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 ワインのボトルとグラスを乗せたトレーを手に回廊を進む。遠くで舞踏会の賑やかな気配を感じるが、薔薇の宮は静かなものだった。

 

 踊り終え、あちこちから賛美を受けたジョエルは参列者に残りの時間も楽しむように言うとセルジュを伴い会場を後にした。それからセルジュにワインを何本か用意するように言うと部屋へ戻って行った。

 

 ——今夜、私の部屋へ来い。

 

 その囁きが耳から離れない。

 これまで夜に誘われたことはなかった。そもそもセルジュがジョエルに付き従うようになってから、彼女が誰かと寝床を共にしたことはない。

 それが何故急に……と、考えそうになり、慌てて頭を振る。

 そんなことを考える必要はない。ジョエルが望んだことを、望むようにするのがセルジュの役目だ。

 

 それに……一時の慰めの相手に僕はピッタリじゃないか。陛下の玉体を傷つけることもなければ、妊娠させてしまうこともないのだから……。

 

 これは過分な栄誉であり僥倖なのだ。

 

「お疲れ様です」

 

 なるべく普段通りに近衛兵に挨拶して応接間、そして寝室へ続くドアの前で立ち止まる。

 一度深呼吸をしてからノックする。

 

「陛下。ワインをお持ちしました」

 

 入れとの声に意を決してドアを開ける。

 テーブルの上のランプのぼんやりとしたオレンジ色の光が、部屋の中に濃い影を作り出している。ソファーの上には軍服の上下にシャツ、サッシュ、それに足元にはドレスシューズまで脱ぎ散らかしてある。侍女たちには早々に休んでいいと伝えていたため、一人で着替えたのだろう。

 それで、当の本人は——?

 

「ここだ」


 影から滲み出るように、ジョエルが姿を見せた。いや、はじめからすぐそこに居たのだろうが、セルジュには見えていなかったのだ。

 何せ今のジョエルの格好はいつもの軍服でもバスローブでも寝巻きでもない。夜闇に紛れる夜盗か間者かとでもいうような全身黒の服装だった。

 驚きのあまり声も出なかったセルジュは、かろうじて陛下?とだけ声を漏らした。

 

「まずは酒を置いて座れ」

 

 言われるがままテーブルに盆を置き、そろそろとソファーに座る。ジョエルも斜向かいに座った。

 

「そ、の……格好はいったい……?」

「私はこれから宮殿を抜け出す」

「は——!?」

 

 思わず大きな声が出そうになった口を、分かっていたかのような速さでジョエルの手が塞いだ。そのまま声を潜めて囁く。

 

「おまえは私の晩酌に付き合う——という体でここで留守番だ。いいな?」

 

 じわじわと顔に熱が集まるのが分かる。なんて勘違いをしていたのだろうか。浅ましい。恥ずかしくてたまらない。

 セルジュが羞恥心に逃げ出したくなる気持ちを抑えて頷くと、ようやくジョエルの手が離れた。

 

「誰も来ないとは思うが、来た時は適当に誤魔化してくれ」

「お待ちください」

 

 頼んだぞと言って立ち上がるジョエルに思わず追い縋る。

 

「どちらに行くのですか?護衛は居るのですか?」

「そう遠くには行かないし、護衛も居るから心配するな」

「はい……」

「夜明け前には戻る」 


 ぽんと肩を叩くとジョエルは窓に向かって歩き出した。目を凝らさねば見失ってしまいそうな背中を必死に見つめる。

 

「——!」

 

 ジョエルの姿がカーテンに隠れる寸前。窓の向こうに人影が見えた。

 ジョエル同様黒ずくめで顔まで隠していたが、唯一見えた目元にぞわりと鳥肌が立った。

 暗かったし、距離もあった。それにほんの一瞬のことだったがあれは、あの目は——。

 

「ドニ……メレス卿……」

 

 

 

「さて行くか」

 

 ジョエルはまるで散歩に行くかのような調子で言った。外套のフードを深く被り、バルコニーの手摺りに手をかける。

 

「“影”を使えばいいのに、なぜあいつなんですか」

「私は誰でも寝室に入れるわけじゃない」

 

 ドニの目が不服を訴える。それを無視してジョエルは行くぞと言うと手摺りを飛び越えた。

 

 

 

 多くの貴族が集まっていることもあり、宮殿の警備はいつも以上に厳重だった。しかし協力者が居れば内から外に出ることはそう難しいことではない。宮殿から出て行く馬車の一つに身を潜めたジョエルとドニは人目がないことを確認すると、馬車から降りて大通りから一本裏の通りに素早く移動した。

 夜更けの裏通りは人気もなく、時折通りの向こうの酒場から賑やかな声がするが、それ以外は静かなものだった。住民たちは自分の家の前を皇帝が走っているなど夢にも思わないだろう。

 二人はある一軒の家の前で止まると不規則なリズムでドアを叩いた。

 少しして、ドアが薄く開き、左下に泣き黒子のある明るい茶色の目が覗いた。そしてフードを少し持ち上げたジョエルと目が合うと、人が入れる程度にドアを開けた。

 最初にジョエルが入り、次にドニが通りの左右に目を走らせてから身を滑らせるように屋内に入ると、しっかりとドアを閉め鍵をかけた。

 

「お待ちしてました、陛下」

 

 頭を下げて出迎えたのは栗色の髪を一本の三つ編みにした若い女——親衛隊の一人であるアンヌ・アギヨン。

 アンヌはこちらですと言って奥に案内した。小さなホール、階段横の台所を抜け、産室と書かれた古びたプレートが掛かるドアを開けた。


 ランプの灯りがぼんやりと狭い室内を照らしている。お産椅子に小さなキャビネット、揺籠。壁には絵が掛けられているが、詳しくは見えない。


 目的の人物は、壁際のベッドに居た。

 胸に抱いた赤ん坊の背中をゆっくりと叩くその手は痩せ細り、俯く顔を覆う金髪はパサついて乱れている。

 久しぶりだなと言って近づくジョエルに、ようやく女は顔を上げた。

 ジョエルは顔を顰めた。

 女の目は落ち窪み、頬もこけている。暗がりでも分かるほど顔色も悪い。宮殿に仕えていた時の身綺麗さとは程遠い姿だ。

 

「ジョエル様……」

 

 ニノンの目からぽろりと大粒の涙が溢れた。堰を切ったように涙を流しながら謝罪を繰り返す。その声は見た目と同様弱々しい。

 “影”からの報告で産後の肥立ちが悪いと聞いてはいたが、これほどまでとは思っていなかったジョエルは少しの困惑を覚えながら丸椅子を引き寄せてベッドの横に腰掛けた。ちらっと視線を向けると、赤ん坊は母の苦悩などまるで知らぬ安心しきった顔で眠っている。瞳の色を確認することはできない。

 

「泣くな。赤ん坊が起きるぞ」

「はい、すみません、すみません……」

「謝罪はいい。いくつか質問する。正直に答えろ」

 

 涙は収まらないが、ニノンが頷いたのを認めて口を開く。

 

「兄上の子で間違いないのだな」

「はい……」

「妊娠に気づいたのはいつだ」

「お暇を頂いてからです……」

「なぜその時すぐに知らせなかった」

 

 怖かったのですと震える声が言った。

 

「リシャール様の子を妊娠したことが知られれば、どうなるのか……。たとえ皇位継承が済んだ後であっても、庶子だとしても、争いの火種になる可能性は十分にあると考えた時……私はこの子を守れるのか、自信がなくて、怖くなったのです」

「そうして一人で抱え込んだ結果、政敵に身柄を押さえられでもしたらどうするつもりだった」

「それは……」

 

 ニノンが口ごもる。そこまでは思い至らなかったのだろう。リシャールだけが、もしかしたらの可能性でしかない先のことを慮り、彼女に“影”をつけた。もしもの時、ニノンの助けとなれるように。ジョエルが助けると分かっていたのだ。

 短くため息を吐く。

 

「兄上の思惑通りに動かされているようで癪に障るが、まあ良い。選択肢を与えよう」

「選択肢、ですか……?」

 

 ジョエルが、一つはと言いながら指を立てる。

 

「兄上の子であることを公表した上で宮殿での保護。もちろん皇族としては認められんし、最終的には神に仕えてもらう。これは絶対だ。だがそれまでの間母子は共に暮らせる」

 

 皇后以外との間にできた子は皇族と認められず、成人した後爵位を与えられ臣下となるか高位貴族に嫁ぐのが通例だ。しかし、金眼を持って生まれた場合は扱いがまた異なる。皇后の養子となるか、教会に入れるかの二択となるのだ。リシャールはすでに亡いうえ先の皇后はリシャールよりも前に亡くなっている。そうなると皇帝の庶子として生きる道は後者しかない。

 

 二つ目、ともう一本指を立てる。

 

「皇族とは一切関係のない一市民として生きる」

 

 信じられない、と言わんばかりにニノンの目が大きく見開かれる。

 

「可能なのですか……!?」

「当然、代償はある」

「代償、とは……?」

 

 不安に曇ったニノンに向かって、ジョエルは己の目を指し示した。

 

「目だ」

 

 ニノンが息を呑む。

 

「抉るか切り裂くか、毒物を使うか……一番障りのない方法で、金眼という皇族最大の特徴を消す」

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