絹人はハーフ明太フランスとノンカフェインのコーヒーを買うことにした。
「梔倉さんは…」後ろに並ぶ彼女に声を掛けようとした絹人は、驚きで言葉を失ってしまった。
「おすすめの明太フランスと、ほうじ茶のスコーンと、キャラメルナッツのマリトッツォとあとクロックムッシュと…」
「えっと…ここはぼぼぼぼぼくが出すから、飲み物選んでよ」予想外の出費に震える手で財布を取り出す。
「奢るなら先に言ってちょうだいよ。それならもっと買ったのに。これくらいなら自分で出すから、結構よ」
「で、でも」
もだもだしているうち、人気店のさすがの客捌きであれよあれよと会計され、絹人は店外に押し出された。そのすぐ後に、梔倉が彼の2倍くらいに膨らんだ袋を掲げて満足そうに出てきた。もう片方の手には最大サイズのアイスコーヒーが握られており、絹人はその胃袋の強靭さに再度驚く。
「結構買ったね」
「そう?これでも絞ったのよ。逆に風綿さんは足りるの?飲み物も小さいわね」
たわいない会話をしながら、公園の机まで歩く。映画館近くのこの公園は、子供たちのためというよりは老人たちの憩いの場に近い。小さい池や慎ましく整った花壇、そして小さなベンチとテーブルがいくつかある。いい感じに木漏れ日が射しているベンチに座るよう促すと、梔倉が顔をしかめた。
「最後に掃除されたのはいつかしら?虫が落ちてきたら嫌だわ」
その言葉を予想していた絹人は、ベンチにさっとハンカチをしいてあげた。親戚のおばさんがくれて以来一回しか使ってない、ブランド物のチェックのハンカチだ。おばさん、本当にありがとう。いつもズボンで手を拭いててごめん。
彼女は唇を歪めると、さも当然というような落ち着きはらった態度でそこに座った。
爽やかな昼下がり。春は終わりかけ。茶色くなった桜の花びらが足元に散っている。
「なんか、まだ信じられないや」 絹人が口を開いた。
「私も。石がなければ夢だと思ってそう」
「もう能力をコントロールできるようになった?」
「いいえ。まだ波があるのよ」
彼女の白く美しい手が空中でさっと揺れる。すると地面に積もっていた桜の花びらがさあっと舞い上がり、くるくると踊り始めた。一度散った桜が再び命を与えられ、花びらの台風が巻き起こる。その中心に佇む彼女は言葉では表せないほどの美しさだった。花の女神、春の天使…心の中でポエムを読み始めた自分をなんとか止めて、絹人は拍手した。
「ほんとにすごいよ。僕はまだ、練習の仕方もわからないのに」
「最初から使えるのは天才だけだって組織の人も言ってたでしょ。私が特別なだけなんだから、そこまで焦らなくても大丈夫よ。ん、確かに明太フランスおいしいわ!センスいいじゃない」硬い明太フランスをガジガジと噛みながら、梔倉が雑に慰める。
「まあ、喜んでもらえてよかったよ」
「私、見ての通りすごい美人じゃない」
「う、うん。急にどうしたの」
「皆私の美しさに恥じ入っちゃって…実は、こうやって外で遊ぶ友達があまりいないの。だからお店もあんまり知らなくて。今日は映画館もパン屋さんも教えてくれて、感謝するわ。私を誘えたその勇気にもね」
鼻の下にマリトッツォのクリームをべったりつけながら、梔倉はまっすぐに絹人を見た。どんな能力もかなわないだろうまっすぐな視線に射抜かれて、絹人の心臓は止まりそうになる。二人の間にさわやかな沈黙が流れる。
永遠にも思われるような春の静けさは、スマホの着信音でかき消された。
「もしもし」 絹人は慌てて電話を取った。
「こちら、陽向だ。このまえ学校でお前たちを襲ったゾンビが目を覚ました。今暇か?なら迎えをよこすから、エリナケウスまで来てくれ。なに?梔倉も一緒?やりおるな風綿ぁ!まあそれはいいや、じゃあ公園に向かわせるから」
陽向は言いたいことだけ言って電話を切ってしまった 。
「陽向先生からの電話だった。ゾンビが目を覚ましたから、今から僕たちを迎えに来るって」
「ゾンビが目を覚ますってどういうことかしら。とりあえず、公園で待っとけばいいのね」梔倉はあと半分ほど残ったアイスコーヒーを一気に吸い上げた。
彼女のカップが空になるタイミングで、ちょうど迎えの車が到着した。早速乗り込み、連れて行かれたのは県で1番大きい大学病院だった。




